田中功起『抽象・家族』@あいちトリエンナーレ2019





田中功起『抽象・家族』(2019)
Tanaka Koki – Abstracted / Family (2019)

田中功起は、物と物の関係性を捉えた初期の作品を経て、2010年ごろから複数の人間の共働的な関係を捉えた作品に取り組むようになり、その方向性を共同体的なものに拡大させながら継続している作家である。近年の活動としては、2013年の第55回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館で展示された「抽象的に話すこと 不確かなものの共有とコレクティブ・アクト」、2016年に水戸芸術館で開催された展覧会「共にいることの可能性、その試み」、2018年にミグロ現代美術館で展示された「Vulnerable Histories (A Road Movie)」などがある。

本作の展示空間は愛知県美術館のなかでも最大の面積を占めており、用いられたメディウムはキャプションによると「映像、絵画、写真、ラジオ、アーティスト・ノート、エンド・クレジット、テーブル、椅子、その他」となっている。これらが指すものは以下の通り。

・映像:3点([ビデオ1 展示室奥の区画、プロジェクターによる展示]28分|[ビデオ2 仮設壁の区画、モニターによる展示]33分|[ビデオ3 入り口左の区画、プロジェクターによる展示]47分)
・絵画(布にペイント):1点(入り口正面)、8点1組(入り口右の壁面)、1点(仮設壁に掛ける)、9点1組(展示室奥の壁面高所)、2点1組(上映ブース1の入り口)、1点(展示ケース内)
・絵画(紙にペイント?):2点1組(仮設壁に掲出)
・写真:街並み1点(入り口横)、家族の記念写真 4点1組(展示室奥の壁面)、無人のテーブルと椅子 1点(展示室奥の壁面)、地面に掘られた穴 1点(仮設壁)、抽象画の部分 2点(仮設壁および上映ブース3の壁面)、抽象画制作中のスタジオ 1点(入り口右の壁面)
・ラジオ:Soundcloudで配信されている蔵屋美香と田中による擬似ラジオ「補遺 – 社会と抽象ラジオ」http://soundcloud.com/koki-tanaka
・アーティスト・ノート:田中によるテクスト5点「アーティスト・ノート:抽象・家族」「ルーツ」「家族1」「家族2」「社会関与的抽象絵画」
・エンド・クレジット:スタッフクレジット2点1組
・テーブル、椅子、その他(映像内で使用された物品):テーブル、椅子、ビニールホース、ショベル、ボウル、刷毛、プラスチックケース

展示空間内には、これらのメディウムが中心を欠いた状態で分散的に配置される。その入り組んだ構成は、作品の構成要素が散乱したような状況にあり、観客の回遊行動に応じて作品読解のランダムアクセスを高めるものとなっていた。このような手法はこの作家の特徴といえるものであるが、愛知県美術館の広大かつ天井の高い空間は、その空間的な一体感によってミクロな観点とマクロな観点を共存させる機能を果たしており、その点では大変面白かった。

さて、本作のコンセプトは、出演者らに共同生活を送ってもらい、その擬似的な家族関係において非常に個人的な内容の対話を行ってもらう。加えて、共働作業として抽象絵画の共同制作なども行ってもらうというものである。映像に登場する4人の出演者は、両親のどちらかが日本以外にルーツを持ち、かつ日本国内で生活する人々である。

まず、本作における共働作業、そのなかでも重要な位置付けにある抽象絵画の共同制作について述べたい。水戸芸術館での『一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置』(2015-2016)でも朗読・料理・陶芸といった共働作業が行われていたが、本作ではそれが抽象絵画の共同制作に置き換えられている。展示で掲出されたテクスト「社会関与的抽象絵画」には、「抽象絵画は、色と形を認識しうる視覚機能を備えた、ある意味では普遍的な人間像を観客として想定する。それは時代や地域、人種も超える。抽象絵画は、その意味では、平等という思想を前提にしている」という記述がある。このテクストを補強する役割を担うのが、蔵谷と田中による擬似ラジオで、その歴史編では、抽象絵画の歴史が社会的な観点から語られてゆく。そのなかでリー・クラズナー、ヒルマ・アフ・クリント、ゾフィー・トイバー=アルプという、抽象絵画の歴史において抑圧されてきた女性作家の存在が言及されることは、あいちトリエンナーレの出品作家の男女比に関わるアファーマティブ・アクションを意識したものだといえる。そして現代編では、エテル・アドナン、中村一美、ヴィヴィアン・ズーター、ローラ・オーウェンスが取り上げられる。この擬似ラジオの内容は美術トークとしては面白いものであり、絵画的な抽象性を共同体の概念に結びつけるというアイデアにも一定の説得力があったといえるだろう。しかし、空間の壁に吊り下げられた多数の抽象絵画を眼の前にすると、それらが結果的に、協働作業の物的な痕跡のレベルにとどまっていたという点で、若干の疑問を覚えた。

次に、本作の要となる3点の映像について述べたい。映像編集は、過去作品と比較して時系列の入り組んだものになっており、この作家が映画的な表現を明確に意図していると思える箇所も複数あった。各映像の概要は以下の通り。現場で取ったメモを元にしているので、かなり大雑把なものです。

ビデオ1:共同生活を送る民家のリビングにて、2人が記憶について語らう。抽象絵画を共同制作する。4人が舞台上のテーブルに着席して、最初の記憶のことを語らう。4人がリビングのテーブルに着席して食事をとりながら震災や家族の記憶を語らう。

ビデオ2:舞台上のテーブルに着席した4人とモデレーター(社会学者)が、席を変えながら記憶について語らう。田中も会話に介入し、それぞれの家庭のルーツについて語らう。ここに共同制作や庭作業の様子がインサートされる。

ビデオ3:リビングにて語り合う2人。次いで舞台上のテーブルに着席した4人による会話の続き。在日コリアンとしての記憶について。共同制作の様子がインサートされる。キッチンにて2人がコーヒーを飲みながら「普通」について語らう。リビングにて3人が語らう。4人でピクニックに出かけ、河原に寝そべりながら語らう。舞台上のテーブルに着席した4人+モデレーターが親について語らう。無人の舞台上のテーブル、ピクニックの様子のショット。ここでスタッフクレジットが表示される。玄関に並んだ4人の靴、廊下にあるピアノを弾くショット。リビングのテーブルに着席した4人に田中が加わって、カメラ位置の変更を指示する。それによって、画面にスタッフが映り込むポジションになる。舞台上のテーブルで3人+モデレーター+田中が、田中の記憶(吃音症)について語らう。そのままリビングでの4人と田中の会話に戻る。自分は誰かの語りを借りて語っているという発言。「近い将来、死の可能性があったらどうしますか」という主旨の田中の質問カードで、参加者の1人が答えに詰まって映像は終わる。

本作は展示で掲出されたテクストにあるように、「家族」の概念を拡張的に捉え、見知らぬ他人との共同体的な関係性の構築を、抽象化されたモデルとして示すものであったといえる。その制作背景に、震災・原発事故以降の歯車の狂った日本社会や、ヘイトスピーチや様々な差別の問題があることは自明であろう。私はかつて『一時的なスタディ:ワークショップ#4 共にいることの可能性、その配置』についてのレビューの中で、「それらは震災・原発事故を直接語ることを迂回しながらも、抽象化された社会を映像作品のなかで表わす」「社会運動の只中にある映像の交換の早さに対して、映画や現代美術における映像の交換は遅すぎる。しかし遅いが故に、映画や現代美術が、映像によって社会を抽象化されたモデルとして示すという役割を担っていることも、また可能性のひとつである」と述べた(http://artscape.jp/focus/10121137_1635.html)。そのレヴューは本作にも当てはまっていると思う。この作家の評価すべき点は、政治的・社会的なものに対して非政治的・非社会的な態度に陥ることなく、徹底した「遅さ」を示すところにこそある。

しかし、だからこそ今回のあいちトリエンナーレにおいて、田中が「表現の不自由展・その後」の展示中止に抗議して出されたステートメント「表現の自由を守る」(http://www.art-it.asia/uncategorized/202352)に名を連ね、9月3日より展示の「再設定」を実施したことは、とても意義深いことだったと思う。社会的な出来事に対するレスポンスの「早さ」と「遅さ」を一人の作家が両義的に示すことは、このような形で可能なのだ。作家が社会的な出来事に抗議してボイコットやデモを行う「早さ」は、ある作品が持つ徹底した「遅さ」と対立するものではない。その後、10月8日の「表現の不自由展・その後」の展示再開と同時に、本作の展示も再開された。

藤井光『無情』@あいちトリエンナーレ2019

藤井光『無情』(10分29秒、2019)
Fujii Hikaru – Mujō (The Heartless) (10 min 29 sec, 2019)
(作品は撮影禁止のため、あいちトリエンナーレ2019公式サイトを参照のこと。http://aichitriennale.jp/artwork/N03.html

藤井光は、政治的・社会的なテーマに基づくリサーチを行ったうえで、それを再演し、映像インスタレーションとして提示する作品で知られる。近年では2018年に韓国国立現代美術館ソウル館で開催された「How you know little about me」展で、「日産アートアワード2017」でグランプリ受賞作である『日本人を演じる』(2017)が展示されている。少し前の事を語らせてもらうと、藤井とは2016年に森美術館で開催された「MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考」の関連イベントで、トークセッションをご一緒させてもらった(http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/004.html)。そのトークセッションのなかで気が付いたこととは、藤井が現代美術の文脈で映像を手がける作家として、1970年代の初期ビデオアートを参照しているということだった。

今日の現代美術における映像作品の多くは、ビデオの再帰性を備えたメディウムとしての側面を充分に生かしているとはいえない。ここでいう再帰性とは、撮影と再生の際の時間の遅延や、見る者と見られる者の位置関係を交換することによって、認識や物事の関係性を撹乱する特性を指す。このような再帰性をコンセプトとした作品は、初期ビデオアートにおいて多く見られるものであった。また再帰性は知覚的な表現において展開されるだけでなく、社会的な関係性のなかで展開されることもあった。例えば中谷芙二子による、チッソ本社前で行われた水俣病の抗議活動にビデオを持ち込んだ作品『水俣病を告発する会――テント村ビデオ日記』(1972)などは、その代表的な例だといえる。藤井の作品は、このような初期ビデオアートにおける社会的な試みと同じく、ビデオの再帰性を今日の政治的・社会的なテーマに結びつけ、批評的に展開したものだといえるだろう。

さて、今回の藤井の作品は、日本統治時代の台湾で製作された約10分間の記録映画『台南州 国民道場』に関わる映像インスタレーションである。作品全体について述べる前に、本作と併せて上映されている『台南州 国民道場』の概要について述べたい。三澤真美恵の研究(「「皇民化」を目撃する映画『台南州 国民道場』に関する試論」『言語研究』、7、一橋大学、2013、pp.101-120|http://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/25701/1/gensha0000701010.pdf)によると、この映画は、2003年に国立台湾歴史博物館に収蔵されたフィルム・脚本に含まれていたものであり、製作時期は1943年から1945年とみられる。「国民道場」とは、当時台湾に設置された「皇民錬成」のための組織であり、「総督府レベルでの設置を示す資料は確認できておらず、あくまでも州や郡レベルの組織」であり、台南州の州令によって「入場生は知事の指名又は委託錬成を許可せる者に限る」と定められていた(p105)。また台南州国民道場は英霊を祀る「忠霊塔」を中心とした造りになっており、軍事色が強かったとされる(pp.106-107)。映画は宿舎から出て整列する台湾人青年らを捉えたロングショットから始まる。次に台湾人青年らは褌姿になり、プールにて神道の禊の儀式(鳥船・雄健・雄詰・気吹)を行って身を清める。次に朝の神前行事を行ったのち、日本語による講話・算術・農業などの学習に取り組む。最後では、道場を修了する青年に向けての講話が行われ、道場訓が唱えられる。なお、映画のナレーションは日本語によって話されている。三澤は、先の論文にて「こうした映像こそが台湾総督府にとって「日本人」になろうとする台湾人青年が「絵にかいた餅」ではなく「実在する」ことを証明する意味合いをもった」と指摘している(p116)。

藤井の映像インスタレーション『無情』は、このような日本統治時代の歴史的背景を持つ映画を展示室の入り口近くの壁面に投影したうえで、奥の壁面に4面スクリーンで投影される。本作の冒頭では、この時代の台湾における皇民文学作家である周金波が書いた小説『助教』の一節が映し出される(この小説は台湾総督府から委嘱された作品であり、国民道場の「助教」である台湾人青年「蓮本弘隆」を主人公とする物語である)。そして画面には20名ほどのワークショップ参加者(愛知県内に暮らす外国籍の若い人々)が登場し、映画の中の台湾人青年と同じように整列する。ビデオカメラは、最初全てフロント位置に置かれており、それぞれが任意の参加者の表情をアップで捉えている。次に参加者らは、映画内で展開されていた規律的な「皇民化」のための動作を、黙々と模倣する。各カメラは個別に動き回って、参加者らの動作を記録し続ける。本作の終わりで各カメラは再びフロント位置に戻り、任意の参加者の表情をアップで捉える。そして突然、参加者らが倒れ込んで映像は断ち切られる。

まずは、本作の表現形式について述べたい。過去の記録映画をワークショップ参加者に見せ、その出来事を参加者に再演してもらうことによって出来事の異質性を現前化し、その再演を映像として記録して観客に提示するという形式は、藤井の他の作品でも採用されているものである。この映像による媒介のプロセスは、ある時代とある時代(今回であれば1940年代と2019年)を非常に長いスパンにおいて関係付けており、初期ビデオアートと共通した再帰性を備えているといえる。すなわち本作において映像は、ある出来事を再帰的に伝達しているのである。単に過去の出来事を再演するだけなら、一度きりのイベントとしてワークショップを公開すれば済む話だろう。本作が再演をあくまで映像として記録したうえで観客に提示していることの意味とは、「1940年代の台湾における出来事の映像」に媒介された「2019年の愛知における再演の映像」が、別の時間・別の場所に開かれている(媒介され得る状態に置かれている)ということではないか。その意味において、この形式は再帰的なのである。

もう一つ、本作のテーマに関わる表現についても述べたい。先の論文の中で三澤は『台南州 国民道場』について「「個」として苦悩し葛藤する内面は、むしろ映し出されてはならない禁忌だったはずだ。同映画に、ただひとつのクローズアップも存在しないことは、製作者にそうした禁忌が意識されていたことの証左とも思われる」と指摘している(p115)。ある言語圏における他国文化への強制的な同化とは、まず内面を置き去りにした身振りの模倣という形で表れるのだろう。そのように考えると、本作の序盤と終盤における、任意の参加者の表情へのクロースアップは『台南州 国民道場』のロングショットを批判し、参加者たちの個々の内面を映し出すためのアプローチだったということになるだろう。

藤井は9月22日のエクステンション企画の中で、「表現の不自由展・その後」の展示中止に抗議してボイコットを表明し、9月27日から本作の展示中止を実施した。日本人作家でボイコットという最も強い手段を取ったのは、藤井と田中功起のみであった(田中の「再設定」は、展示内容の変更といえる側面も持っている)。その後、10月8日の「表現の不自由展・その後」の展示再開と同時に、本作の展示も再開された。

ホー・ツーニェン『旅館アポリア』@あいちトリエンナーレ2019


ホー・ツーニェン『旅館アポリア』(2019)
Ho Tzu Nyen – Hotel Aporia (2019)
(作品は撮影禁止のため、あいちトリエンナーレ2019公式サイトを参照のこと。http://aichitriennale.jp/artwork/T04.html

ホー・ツーニェンはシンガポール出身の作家であり、現代美術の領域にとどまらず、ロッテルダム国際映画祭を始めとする数々の映画祭にて作品が上映されている。日本国内では、2016年の森美術館+国立新美術館での「サンシャワー」展にて映像作品『2匹または3匹のトラ』(2015)が展示されたほか、2018年の国際舞台芸術ミーティング in 横浜(TPAM)では舞台作品『一頭あるいは数頭のトラ』(2017)が、2019年の同フェスティバルでは舞台作品『神秘のライ・テク』(2018)が上演されている(舞台作品はいずれも未見)。

『旅館アポリア』は、トリエンナーレ豊田市エリアにある旅館 喜楽亭を会場として、四つのパートによって構成された映像インスタレーションである。喜楽亭とは豊田市神明町にあった町家建築の料理旅館であり、廃業後しばらくして現在の場所に移築され一般公開されている(http://www.cul-toyota.or.jp/sisetuda/sanbun_kirakutei.html)。また喜楽亭は、神風特別攻撃隊である草薙隊が沖縄に向かう直前に宿泊した場所でもある。作家はこの旅館にまつわる歴史に着目し、草薙隊隊員の遺書、京都学派と戦争の関係、戦前から戦後にかけての小津安二郎の劇映画、横山隆一のアニメーション映画などの断片を縫合して、日本が帝国であった時代のアポリアを主題とするインスタレーションを提示した。個々のスクリーンにおける映像表現はファウンドフッテージの手法に倣っており、作中では小津の諸作品(特に『生まれてはみたけれど』1932、『父ありき』1942、『秋刀魚の味』1962)と、横山の『フクチャンの潜水艦』(1944)が引用される。小津作品からの引用は、笠智衆を始めとする俳優の顔面が全て消去されており、一部では背景を影で塗り潰すなどの処理も加えられていた。また『フクチャンの潜水艦』からの引用は、キャラクターそれ自体を消去する処理が加えられていた。サウンドトラックには、リサーチの過程における作家とキュレーターの間でのメールによる往復書簡が引用され、複数のナレーターによって読み上げられる。それらの声はバックグラウンドのアンビエントな電子音と一体化し、空間を満たす。さらに家屋に仕掛けられたコンプレッサーのような機械が映像の展開に応じて振動する。それは障子や床に伝わって、家屋自体を震えさせる。

全体的な批評は後回しにして、まずは各パートの概説を行いたい。斜体部分は現場でナレーションを聴きながら要点をまとめたメモであり、実際のナレーションとは一致しませんので、参考程度にとどめてください。テーマ名は筆者が便宜的に付けたものです。


一ノ間「波」(12分)
Room1: The Waves (12 min)
一階手前の八畳間にスクリーンが設置され、映像がループで投影される。ナレーションのテーマは“喜楽亭の歴史”“大島康正メモ(京都学派と海軍の会合メモ)”についてである。このメモは大橋良介『京都学派と日本海軍』(PHP研究所、2001)において翻刻されている。

・喜楽亭の歴史
「日本家屋の図面を送ります。この建物は大正時代に建てられ、料理旅館として使われた。戦前は絹産業の関係者で、戦後は自動車産業で賑わっていた。資料として喜楽亭の女将のインタビューがあった。女将によると、神風特別攻撃隊が泊まったことがある。戦後、遺族は喜楽亭に泊まって弔いをした。この部隊は草薙隊という。[以下、女将のインタビューの読み上げ]19歳で嫁入りした。先代が喜楽亭を建てて数年たった頃だった。お客さんは威勢の良い方だった。威勢の良い方も時代によって変わる。戦時中は海軍さん、戦後はトヨタさん」
・大島康正メモ(京都学派と海軍の会合メモ)
「大島は、『中央公論』(1965年8月号)に掲載された「大東亜戦争と京都学派」のなかで、初めは戦争勃発をいかにして防ぐかがテーマだったが間に合わなかった、世論に訴えようと『中央公論』(1942年1月号)に掲載する座談会「世界史的立場と日本」を行った数日後に、日米の戦争が始まったと述べている。その後、昭和19年秋までのメモは、理性的に陸軍を納得させて戦争を終結させることがテーマとなり、東條内閣を倒すことも話し合われた。昭和19年暮れ~昭和20年のメモは、敗戦が明らかになってきたので戦後問題がテーマとなった。彼らが「戦争を終わらせる」と言うとき、「戦争」はアメリカとの戦争を意味する。そして、アジア支配と大東亜共栄圏は、道徳的リーダーシップによる歴史的必然であると考えていた。彼らが陸軍を批判するのは、東條内閣とつながった陸軍がこの思想を持っていなかったから。次に小津安二郎の日記と、横山隆一による海軍のプロパガンダ映画について調べておきます」

引用される映像は、顔面を消去した小津作品の人物ショットと『フクチャンの潜水艦』の波間の魚群のシーンである。特に後者は、轟々とした波の音とコンプレッサーの振動による家屋の震えを伴いながら、映像の終盤を演出していた。


二ノ間「風」(12分×2)
Room2: The Wind (12 min × 2)
一階奥にある八畳間と六畳間を区切るようにしてスクリーンが設置され、プロジェクターによってスクリーンの表裏に2つの映像がループで投影される。映像Aのナレーションのテーマは“草薙隊”についてであり、映像Bのナレーションのテーマは“蒙古襲来と神風”“神風号”“同期の桜”についてである。

映像A
・草薙隊
「喜楽亭の女将のインタビューから、隊員が泊まったという部分の英訳を送ります。[以下、女将のインタビューの読み上げ]戦争が終わってから草薙隊の親御さんが来て、「同期の桜」を歌っておられて寂しさを感じた」
「『祖父たちの告白 太平洋戦争70年目の真実』(中日新聞社、2012年)という本から、草薙隊哀史の一部を英訳して送ります。神風特別攻撃隊草薙隊は全国から集められた。熱田神宮に祀られた三種の神器、草薙剣が由来。部隊は鹿児島を経て沖縄に向かった[以下、隊員から父母に送られた遺書が読み上げられる。省略する]」

映像B
・蒙古襲来と神風
「蒙古襲来における暴風雨。この暴風雨は神風と呼ばれた。この記述は1943年に教科書に登場する。戦後になっても神風の記述は何故か教科書に残った」
・神風号
「1937年に朝日新聞社が東京~ロンドンの連絡飛行を企画した。そこで使用されたのが神風号だった。操縦士は飯沼正明。1941年に真珠湾攻撃のニュースを知り、その直後事故死した」
・同期の桜
「[「同期の桜」の歌詞が読み上げられる。省略する]」

映像Aに引用されるのは、集合写真を始めとする草薙隊の写真と、顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。『父ありき』の息子が号泣するショットは目立つ形で引用されており、戦時中の若者の表象として隊員らと結び付けられる。それに加えて小津の映像表現の代名詞である無人ショットから、風に関わるショットが複数引用されていた。映像Bに引用されるのは、蒙古襲来絵詞、神風号の写真、顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。『父ありき』の謝恩会のシークエンスは「同期の桜」の読み上げに重ねる形で引用されていた(ただし、『父ありき』本編の当該シーンでは「同期の桜」は歌われていない)。また映像Aと同じく草薙隊に関わる写真と、風に関わるショットが複数引用されていた。二つの間は繋がっているため、それぞれのナレーションが混ざり合う。さらにバックグラウンドでは「同期の桜」の合唱もコラージュされており、混沌としたサウンドスケープが形成されていた。


三ノ間「虚無」(12分×2)
Room3: The Void (12 min × 2)
一階から二階へ上がり、暗闇の中で細い廊下を進むと、障子の貼られていない格子戸に仕切られた八畳間にたどり着く。室内に入ることはできず、四人並べば満員となるような細い廊下に腰を下ろして作品を観る形をとる。この日本間には、スクリーンではなく巨大な送風機が設置されている。この送風機の下方には板が立てられ、プロジェクターによって映像(ナレーションの字幕のみ)がループで投影される。映像A+映像Bのナレーションのテーマは“京都学派の思想”についてである。

映像A+映像B
・京都学派の思想
「あるフランスの詩人が、日本人の詩はすぐ無に飛び込むという。日本人は、主体的責任の前に無我に至ってしまう」
「無の象徴としての天皇。無による統一」
「目に見える無としての空(そら)=空(くう)」
「芭蕉における風雅。無住の実存」

観客は、送風機の発する轟々とした音と物理的な風に晒されながらナレーションを聴取することになる。送風機は、戦闘機のプロペラを容易に連想させる。また物理的な風は、身体で感じ取れるものでありながら「無」を象徴する。照明や回転数の変化は計算されたものであり、異様な空間がそこには形成されていた。


四ノ間「子どもたち」(12分×2)
Room4: The Children (12 min × 2)
二階奥の、3つの八畳間を繋げた大きな空間に透過した2枚のスクリーンが設置され、プロジェクターによって各スクリーンに2つの映像がループで投影される。映像Aのテーマは“小津安二郎と戦争”についてであり、映像Bのテーマは“横山隆一と戦争”についてである。

映像A
・小津安二郎と戦争
「映画監督の小津安二郎は戦時中シンガポールに赴き、運動家チャンドラ・ボースの映画を作ろうとした。小津はシンガポールで押収されたアメリカ映画を観た。小津の映画には戦争の傷跡がみられる」
「1932年の『生まれてはみたけれど』にも戦争の影響はみられる。この映画に出てくる小さな兄弟は父親の弱さを感じ取り、彼らは大きくなったら軍人になりたいと答える。10年後、日本は戦争に突入する」
「小津の墓に“無”という文字が刻まれている」

映像B
・横山隆一と戦争
「150名もの文化人が陸軍によるアジアでの文化政策に関わった。そのなかには京都学派の三木清がいた。三木の概念は大東亜共栄圏の思想に取って代わられる。三木はフィリピンに赴いた。戦後まもなくして三木は獄死した」
「横山は「フクチャン」で有名。横山は1942年に陸軍報道班としてインドネシアのジャワ島に赴いた。1944年には海軍のプロパガンダである『フクチャンの潜水艦』が作られた。小津のシンガポールでのことについて、もっと調べておきます」
「陸軍中佐の町田敬二が、横山隆一『ジャカルタ記』(東栄社、1944)の序文を書いている。この作品は横山隆一記念まんが館には展示されていない。[以下、桜本富雄『戦争とマンガ』(創土社、2000)における横山へのインタビューの読み上げ。戦時下の国策への協力と、その行動を肯定する発言。同一内容の発言は次のウェブサイトにて読める。http://www.sakuramo.to/kuuseki/132_7.html

映像Aに引用されるのは、やはり顔面を消去した小津作品の人物ショットなどである。特に『生まれてはみたけれど』に登場する幼い弟が、父親に将来何になりたいかと問われて「中将になりたい」と答え、画面内に一瞬だけフクチャンが合成されるシークエンスでは、映像Bとタイミングを一致させる形で、二つのスクリーンを立体的に結びつける演出が行われていた。また『秋刀魚の味』作中における、トリスバーで海軍の元艦長(笠智衆)と元乗組員(加東大介)が軍艦マーチを聴きながら語り合うシークエンスも、目立つ形で引用されていた。そして終盤では、墓地の無人ショットの引用に、小津の墓(「無」の一文字のみが刻まれている)を撮影した映像が繋ぎ合わされた。映像Bに引用されるのは、『フクチャンの潜水艦』の冒頭付近、厨房での調理、海戦のシークエンスなどである。特に海戦において敵艦を轟沈させるシーンは、横山のインタビューと重なり合いながら映像の終盤を演出していた。


冒頭で述べた通り、本作は日本が帝国であった時代のアポリアを主題とするインスタレーションであるといえるが、リサーチによって収集された歴史の断片を再構成することで、どのような歴史的イメージが表現されていたのかを考えてみたい。まずは京都学派の思想が、当時の東亜協同体論のイデオロギーを理論化する形で展開されたこと、さらに京都学派の哲学者らが海軍との秘密会合によって直接的に戦争に関係していたことが、一ノ間と三ノ間にて取り上げられていた。これらの断片が示すものは、「思想としての戦争」という文脈である。世界史的な視座から西洋と東洋(日本を指導的立場に置く東亜共同体)を対置し、主体的無の立場に基づく身体と心の否定によって西洋的近代精神を超克するという構図は、京都学派の西谷啓治・高坂正顕・高山岩男・鈴木成高よる座談会『世界史的立場と日本』(中央公論社、1943)や、西谷・鈴木のほか様々な分野の論者が参加した座談会『近代の超克』(創元社、1943)などで論じられているが、それはこの作品の通底音となっている。そしてこの文脈に、二ノ間の神風特別攻撃隊のエピソードと、四ノ間の『フクチャンの潜水艦』および横山の戦争協力のエピソードは接続される。

その一方で顔を消された小津作品の家族たちは、果たして「思想としての戦争」という文脈に接続できるのだろうか。これら家族の肖像は本作の基調を成すものであり、それは戦時下を生きた無名の家族たちの表象となっている――このように意味付けて接続してみることは可能かもしれない。しかしこのような歴史的イメージが備えている分かり易さは、小津の中国での極限的な戦争経験ではなく、果たされなかったシンガポールでの映画製作にクロースアップすることによって成立している。小津が戦後になって描き出した家族の物語に潜在する屈折は、もっと深い痛みを伴っているように思えてならない。

小津は盧溝橋事件が起こった直後の1937年9月から1939年7月まで、映画監督ではなく兵士として中国に出征して日中戦争を戦った。田中眞澄の著書(『小津安二郎周遊』文芸春秋、2003|『小津安二郎と戦争』みすず書房、2005)によると、小津が配属された部隊は上海派遣軍直属の野戦瓦斯第二中隊(甲)であったとされる。そして小津は、毒ガスを大規模に使用した作戦として知られる、1939年3月20日の修水河渡河戦に参加する。田中によると作戦で使用されたのは、くしゃみ性・嘔吐性ガスの「あか」であり、「あか筒」15000個「あか弾」3000個という膨大な物量が一連の作戦で消費された。この日の出来事の推移は、小津が戦地で付けていた日記に記されている通りである。また、小津の帰還後の発言にも、彼が戦線で見てきたものの過酷さを窺わせる箇所が多数ある(「小津安二郎戦場談」『都新聞』1939年9月4日など)。このような戦争経験は中国から帰還して以降の小津作品に少なからず影響を与えている。小津は戦争映画を作ることはなかったが、與那覇潤が著書の一覧(『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』NTT出版、2011、pp.26-27)でまとめた通り、『戸田家の兄妹』(1941)から『秋刀魚の味』に至るまでのほぼ全ての作品に戦争や植民地への言及が認められるのである。この視点をもって1950年代中頃までの小津の家族映画を観るならば、それは無名の家族たちの平穏な日々を描いたものではなく、戦争を遠因としながら家族という共同体が解かれてゆく過程を描いたものとして読み解くことができる(その最たるものが『東京暮色』1957である)。本作が小津の日中戦争での経験をほぼ迂回し、無名の家族たちの表象として小津作品を引用しておきながら、四ノ間の片側の終盤において小津の墓に刻まれた“無”の文字に注目したこと――それは短絡であったと思う。

そのような短絡を抱えてはいるが、総体的に見るならば、歴史の断片を縫合して表現された戦時下の歴史的イメージは一つのスペクタクルとして、観客の情動に強く作用するものになっていた。このスペクタクルは、多数の映像と音声を喜楽亭の空間内に配置することで成立している。それは一つ一つの映像と音声をモジュールとして扱うものであり、物理的な風圧や振動と喜楽亭の歴史性はモジュールの基盤となっていた。特に物理的な風圧や振動は、過剰なほどに情動への作用を強化する。このスペクタクルは「情」というトリエンナーレのテーマとも強く共鳴するものであり、本作への評価は、その作用をどのような立脚点において経験するかにかかっている。内在的に作品を経験した場合と外在的に作品を経験した場合で、その評価は反転するだろう。

あいちトリエンナーレ2019におけるボイコット

8月末〜9月初めに、あいちトリエンナーレを観るために名古屋を訪れた。広く報道されているように、今回のトリエンナーレでは展覧会内企画としての「表現の不自由展・その後」が、電話・ファックスによる抗議・脅迫に起因する「安全管理上の問題」を理由として、8月3日午後に展示中止となる出来事が起こった。そしてこの事態への抗議として出品作家やキュレーターによるステートメント「表現の自由を守る」(http://www.art-it.asia/uncategorized/202352)が発表され、展示中止あるいは展示内容を変更する動きが広がった。そして9月25日に、県が設置した検証委員会の中間報告を受けて「表現の不自由展・その後」の展示再開の方針が示されるが、その翌日になって文化庁が一度採択したトリエンナーレへの補助金の不交付を決定したことで、焦点は国の介入による文化行政の恣意性の問題に移行する。以上の経緯は、トリエンナーレ出品作家によって立ち上げられたプロジェクト「ReFreedom_Aichi」のウェブサイト(http://www.refreedomaichi.net/daily)に詳しい。そして会期終了を一週間後に控えた10月8日、トリエンナーレ側と「表現の不自由展・その後」実行委員会側が和解したことで全展示が再開に至り、10月14日、大きな混乱なくトリエンナーレは閉幕した。ひとまずは本当に良かったと思う。

ところで、私が名古屋を訪れた8月31日〜9月1日のタイミングでは、11名(組)の作家が抗議としての展示中止あるいは展示内容の変更を実施しており、その後、3名の作家がこの動きに加わった。全ての作家の展示が再開された今だから、誰がどのような行動をとったのかを思い出せるように、あの特異な状況をメモとして書きとめておこうと思う。


8月10日

・CIR(調査報道センター)>展示室閉鎖


8月20日

・タニア ブルゲラ>展示室閉鎖



・ピア カミル>バンドTシャツを縫い合わせた巨大な幕の一部を上げて、音楽の再生を中止する



・レジーナ ホセ ガリンド>映像作品の上映を中止し、作品内で使用した装飾品を散乱させる



・クラウディア マルティネス ガライ>展示空間の照明を落として、別室の映像作品の上映を中止する


・ドラ ガルシア>全てのポスター上にステートメントを書いた紙を掲示する


・イム ミヌク>展示室閉鎖


・パク チャンキョン>展示室閉鎖


・ハビエル テジェス>展示室閉鎖



・モニカ メイヤー>これまでの来場者によって記入された回答カードを回収し、未記入の回答カードを破ったうえで展示空間にばら撒く。作品名も『The Clothesline』から『沈黙のClothesline』に変更し、本来の状態を撮影した写真を掲出する



・レニエール レイバ ノボ>新聞紙で全ての平面作品を覆い隠す。ゴミ袋で彫刻の一部を覆い隠す


9月3日
・田中功起>展示の「再設定」によって、展示室内をドア越しに観るという形をとる(ただしアッセンブリー企画の実施時には室内に入場できる)


9月23日
・キャンディス ブレイツ>展示室閉鎖(ただし土日祝のみ公開)


9月27日
・藤井光>映像作品の上映を中止(9月22日のエクステンション企画にて表明)


これだけ多数のボイコットとなると、欠落だらけの状態だったというネガテイブな印象を持たれるかもしれない。しかし観客としてトリエンナーレの各会場を回ってみると、これらの作家の応答から受ける印象は「拒絶」や「否定」といった言葉に回収されるようなものではなく、むしろ「離脱」や「共有」といった言葉に近いものであったことは強調しておきたい。それは、あるべき別の展覧会の姿をボイコットという行為の向こう側に想起させ、他者と共有しようとするものであり、そこには芸術と社会の関係がこの上なく明確な形で露呈していた。また、出品作家である碓井ゆいが「表現の不自由展・その後」出品作家である大橋藍と共に、「表現の自由」の擁護とは異なるジェンダー問題の観点から、“表現の不自由展・その後の中止に対する「ジェンダー平等」としての応答”として署名活動を展開したことも付記しておきたい(http://refreedomaichi.wixsite.com/genderfree)。

続くエントリーでは、いくつかの印象深かった作品についてレヴューしたいと思う。
(10月15日、追記および写真追加)

告知「現代アメリカン・アヴァンガルド傑作選2019 北海道特別プログラム」

今年6月に渋谷UPLINKで開催された、映像作家/キュレーターである西川智也のプログラミングによる「現代アメリカン・アヴァンガルド傑作選 2019」の北海道特別プログラムを稚内北星学園大学にて上映します。この特別プログラムは、ロッテルダム国際映画祭で上映された『ライフ・アフター・ラブ』(2018)、トロント国際映画祭で上映された『フェインティング・スペル』(2018)、ロカルノ映画祭をはじめとする多くの映画祭で上映された長編『テクトニクス』(2012)など、近年発表された実験的な4つの映画によって組まれています。これらの映画はいずれもランドスケープを主題とするもので、知覚的あるいは政治的に現代アメリカの「風景」を読み直す作品であるといえます。

「現代アメリカン・アヴァンガルド傑作選2019 北海道特別プログラム」
日時:2019年7月24日(水)16:10上映開始
会場 : 稚内北星学園大学 新館1401
無料上映・学外からの参加自由

ロス・メクフェセル『あなたの肺の中の地球の空気』(11 min., USA/Japan, 2018)
The Air of the Earth in Your Lungs, Ross Meckfessel, 11 min, USA/Japan, 2018
ビデオゲーム、グーグル・マップ、ドローンによる映像などを使い、モニターを通して見る現実と人工的に作られたデジタル風景、曖昧になりつつある映像の境界線と、変わりゆく世界を題材とした16 ミリ作品。

スカイ・ホピンカ『フェインティング・スペル』(11 min., USA, 2018)
Fainting Spells, Sky Hopinka, 11 min, USA, 2018
アメリカ先住民ホーチャンク族が気を失った人を回復させる際に使うホーニスカという植物をテーマにしたビデオ作品。美しく広大な風景映像と、加工され現実とは激しく異なる映像によってその逸話を情緒的に語る。

ザカリー・エプカー『ライフ・アフター・ラブ』( 8.5 min, USA, 2018)
Life After Love, Zachary Epcar, 8.5 min, USA, 2018
駐車した車の中にいる人物と、その周りを16 ミリフィルムで撮影したビデオ作品。アスファルトと金属、車の窓ガラスに照りつける太陽光が時間経過を表すなか、車内空間の人々を現実的/非現実的に表現する。

ピーター・ボー・ラップマンド『テクトニクス』(60 min., USA, 2012)
TECTONICS , Peter Bo Rappmund, 60 min, USA, 2012
デジタル一眼レフカメラを使い、アメリカとメキシコの国境とその周辺を、メキシコ湾から太平洋に向かって撮影したビデオ作品。ランドスケープを映し出す映像は、緻密に編集・加工され、分断された不自然な動きによって、国境とは地球上に自然発生したものではなく、人間が地表上に引いたしるしであるということを主張する。

アピチャッポン・ウィーラセタクン「フィーバー・ルーム」@KAAT 神奈川芸術劇場ホール


アピチャッポン・ウィーラセタクン『フィーバー・ルーム』
Apichatpong Weerasethakul “Fever Room”
会期:2017年2月11〜15日
会場:KAAT 神奈川芸術劇場ホール

アピチャッポン・ウィーラセタクンの『フィーバー・ルーム』は、2015年に韓国・光州のAsia Cultural Centerで初演された「映画」である。日本では2017年にTPAM(国際舞台芸術ミーティング)のプログラムの一つとして神奈川芸術劇場ホールで上演された。2019年には東京芸術劇場で再演される予定だという。ふと思い立ったので、2017年に上演を観た後、書きかけのまま置いていたレヴューをアップする。

アピチャッポンのインタビューによると、長編映画製作の資金提供を受ける条件としてパフォーミングアーツ作品を制作するように求められたことが、本作を制作するきっかけだったという。このインタビューの中で、作家は本作が映画であることを強調している。以下に引用する。

「なぜ映画かというと、『フィーバー・ルーム』には映画の哲学が全て盛り込まれているからです。私にとっての映画の哲学とは、光やスペース、スケールであり、映画のエボリューション、映画に対する尊敬なども含みます。」
(「アピチャッポン・ウィーラセタクン―『フィーバー・ルーム』から」http://jfac.jp/culture/features/f-ah-tpam-apichatpong-weerasethakul/

ここでいう「映画」とは、物理的・空間的なものにとどまらず、映画の発展史を指すものであるようだが、このことは「映画」が技法的なものを含めて、さまざまな支持体の混淆的な集合態であるという視点に立てば理解しやすいだろう。そして、歴史的にいうならば、そのような集合態としての「映画」に自己言及的に取り組んだ試みとして参照されるものは、言うまでもなく実験映画(特に構造映画やエクスパンデッド・シネマ)、あるいはビデオアートということになる。アピチャッポンは、シカゴ美術館附属美術大学に留学していた時期に、アメリカの古典的アンダーグラウンド映画に影響を受けたとされ『弾丸』(1994)、『ダイヤル0116643225059を回せ!』(1994)という実験映画を制作している。その影響は彼のフィルモグラフィーの通底音となるものであり、その後のビデオインスタレーション作品にまで繋がっているといえるだろう。アピチャッポンのビデオインスタレーション作品には、複数チャンネルの使用や展示空間を巻き込む演出、そして循環的な構造によって、存在の次元を複数化させる表現を見て取ることができるが、それは彼の長編作品における、脱中心的な複数性を備えた構造とも通底している。これについて考察した論考としては、中村紀彦の「映画という亡霊を掘り起こす」(『アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト』フィルムアート社、2016)がある。ここで中村は、その特性を「複数に枝分かれした物語展開の可能性と一時的な物語連鎖を編みだすように観者へと促すシステム」(p54)として明晰に説明する。

このようなアピチャッポンの特性を、観客の身体を巻き込みながら多面的に展開した作品、それが本作『フィーバー・ルーム』であったといえるだろう。以下、作品の構成を簡単に説明する。

1:夢についてのモノローグのシークエンス
まず、観客は座席が並ぶ仮設の空間に案内される。座席についてしばらくすると、観客の前方にあるスクリーンへの映像の投影が開始され、窓から見た屋外の風景、バナナの木、川沿いの公園、眠る中年女性と青年などの映像が映し出される。そこに、中年女性と青年によるモノローグが重なる。このシークエンスは1度目は中年女性の声、2度目は青年の声で、2回繰り返される。しかし、口述の細部は異なる。

2:河川上を航行するボートのシークエンス
上方からもう一つのスクリーンが降りてきて、上下2つのスクリーンによる構成になる。そこで、河川上を移動するボートの上から撮影された映像が、マルチアングルで展開する。ボートの乗客の様子、岸から反射光をボートに向ける人影など。この辺りから、リズムのあるサウンドトラックが流れ出す。

3:打ち寄せる波についてのシークエンス
正面の上下2つのスクリーンに加えて、観客の左右のスクリーンへの映像の投影が開始される。これによって4つのスクリーンによる構成になり、打ち寄せる波の映像が、観客を取り囲みながら展開する。時折、メモ帳を破り紙片を燃やす映像なども挿入される。

4:洞窟についてのシークエンス
4つのスクリーンによる構成のまま、淡々と洞窟の中で採掘を行う覆面の男性の映像が展開する。観客を取り囲む洞窟内の岩のテクスチャー。やがて、左右のスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。

5:雨についてのシークエンス
観客正面の上下2つのスクリーンによる構成に戻り、雨が降りしきる街の風景が、フィックスの長回しで映し出される。やがて、観客正面の上下2つのスクリーンが上昇してゆき、観客の視界から完全に消え去る。完全な暗闇の中、サウンドトラックの雨の音だけが響き続ける。

6:映画の解体についてのシークエンス1
しばらくして正面の幕が上がり、観客の眼前には無人の劇場客席が現れる。自分たちのいた場所が舞台上の仮設の座席であり、劇場客席に向かい合う形で座っていたということが、初めて分かる。劇場客席には大量のスモークが焚かれており、センター付近には明滅する照明が立てられている。舞台上の座席にもスモークが流れ込んでくる。
そして、劇場客席側に設置されたプロジェクターから、舞台上にいる観客に向けて映像の投影が開始される。スモークに映像が当たるため、プロジェクターのレンズを中心点として円錐状の形態が生み出され、観客を包み込む。投影される映像は、回転する3~4重の同心円であり、円周の一部が欠けているため、舞台上にいる観客からは、回転する送風機の扇のような運動として知覚される。さらに、雨のように落下する無数の光点も合成されており、観客は、自分の視点が高速で移動するような錯覚に陥る(分かりやすい例として、『2001年宇宙の旅』のスター・ゲートのシーンを想像してほしい)。サウンドトラックは雨音が続いている。

7:映画の解体についてのシークエンス2
観客前方のスモークの塊をスクリーンとして、おぼろげな、談笑する人々の映像が投影される。これによって、観客はスクリーンの裏から映画を観ているような位置関係で、スモークに映る映像を観ることになる。サウンドトラックは、抽象化された話し声。

8:映画の解体についてのシークエンス3
緩やかに上下運動する7本の水平ラインが、観客に向けて投影される。それにより、スモークの形状が七つの層として立ち現れ、観客の空間的な認識を撹乱する。それは時として、水平線のようであり、飛行機から見た雲海のようでもある。サウンドトラックはノイジーなドローン。やがて光は収束してゆき、観客正面の幕が降ろされる。サウンドトラックもやがてフェードアウトする。そして、再び完全な暗闇がやってくる。

9:夢についてのシークエンス
観客の右側のスクリーンへの映像の投影が開始される。そして、アイリス・インで視界が開ける。そこは、「4」のシークエンスで登場した洞窟であり、覆面の男性は地面に横たわり熟睡している。ここに青年の声で「最近夢を見なくなった」というモノローグが入る。次に、中年女性の声で「私も最近夢を見なくなった」というモノローグ。そして再び青年の声で、「彼女が夢を見なくなったのは、年齢のせいではない、自分が光を奪ったからだ」とのモノローグ。その後、覆面の男性は目覚めて上半身を起こし、ぼんやりと佇む。そしてスタッフロールへ。

上記の「6」〜「8」のシークエンスにおける、スモークが焚かれた空間内での光の造形による表現は、明らかにアンソニー・マッコールのエクスパンデッド・シネマ作品を参照しているといえるだろう(anthonymccall.com)。このような本作の表現の方向は、映画を拡張しているというよりも、映画を再発明していると形容した方が適当であり、それはケン・ジェイコブスが呼称するところの「パラシネマ」の一形態だといえる。さて、私はこの映画を新鮮なものとして興味深く観た訳であるが、問題はスペクタクルとして観客に提供された触知的な経験が、従来のアピチャッポンの長編作品やビデオインスタレーション作品に見られる特性、すなわち脱中心的な複数性を備えた「システム」に、どのような形で合致しているのかということになるだろう。そこを迂回して本作を評価することはできないだろうと思う。

ストリーミング配信[再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara 1980-2008]

再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara 1980-2008 プログラム①+②パック from UPLINK Cloud on Vimeo.

UPLINK渋谷が運営する「UPLINK Cloud」は、Vimeoをプラットフォームとした映画のストリーミング配信を行うサービスなのですが、昨年より、1980年〜2008年までの期間に制作された相原信洋のフィルム作品をストリーミング配信しています。相原作品のドローイングは人間離れした緻密さで知られますが、配信のクオリティは高精細なHD画質なので、細かい部分まで余すところなく鑑賞することが出来ます。
これに加えてUPLINK渋谷のマーケットでは、神戸のC.A.P.が2011年にリリースしたDVD作品集「AIHARA NOBUHIRO 2009-2010」も販売していますので、ご関心ある方はUPLINK渋谷までお問い合わせください。もちろん、NPO法人戦後映像芸術アーカイブでも上映会・美術館向けに上映素材を提供中です。よろしくお願いします。

・再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara 1980-2008 プログラム①+②パック(1時間30分 / 1200円 / 1週間)
1. 水輪 カルマ2|04:17
2. リンゴと少女|07:13
3. S=13|04:58
4. 逢魔が時|03:59
5. 映像(かげ)|08:02
6. とんぼ|06:55
7. GAVORA|04:33
8. LINE|04:45
9. 鴉|04:22
10. SPIN|04:20
11. 気動|04:05
12. 耳鳴り|05:15
13. RAIN―MEMORY OF CLOUD. 1|04:10
14. YELLOW FISH|03:49
15. THE THIRD EYE|04:32
16. WIND|05:21
17. MEMORY OF RED|03:10
18. LOTUS|03:22
19. ZAP CAT|02:39

各プログラムを単独で視聴する場合はこちらからどうぞ。
・再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara 1980-2008 プログラム① Animated Psychedelia Ⅰ[1980-1991](44分 / 700円 / 72時間)
・再:生成 相原信洋 Re:GENERATION Nobuhiro Aihara 1980-2008 プログラム② Animated Psychedelia Ⅱ[1992-2008](45分 / 700円 / 72時間)

「風景/映画再考Vol.5 相原信洋──風景論としてのアニメーション」トーク採録

昨年11月に、鳥取大学で開催された、「風景/映画再考Vol.5 相原信洋──風景論としてのアニメーション」におけるトークの採録がネットで公開されました。特に第二部「風景論としてのアニメーション」では、外の世界を探索してゆく手段としてのアニメーションという、相原作品の新しい側面に光を当てることができたと思うので、ご一読頂けると幸いです。
・阪本裕文 トーク採録「相原信洋──風景論としてのアニメーション」

この「風景/映画再考」という上映シリーズは映像作家の佐々木友輔さんの企画によるもので、1970年頃に論じられた風景論を再考し、現代においてアクチュアルに読み直す試みといえます。そういう意味で、この上映会で『風景の死滅』デジタル復元版を初上映できたことには大きな意義がありました。最後の対談部分では、佐々木さんの『TRAILer』(2016)に言及しながら、アニメーション/ドキュメンタリー/風景論を内包した視点を提起できた気がするので、ドキュメンタリーに関心がある方にも読んでいただきたいです。

「発掘された映画たち2018『叛軍』シリーズ」@東京国立近代美術館フィルムセンター


「発掘された映画たち2018『叛軍』シリーズ」
会期:2018年2月14日・3月3日
会場:東京国立近代美術館フィルムセンター
http://www.momat.go.jp/fc/exhibition/hakkutsu2018-2/

もう一年近く前のことになってしまうが、フィルムセンターの「発掘された映画たち2018」のなかで上映された岩佐寿弥の『叛軍』シリーズについてのレヴューを書き留めておこうと思う。

岩佐寿弥は、1959年に岩波映画製作所に入社したのち、同製作所の作家らと「青の会」を設立して活動し、その後フリーとなった記録映画作家である。また岩佐は、松本俊夫・野田真吉・黒木和雄を中心として1964年に発足した「映像芸術の会」にも参加しており、戦後の前衛的な記録映画運動における重要な作家の一人でもあった。そんな岩佐が『ねじ式映画 私は女優?』(1969)に続いて、1970年から72年にかけて取り組んだのが、元自衛官である小西誠の叛軍裁判と併行して製作された『叛軍』シリーズである。
同シリーズはNo.1からNo.4まであり、No.4に関しては以前より上映される機会が何度もあったのでよく知られている。しかし、他ナンバーについてはフィルムが行方不明だったため、文献などで存在が記述されるにとどまっていた。しかも、記述の際には「アジビラ映画」であると説明されることが多かったので、実際に映画を観た人間以外はそう思うしかなかった。しかし今回、No.1からNo.3までが発掘されたことで、それらが政治主張の宣伝を目的とした単純な「アジビラ映画」に留まるものではなく、挑発的な記録映画であることが明らかになった。
同シリーズのレヴューに入る前に、まず叛軍裁判の概要と、当時の岩佐の言説を確認しておきたい。

叛軍裁判とは、1969年に三等空曹であった小西が自衛隊内で反戦ビラを撒き、治安出動訓練を拒否したために自衛隊法違反で逮捕された裁判のことである。裁判は1970年に開始され、1975年に無罪判決が下された後、1981年に無罪判決が確定している。ベ平連が関わる小西反軍裁判支援委員会は、公判中の小西への支援活動を展開した。この裁判は当時の運動のなかで重視され、全国各地で宣伝を目的とする叛軍パンフが発行された。
興味深いのは、ベ平連内の叛軍闘争情報センターが発行していた叛軍パンフ『叛軍通信』の紙面に、岩佐の文章が掲載されていることだろう。これは『叛軍』シリーズが特異な表現にも関わらず、実践的な運動に関連して製作されていたことを示している。上映会場に展示されていた資料を見ながら取ったメモなので誤りがあるかもしれないが、要点は概ね次の通りである。(『叛軍通信』号数記載無し〔No.1〕、叛軍闘争情報センター、1970年5月15日発行)
・「反軍運動を映画、製作、運動に結びつける」
・「自衛隊員を私たちの戦列に加える」
・「よど号の報道がイメージを逆転させた。見る者の行為に示唆を与えた」
・「反軍は銃口の逆転」
・「作家の映画の否定、与える与えられるの逆転」
・「作品や監督から映画を解放する」
・「女優から自衛隊へ」
・「反軍の映画が違う局面を持つのは、現実の政治思想と映画行為という一大フィクションが渦巻いているから」

また岩佐は同時期に発行された雑誌『話の特集』のエッセイのなかでも、次のように述べている。(岩佐寿弥「反叛反」、『話の特集』1970年5月号、pp.112-113)
・「叛軍、人民武装を映画化するのではない。叛軍、人民武装の思想を映画で主張するのでもない。叛軍、人民武装の思想がぼくの映画の表現行為になるかどうか、ここまでいきつくかどうかの行脚の作業なのである」
・「「現実」は、大方の予感や想像力を超えて先行し突出するものだ」
・「この現実に、ぼくの映画以前の全思考と、「叛軍」で映画する過程の思考とが向き合う」

これらの岩佐の文章からは、作品や監督の記名性によって生じてきた「見る・見られる」「与える・与えられる」という一方通行な意味の交通から映画を解放し、映画を製作するという行為それ自体を政治的なプロセスに投げ込むことで、ある瞬間に「現実の政治思想」が一気にフィクションに反転してしまうような、特異な状況を作り出そうとする考えが窺える。この虚実の反転により、映画を観る者たちの既存の現実認識には大きな亀裂が走り、不安定な状態で現実のなかに放り出されることになる。このように対象の意味性を固定化することを良しとせず、むしろ積極的に意味を流動化させようとする態度は、松本俊夫の前衛記録映画論と通底するものであると言う他ない。これは、同時期の小川紳介や土本典昭が、撮影対象に内在するというアプローチによって記録映画の可能性を拓きながらも、不可避的に出来事の事実性に引き寄せられていったのとは対称的である。
次にシリーズの各作品について個別にレヴューしてゆきたい。


叛軍No.1(22min, 16mm, 1970)
「叛軍」製作集団、監督:岩佐寿弥、出演:小西誠

『叛軍』シリーズの第一作であり、公判にともなって新潟地方裁判所周辺で行われた学生活動家の運動の様子が記録されている。上映の際の研究員の方の解説によると、別の監督の作品のために撮影された素材が使用されているらしく、シリーズの中では最も「アジビラ映画」的な作品になっている。モノクロ。サウンドは非同録で、録音された音声素材を編集段階で大まかに合わせている。
作品の構成は次の通り。

・闇夜に紛れてビラを街頭に貼る学生活動家たち
・学生活動家の決起集会の様子。叛軍裁判の訴状を読み上げる声が重ねられる
・裁判所にて傍聴券を求める学生活動家たち。そして裁判所周辺で繰り広げられるデモと、デモを監視する機動隊の車輌(機動隊員は、市販化されたばかりのポータパックでデモの様子を撮影する)
・新潟自衛官募集の看板を撮影したショット
・閉廷後、街頭で通行人に署名を募る小西の姿を捉えて映画は終わる


叛軍No.2(28min, 16mm, 1970)
「叛軍」製作集団、監督:岩佐寿弥、出演:演劇集団「兆」

『叛軍』シリーズの第二作。公判中の新潟地方裁判所を舞台として、ブレヒトの教育劇である「例外と原則」が、演劇集団「兆」によって上演される(No.4に出演する和田周もこの劇団の一員)。同シリーズ中で最も批評的な作品であり、裁判の理不尽さを明らかにする「教育映画」である。モノクロ。サウンドは完全な同録。
映画はA・B・Cの三つのシーンによって区切られており、各シーンは全てワンショットの長回しによって切れ目なく撮影されている。作品の構成は次の通り。

導入部
・冒頭で「裁判についての教育映画」と書かれた字幕が映し出される

シーンA
・仮面をつけた数名の劇団員が、裁判所の外周を歩きながら「例外と原則」を上演する。手持ちの16mmカメラも彼らの歩調に合わせて歩き続ける。撮影は朝方だと思われ、ほとんど人通りがない

シーンB
・「同日、傍観者である映画が法廷に入ろうとして(後略)」と書かれた字幕が映し出される(まるで「映画」が人格を持っているかのように書かれていることに注意)
・裁判所の敷地内で、傍聴のために入廷しようとする学生活動家たちと職員の押し問答が続けられる
・カメラがパンすると、その横で劇団員が「例外と原則」を朗読している

シーンC
・学生活動家たちは法廷控室にまで進むが、やはり職員と押し問答になる
・カメラがパンすると、やはりその横で劇団員が「例外と原則」を朗読している

終幕部
・劇団員全員の正面像のフィックスショットが映し出される(ちなみに、このショットをネガポジ反転したイメージは、作中で繰り返しカットインされる)

さて、作中で上演されるブレヒトの「例外と原則」は、次のようなストーリーである。
案内人の苦力を酷使しながら石油利権のために旅をしていた商人が、砂漠の中で水が尽きるという事態に陥いる。疑心暗鬼になった商人は、水筒に入った水を分け与えようとして商人に近づいた苦力を、石を持って自分を殴り殺しにきたのだと思い込み、殺害する。後日、殺害された苦力の妻に訴えられて、商人は裁判にかけられる。しかし判決は、階級社会の「原則」からいって、苦力が自分に殺意を持っていると考えた商人の判断はやむを得なかったとして、苦力の善意という「例外」を退ける。そして商人は無罪を言い渡される。
実際に公判が進行している裁判所を舞台として、このような内容を持つ教育劇を上演することは、裁判が行われている状況を客観化し、丸ごと異化するものとして機能する。本作の撮影直前のタイミングで執筆されたと思われる雑誌『話の特集』のエッセイのなかで、岩佐が次のように述べていることも指摘しておきたい。(岩佐寿弥「小西反軍裁判傍聴雑感」、『話の特集』1970年12月号、pp.48-49)
「「裁判とは何か。」私はいま一撃のもとにこれを表現してみせる映画のことを考えている。それはイチかバチかの方法なのだが、その方法の詳細については、いまここで述べるわけにはいかない」

また上映会場に展示されていた資料によると、1971年2月8日には豊島公会堂で「叛軍への模索」と題されたイベントが開催されており、『叛軍No.1』『叛軍No.2』の上映に併せて、そこでも「例外と原則」の上演(にわか芝居)が行われたようだ。出演者として小西・最首悟・芥正彦の名前があり、芝居と討論が入り混じった催しだったと想像される。


叛軍No. 3(9min, 16mm, 1971)
「叛軍」製作集団、監督:岩佐寿弥、出演:小西誠

『叛軍』シリーズの第三作。反帝高評連合の集会における、現役自衛隊員による反軍活動についての演説の模様が記録されている。本作だけ取り出せば「アジビラ映画」と見なすこともできるが、No.3とNo.4の前半は対をなしており、併せて観る必要があるだろう。モノクロ。サウンドは非同録で、録音された音声素材を編集段階で大まかに合わせている。
作品の構成は次の通り。

・小西の紹介によって、休暇を取って九州の基地から上京した現役自衛官が、タクシーで会場に到着する。その表情は、上映プリントに直接マジックで目線を入れることによって隠されている
・小西の演説が最初に行われ、その後、サングラスに制服姿という出で立ちで現役自衛隊員が演説を行う
・終幕部では、基地の風景を撮影したショットに重ねて、反軍ビラが読み上げられる


叛軍No.4(96min, 16mm, 1972)
「叛軍」製作集団、監督:岩佐寿彌、撮影:堀田泰寛、録音:岡本光司、出演:和田周・最首悟

『叛軍』シリーズの第四作であり、「現実の政治思想」がある瞬間にフィクションに反転してしまうという、極めて特異な作品。岩佐のインタビュー「【ドキュメンタリストの眼⑤】 岩佐寿弥インタビュー(後編) text 金子遊」では、本作の制作経緯がかなり詳細に明かされているので一読を願いたい。それによると本作は、岩佐が映画の世界に入る前に出会った人物(S氏)から聞いたという、太平洋戦争中の反軍行動のエピソードが元になっているという。そして、岩佐は何年も前に聞いたこのエピソードを「もしかしたら妄想かもしれない」と考えて、これを『叛軍』シリーズに接続することを思いついたらしい。モノクロ。サウンドは一部を除き同録。
作品の構成は次の通り。

前半部
・皇居前広場での天皇の一般参賀を後景にカメラに向き合い、反軍活動について語る元二等兵「山田」(先述の岩佐のインタビューによると、ここでの音声はS氏の肉声とのこと)
・東大駒場キャンパスの講義室にて架空の講演会が行われ、戦時中の反軍行動についての山田二等兵の演説が一時間にわたって続く(No.3の演説の形式を模倣して、和田が山田二等兵を演じる)
・そこで語られる物語は、(戦地へ送り込まれたくなくて)狂人の真似をして天皇制を批判するが、それが反軍行為として認められずに終わるという内容のもので、岩佐が聞いたエピソードをもとに脚色が加えられている
・山田二等兵が壇上から降り、最首がコメントする。ただし山田二等兵が壇上から降りる瞬間のショットは不自然に編集されており、そこだけ違う人物の声による反軍演説にすり替えられている(先述の岩佐のインタビューによると、この部分の音声もS氏の肉声とのこと)
・街を走る車の前方を、助手席から撮影した長回しショット

後半部
・山田二等兵を演じ切った和田と最首が、酒を飲みながら居酒屋の一室で議論を行う。最初から泥酔状態の最首は、俳優であることの意味について和田にしつこく質問し、その問いが和田にとっての「反軍とは何か」という問題に繋がるのだと詰め寄る
・和田は答えに詰まりながら、「俳優になりたかった訳ではなく、いま俳優なのも周囲の誤解に基づいているに過ぎない」「そういう行動でしか反軍について語れない」という旨の返答に至る
・最後に、和田の正面像のフィックスショットに重ねて以下のセリフが3回繰り返されて映画は終わる(先述の岩佐のインタビューによると、この部分の音声はS氏にセリフを読んでもらったとのこと)
「男Aに扮することをやめる。男Bに扮することをやめる。何者にも扮することをやめる。それで私があとに残ったわけではない。それでも扮するそれを私と呼ぶことはできない。扮し続ける私は私ですらない。私自身に扮している。私自身の後ろで私は何者でもない。ただ扮している私がいる」

「1968年 激動の時代の芸術」@千葉市美術館


「1968年 激動の時代の芸術」
会場:千葉市美術館
会期:2018年9月19日~11月11日
http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2018/0919/0919.html
※北九州市立美術館分館(2018年12月1日~2019年1月27日)、静岡県立美術館(2019年2月10日~3月24日)に巡回

昨年観た展覧会で最も印象深かったものといえば、間違いなく千葉市美術館で開催された「1968年 激動の時代の芸術」となる。本展には若干関わったこともあり、そういった思い入れも込みになってしまうが、以下この展覧会の意義を書き留めておきたい。

本展はタイトルの通り、社会全体が激動の渦中にあった1968年に焦点を合わせて、この時代の広範な芸術を回顧するものである。いままでにも、1950年代に焦点を合わせた「「美術にぶるっ! ベストセレクション日本近代美術の100年 第2部 実験場1950s」(東京国立近代美術館|2012)や「日本の70年代 1968-1982」(埼玉県立近代美術館|2012)など、戦後美術を詳細に再検証する回顧展は行われてきたが、1968年から50年ということもあり、いよいよこの時期が主題化されたということだろう。本展は現代美術を中心とするものではあるが、文化全体が混ざり合いながら強い政治性を持っていた時代ゆえに、取り上げられる対象は、演劇・舞踏・映画・建築・グラフィックデザイン・漫画など多岐にわたっていた。本展の構成は以下の通り。

A1:1968年の社会と文化
A2:美術界の1968
B1:1968年の現代美術
B2:環境芸術とインターメディア
B3:日本万国博覧会
B4:反博の動きと万博破壊共闘派
B5:トリックス・アンド・ヴィジョン
C1:アンダーグランドの隆盛―演劇・舞踏・実験映画
C2:イラストレーションの氾濫
C3:漫画と芸術
C4:サイケデリックの季節
D1:プロヴォークの登場
D2:もの派の台頭
D3:概念芸術の萌芽

まず、Aのセクションは導入部にあたる。「A1:1968年の社会と文化」では、様々な写真家の作品や、城之内元晴の『新宿ステーション』などによって、1968年の雰囲気を観客に実感させる。そして、「A2:美術界の1968」では美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件などの造反行動を、ビラなどの文書資料によって明らかにする。
Bのセクションは本展の核心部分にあたる。「B1:1968年の現代美術」では、「前衛の終焉」を象徴する出来事の一つであった赤瀬川原平の千円札裁判が取り上げられる。続く「B2:環境芸術とインターメディア」と「B3:日本万国博覧会」では、「なにかいってくれ いま さがす」(草月会館|1968)や「クロス・トーク/インターメディア」(国立代々木競技場体育館|1968)といった当時のインターメディア的なイベントから、前衛芸術の万博参加に至るまでの過程が取り上げられる(その中心となるのは、松本俊夫の『つぶれかかった右眼のために』と、せんい館における『スペース・プロジェクション・アコ』である)。その一方で、「B4:反博の動きと万博破壊共闘派」においては、前衛芸術の万博参加とパラレルに進んだパフォーマティヴな反博運動が、ゼロ次元を中心に取り上げられる。また、「B5:トリックス・アンド・ヴィジョン」では、視覚的な認識の制度を解体する作品が選定された「トリックス・アンド・ヴィジョン 盗まれた眼」(東京画廊・村松画廊|1968)が取り上げられる。
Cのセクションは、現代美術と越境し合った1968年の文化を捉えるものである。「C1:アンダーグランドの隆盛―演劇・舞踏・実験映画」では、天井桟敷と状況劇場といったアングラ演劇、『季刊フィルム』『(第二次)映画批評』『シネマ69』などの先鋭的な映画雑誌、足立正生、宮井陸郎、シュウゾウ・アヅチ・ガリバーの実験映画など、演劇・舞踏・実験映画におけるアンダーグラウンド文化が取り上げられる。そして、「C2:イラストレーションの氾濫」と「C3:漫画と芸術」では、グラフィックデザイン・イラスト・漫画といった当時の視覚文化が取り上げられる。極め付けが当時のアンダーグラウンドなディスコ「MUGEN」の再現を試みた「C4:サイケデリックの季節」であり、そこではエクスパンデッド・シネマやハプニングとも密接な関係を持っていたディスコや、風俗としてのサイケデリックカルチャーを取り上げられる。
Dのセクションは1968年以降につながる動向を捉えるものである。「D1:プロヴォークの登場」では、意味化される以前の世界に立ち会う試みであったプロヴォークの活動が取り上げられる。そして「D2:もの派の台頭」および「D3:概念芸術の萌芽」では、「もの派」と概念芸術(特に、コミューンへの指向性をもった松澤宥)が取り上げられ、「第10回日本国際美術展 人間と物質」(東京都美術館|1970)が万博に対置される。

膨大な物量の作品および資料が、1968年の混沌を冷静に読み直すべく整然と展示された印象であるが、その狙いは目的を果たしていたように思う。この展覧会は、1968年の芸術を現在と切り離して「あの時代は熱かった」と感傷的に懐かしむものではない。それは、戦後日本の前衛芸術が終わり、芸術という枠組みについての反転が生じた瞬間を1968年に見出し、これまで大雑把に一般化されてきたその歴史を再考しようとするものである。この問題意識は、本展を企画した学芸員の一人である水沼啓和のディレクションによるところが大きいと思われるが、このことは展覧会カタログに掲載された水沼のテクスト「1968 現代美術の転換点」からも読み取ることができる。以下、そのテクストの第4節を簡単に要約してみたい。

水沼はテクストの中で、千円札裁判の有罪判決と、前衛芸術家の万博への動員という二つの出来事によって前衛が終焉したとする一般化された見方に対して、次のように反論する。まず千円札裁判については、裁判によって犯罪と結論付けられたことによって「終焉」があったのではなく、結局のところ「芸術であるから無罪」という弁護方針によって、前衛が自らの「匿名性」や「得体の知れなさ」を捨てるものだったところに問題をみる。それは石子順造が指摘した通り「安全に国家体制内に温存された芸術の近代」に自ら収まるものだったといえ、前衛芸術が政治性を失うことに等しかった。前衛の万博参加と反博運動については、国策イベントとしての万博に前衛芸術が参加したことだけでなく、反博運動も当時の左翼的な政治言説の範疇にとどまり、有効な戦略を取ることができなかったため、結局のところ万博と反博が同じ祭りの中に飲み込まれてしまったことを指摘する。これは芸術の問題として万博(これを「近代」と言い換えることも可能だろう)を捉えることができなかったことを意味している。そして、万博参加と反博運動の対立の一方で、政治とは離れた場所で、観念的に現代美術を追求する「もの派」などの動向が出現することで、「前衛の終焉」は決定的なものになったという訳である。

本展のなかでこの論理が説得力を持って成立していたのは、「A2」と「B4」で美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件、そして万博破壊共闘派が、1968年の芸術における造反行動として展示されていたためである。これまで椹木野衣や黒ダライ児によって言及される機会のあった万博破壊共闘派やゼロ次元はまだしも、美共闘・日宣美粉砕・フィルムアートフェスティバル中止事件を、共通する社会的背景を持った造反行動として取り上げた展覧会は皆無だった。これらの展示によって、万博参加と反博運動が表裏一体のものであった*1こと、すなわち戦後日本における前衛の限界が露呈しているのである。この限界は、制度に対する造反行動が、結局のところ制度に依拠することで造反足り得ているという事実を示しており、それは言うまでもなく千円札裁判における「芸術であるから無罪」という、ある制度を前提とした主張とも通底している。

本展は1968年の芸術・文化を現代美術を中心として考察し、「前衛の終焉」*2と、戦後日本におけるねじれた近代の問題を展覧会を通して明らかにした、極めて重要な展覧会であったと思う。水沼氏の最後の仕事に敬服しながら、氏のご冥福をお祈りする。

*1:ただし私は、万博における松本俊夫・横尾忠則らのせんい館については、例外的な価値を認める立場をとる(水沼のテクストの中でも、せんい館については、そこにポストモダンを先取りする戦略があったことが指摘されている)。松本は万博以降、個人の内的な変革を目指して、個人の意識を規定してしまう「言語」や「物語」の問題に取り組んでいったが、それは石子が指摘するような「場所の制度性」を問題とする立場を踏み越えている。博論の結論でも簡単に触れたが、このすれ違いについては同時期の松本と石子の論争を参照のこと。

*2:水沼は1968年における「前衛の終焉」を、テクストと展示の中で論証した訳であるが、ここに私は、映画の文脈から補助線を引いておきたい。映画における前衛のその後は、現代美術のそれよりも複雑であったといえる。足立正生は風景論を経てパレスチナに越境して日本赤軍に合流し、野田真吉・城之内元晴は民俗学的な撮影対象に向かい、小川紳介・土本典昭は局地的な社会問題の内部に向かった。映画における前衛は、現代美術とは異なり、その後も持続性を持ってある程度は展開したのである。むしろ、映画における「前衛の終焉」が決定的なものになったのは、蓮實重彦が政治性を括弧に括る表層批評を1970年代に展開したためである。