図書新聞「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」

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『図書新聞』8月13日号と8月27日号に、前後編に分けて「鼎談 阪本裕文×江口浩×佐藤洋『松本俊夫著作集成』をめぐって」と題された、江口さん・佐藤さんと私の鼎談が掲載されました。5月28日から6月3日にかけて渋谷アップリンクで開催された「混沌が意味するもの 松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」のなかで組まれたトークイベントのひとつ、「松本俊夫と前衛記録映画」(5月28日)を抜粋して採録したものです。松本俊夫の記録映画や実験映画を読み解くキーワードとして、松本が子どもの頃に親しんだ「忍術映画」や「切手収集」を取り上げた前編、そして50年代の「政治的な正しさ」に60年代の「個人的な楽しさ」を対置させ、実験映画(すなわち、自分のための映画)に向かった松本の意識の変化を論じる後編という、ちょっと今までにない内容の鼎談になっています。結構面白いと思いますので、よろしくお願いします。

東京現音計画 #07 クリティックズ・セレクション1:沼野雄司@北とぴあ つつじホール

日時:2016年7月14日
会場:北とぴあ つつじホール
プログラム監修:沼野雄司
出演:東京現音計画 有馬純寿(エレクトロニクス)、大石将紀(サクソフォン)、神田佳子(打楽器)、黒田亜樹(ピアノ)、橋本晋哉(チューバ)
客演:宮村和宏(オーボエ)、大田智美(アコーディオン)

五年前の震災・原発事故を経て、この国は徐々に変化しつつある。それは単純に交代後の政権によって右傾化した政治方針が推進されているということだけでなく、それを「まあ、それくらいなら」と何となく受け入れてしまえるほどに、人々のなかに権力の内面化、あるいは消極的受容が進行しているということによる。このような日常生活レベルで、権力の消極的受容が進行する状況下では、日常生活を撹乱するかたちで現れる政治主張は、ノイズとして煩がられるか、時として反射的な攻撃の対象とされる。最近、フジロック・フェスティバルのトークイベントにSEALDsのメンバーが招聘された際に、「音楽に政治を持ち込むな」という反応が一部のネットユーザーのあいだから立ち現れたことなどは、その分りやすい一例といえるだろう。言うまでもないが「音楽に政治を持ち込むな」、すなわち「芸術に政治を持ち込むな」という発言は、それ自体が「ある空間において政治的なものの存在を許容しない」という政治的な発言になっている。あらゆる文化は、社会的なレイヤーが重なり合うことで生み出された、政治的な織物である。そのようなレイヤーは明確に目に見える場合もあれば、表面的には見えてこない場合もある。いずれにせよ社会の内部に存在する限り、政治的に漂白された純粋芸術などはあり得ないのだ。

何故こんな話からコンサートのレヴューを始めたかといえば、それは今回の「東京現音計画#07」のテーマが、そのものずばり「新たな抵抗へ向けて」と題されていたからである。今回のクリティック・セレクションと題されたプログラムは、外部から監修者として音楽研究者の沼野雄司を招いて組まれている。ウェブと当日のプログラム冊子ではステートメントの内容が異なるのだが、ここではウェブ版(新たな抵抗へ向けて Toward Another Resistance)を参照しながら話を進めたい。このステートメントにおいて「抵抗」という言葉は、直接的な政治主題に限定されるものではなく、社会との摩擦や衝突を恐れない、音楽という営為そのものへの根本的問いかけとして位置付けられている。すなわち、作曲や演奏といった「音楽の生産行為」において、障害や抑圧として立ち現れる音楽的な諸制度に抵抗すること。時として、ここに直接的な政治主題が絡んでくる場合もあるだろうが(実際、そのような作品は過去において数多く書かれたが)、それも広義の「抵抗」のひとつの表れに過ぎない。重層的な、社会的レイヤーの内部においては、障害や抑圧は様々なかたちで姿を表すのである。このように「抵抗」を、音楽の生産行為一般にまで拡張して捉え直すことは、日常生活レベルで権力の消極的受容が進行する状況下においては、有効な突破口になるかもしれない。

この日、上演された作品は以下のとおり。東京現音計画は特異な編成のグループであるため、幾つかの楽曲では、作曲家の承諾を得て、使用楽器を変更することによって対応していた。いずれも、比較的わかりやすい仕掛けによって、さまざまな制度に対する抵抗のあり方を示す作品であり、沼野によるセレクトのコンセプトは明快である。

1:Steve Reich『Pendulum Music for 3 or 4 microphones, amplifiers and loudspeakers』(1968)
スティーヴ・ライヒ『振り子の音楽』
ステージ上には、四台のスピーカーが上向きに置かれ、それぞれのスピーカー上には、四本のマイクが吊るされている。そして演奏家が登場し、この吊るされたマイクを振り子のように揺らすことで、周期的なハウリングを発生させる。四つの周期のズレがミニマルミュージック的な複雑性を生成しはじめると、演奏家はすぐに退場し、マイクの揺れが自然に収まるまで作品演奏は続けられる。初期のライヒの作品には人為性を排除しながら、機械的な方法によって構造を前景化させるコンセプチュアルな方向性が存在しているが、それを最もよく示した作品だと思う。

2:Paolo Castaldi『Elisa Per Pianoforte』(1967)
パオロ・カスタルディ『エリーザ』
イタリアのレーベルCRAMPSの「nova musicha」シリーズの5番にも作品を残している、カスタルディのピアノ曲。沼野の解説によると『エリーゼのために』をモチーフとしながらも、それを脱臼させた複雑な記譜となっているらしい。聴衆からしてみれば、表面的には素人のピアニストによる危なっかしい演奏に聴こえるのが面白い。最後にピアニストが声を上げながら鍵盤を叩いて終了。

3:Chaya Czernowin『Die Kreuzung for Accordion, alto saxophone, and Tuba』(1995)
ハヤ・チェルノヴィン『雑種』
初めて名前を聞く作曲家、ハヤ・チェルノヴィンによる、アコーディオンとサクソフォンとコントラバスのための作品だが、今回はコントラバスがチューバに変更されている。それぞれの楽器が別々に動き、時として奇妙なまとまりを見せながら進行する。カフカから取られたタイトルの通り、不条理な音の駆け引きが楽しめた。

4:Christian Wolff『Exercise 5 for 2 or more players』(1973〜74)
クリスチャン・ウォルフ『エクササイズ5』
二人以上の演奏家のための作品で、今回はサクソフォン、チューバ、パーカッション、ピアノによる編成である。沼野の解説によると、解釈を演奏家に任せた上で、複数人にひとつの旋律を演奏させるというコンセプトらしい。今回の演奏では、まるでゲームのように各人が自由な駆け引きを展開しており、先の『雑種』にも共通する不条理さが存在していた。また、この演奏家の駆け引きに協働的な社会性を見出すならば、近年の現代美術における、小グループ内での協働モデルを提示するタイプの作品との間に、共通性を指摘できるかもしれないと思えた。

5:Horaţiu Rădulescu『The Origin for one pecussionist with two bass drums』(1997)
ホラチウ・ラドゥレスク『オリジン』
ラドゥレスクというと、スペクトル学派の作曲家ということ程度しか知らない私だが、これは二台のバスドラムによる、一人のパーカッション奏者のための作品であり、とても興味深かった。一聴するとスローなパーカッションの連打であるが、倍音の響きに奇妙な違和感が残る。沼野の解説によると、パーカッションを一つの音響の塊としてみなしたような、相当複雑な拍子の構成が試みられているようだ。

6:Svetlana Lavrova『Gravity for oboe, saxophone and electronics』(2013)
スヴェトラーナ・ラヴロヴァ『重力』
初めて名前を聞く作曲家、スヴェトラーナ・ラヴロヴァによる、オーボエ、サクソフォン、エレクトロニクスという編成による作品。あまり期待はしていなかったのだが、引き伸ばされた管楽器の微細な響きにノイジーな電子音が絡まるという内容で、なかなか楽しめた。

7:Joakim Sandgren『Objets saisis pour saxophone et ordinateur』(2011〜12)
ヨアキム・サンドグレン『押収品』
こちらも初めて名前を聞く作曲家、ヨアキム・サンドグレンによる、バスクラリネットとエレクトロニクスのための作品だが、今回はバスクラリネットがテナーサクソフォンに変更されている。4チャンネルの間欠的な電子音に、サクソフォンによって発生する奇怪な音響が絡まる。管楽器でこのような音を出すことが可能なのかと驚いた。明らかにノイズリスナー向けの作品であり、大変興味深い。

8:Louis Andriessen『Workers Union for any loud-sounding group of instruments』(1975)
ルイ・アンドリーセン『ワーカーズ・ユニオン』
この日の「新しい抵抗」のあり方を示すプログラムの締めくくりは、直接的に政治的題材を取り扱う作品として、アンドリーセンの『労働組合』がセレクトされていた。この作品は「大音量の楽器グループのための」と指定されているように、とにかく大音量で演奏することが求められている(この日の編成は、オーボエ、サクソフォン、チューバ、パーカッション、アコーディオン、ピアノ)。楽曲は、まるでフランスのプログレバンド、マグマを思わせるようなテンションで、全楽器のユニゾンにより進行してゆく。演奏という労働行為を政治的に捉え直した、極めてラディカルな作品だと思えた。それは政治的な音楽としては、数多の労働歌よりも直接的なものだろう。

展覧会予告「MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考」

MAMリサーチ004:ビデオひろば――1970年代の実験的映像グループ再考
会期:2016年7月30日(土)-2017年1月9日(月・祝)
主催:森美術館
企画:近藤健一(森美術館キュレーター)
協力:中谷芙二子、阪本裕文(稚内北星学園大学准教授)
会場:森美術館
開館時間:10:00-22:00(火曜日のみ、17:00まで)
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/mamresearch/index.html

「ビデオひろば」は1972年に結成された日本の実験的映像グループです。中谷芙二子、山口勝弘、かわなかのぶひろ、小林はくどう、松本俊夫、萩原朔美、和田守弘ら、多数のアーティストやクリエーターが参加しました。当時最新のメディアであったビデオをコミュニケーションのツールとし、メンバーが協働して社会運動に介入したり、ビデオを介して一般市民の議論を促進するなどその活動は、既存のマスメディアに対するオルタナティヴなメディアの創造を目指した、ユニークなものでした。また、会報誌を発行し言説形成や活動報告を行い、ビデオカメラ等の機材を安価で貸し出すなど、実験的な試みも行いました。グループ解散後も、メンバーの多くは作家活動を継続し現代美術に大きな影響を与えました。
本展は、「ビデオひろば」の主要メンバーの映像作品に加え、写真、テキスト、書籍、資料等も多数展示し、その活動を今日の視点で再検証する試みです。


思えばここ数年で、写真美術館が恵比寿映像祭の枠内で「ビデオひろば」の作家たちや「ビデオアース東京(中島興)」を取り上げ、文化庁メディア芸術祭で飯村隆彦が功労賞を受け、東京国立近代美術館がリプレイ展で造形作家の映像作品(フィルムおよびビデオ)を取り上げ、国内のビデオアートをめぐる歴史的な掘り起こし作業も進んできた感がありますが、ようやくビデオアートの様々な要素を集約していたといえる代表的なグループ「ビデオひろば」の特集が、MAMリサーチの第4回として、森美術館で開催されます。
私は今回、資料提供その他で協力しました。ちょうど2006年に名古屋で開催した「初期ビデオアート再考」展から10年目ということもあり、今回の展示に関わって一区切りついたような気がしています。展覧会の会期も長いので、何かのついでによろしくお願いします。

「ビデオひろば」の簡単な解説は下記を参照のこと。
「ビデオひろば」Artwords(アートワード)

参議院選挙の前日に

自民党の改憲案については、二年前のエントリーでも書いた。現行憲法の第十章にある基本的人権についての条文(第九十七条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」)が自民党改憲案では削除され、その一方で自民党改憲案第九十九条では、内閣に強い権限を与える事になる緊急事態の宣言に関わる条文が追加され、さらに自民党改憲案第百二条では、国家を縛るはずの憲法によって逆に国民を縛るという転倒した構図が示されているあたりに、彼らがどのような国家像を持っているかが窺える。

自民党改憲案(日本国憲法改正草案Q&A(増補版)
第九章 緊急事態
第九十九条(緊急事態の宣言の効果)[新設]
緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。

第十章 最高法規
[現行憲法の第九十七条を全文削除]

第百二条(憲法尊重擁護義務)[新設]
全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。

とまあ、こんなことは私なんかが言うまでもなく様々な論者によって問題視され、散々語られてきたことだ。自ら進んで国家主義的なものに隷属したがるようなタイプの人間でもない限り、このような案には乗れないだろう。しかし、現政権は2013年に秘密保護法を通した後、2015年に安保法制を通した一連の流れを引きついで、改憲勢力で2/3を取ったならば、改憲の発議に着手するだろう。

ここで私は違和感を持つ。それは素朴な違和感である。私には、どうしても多くの人々が憲法を積極的に変えたいという意思を持っているようには思えない。また、現在の原子力規制において進められている具体的な事故を想定しない再稼動や、高浜原発での40年ルールの形骸化の流れについても、積極的に賛成しているようには思えない。それでも、選挙の度に、望んでいない方向にこの国は転げ落ちるように進んでゆく。要するに、大衆の感情――震災以降の現状に対する漠然とした不満感や閉塞感――と、政治的な結果がまったく噛み合わなくなってきているのではないか。いや、むしろ大衆の感情が妙なかたちで政治に吸い上げられているというべきだろうか。その度合いは、震災以降、年を追うごとに広がってきている。

恐らく、今後の左派やリベラルは、大衆の感情の問題をもっと深く考えなければならなくなる。典型化したスローガンの連呼や優等生的な論理では、漠然とした不満感や閉塞感を解消することはできない。花田清輝がそれに腐心していたように、人々の漠然とした感情を組み上げることの大切さを深く捉えなければ、国家主義的なものに人々の感情が結果的に吸い上げられてゆく現状は、相も変わらず続くだろう。しかし、それを考えるのは明後日以降でいい。明日はひとまず投票所へ向かおう。

Vatican Shadow – Media in The Service of Terror

つい先日のPrurientとしての『Unknown Rains』のリリースを経て、ドミニクはVatican Shadow名義での活動も再始動させた模様。現在のところダウンロードでのリリースのみだが、テープフォーマットでのリリースもアナウンスされている。内容に関してはフロア対応になったMuslimgauzeであるといえ、その方向を引き継ぐものであることはコンセプト的にも明白。

「混沌が意味するもの──松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」の記録

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著作集成刊行開始を記念して、5月28日から6月3日まで一週間にわたってアップリンクで催された、「混沌が意味するもの──松本俊夫アヴァンギャルド映像特集上映」が無事終了しました。ご来場頂いた皆さま、ありがとうございました。上映会としては連日多くのお客さんに来て頂き、大成功でした。特に作曲家を招いた「湯浅譲二の映画音楽」特別プログラムは満席となり、せっかくお越しい頂いたのに入場できなかったお客さんもおられ、申し訳なかったです。所々記憶が抜けるくらい忙しく、ほとんど写真を撮れなかったので、一番上の写真以外は川崎さんのFacebookから転載です。上段から湯浅さん+川崎さんによるトーク、江口さん+佐藤さん+私によるトーク、上映初日にギリギリ間に合った第I巻と、おまけのアヴァンギャルドステッカー(?)の写真です。

トークイベントの構成についても、ちょっと書いておきます。これらのトークは、最初から評論編と実作編で分けることを考えました。さらに評論編はAプロに対応した「松本俊夫と前衛記録映画」(江口浩+佐藤洋+私)と、B・Cプロに対応した「松本俊夫と映画の変革」(西嶋憲生+平沢剛+私)に分けて、1968年で区切るような形で、各時代の作家の活動をテーマとしてみました。実作編は映像と音楽それぞれに焦点を当てる形で、「体験的日本実験映画史」(石田尚志+西村智弘)と、「湯浅譲二の映画音楽」(湯浅譲二+川崎弘二)という形で組んでみました。

湯浅さんと川崎さんによる「湯浅譲二の映画音楽」のトークは、作曲家の創作の初期衝動にせまるような大変充実したものとなり、客席におられた現代音楽関係の方々にも満足してもらえたのではないかと思います。私としては「松本俊夫と前衛記録映画」のトークのなかで、いままで見過ごされてきた松本俊夫の少年期〜青年期の風景に光を当てることができて、とても満足しています。他にも「体験的日本実験映画史」のトークは、一人の作家が松本俊夫をどのように受容したかをテーマに、西村さんが石田さんの言葉を引き出してゆく形で進められました。これが作り手ならではの実践的な立場から発される名言連発のトークとなり、感銘を受けました(打ち上げでは馬鹿話に終始して、私が受けた感銘が、石田さんにうまく伝わってなかった気もするが…)。「松本俊夫と映画の変革」のトークは、松本俊夫の政治的な立場の変遷に対する評価や、当時高校生だった西嶋さんから見た1960年代末の新宿の風景など、掘り下げたいテーマが幾つか出てきたものの時間切れで勿体なかったので、別の機会を設けてもっと深めたいところです。

次は著作集成第II巻の刊行時に、また違う切り口でイベントを催したいと考えていますので、ご期待ください。という訳で、また半年ほど編集・調査に没頭します。

追記:著作集成第I巻に情報の訂正がありましたので、正誤表を確認ください。申し訳ありません。

出版予告『松本俊夫著作集成 Ⅰ 一九五三 ─ 一九六五』

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松本俊夫著作集成Ⅰ 一九五三 ─ 一九六五
松本俊夫[著]
森話社
A5判/616頁
本体6000円(+税)
http://www.shinwasha.com/096-8.html

日本実験映画界の重鎮であり、理論面においても前衛芸術運動を牽引した映像作家・松本俊夫の著作を網羅した集成(全四巻)。芸術的闘争の歴史的記録であるとともに新たな発見の書。

「私の過去六冊の評論集と、単行本には掲載されていない多量の発掘文を混ぜ合わせて、それらを編年史的に目次化したのがこの著作集成(全四巻)である。著者としてはここから視座の広域化や多層化が浮上し、各種の関係レベルでの新発見が、多角的かつ活発に生まれてくることを期待してやまない。」────松本俊夫

Ⅰ巻では『記録映画』や『映画批評』等の雑誌に掲載された、1953年から1965年までの松本の著作を収録し、『映像の発見』(1963)と『表現の世界』(1967)に再録された論文の初出に加え、「作家の主体ということ」「疑似前衛批判序説」をはじめとした、単行本未収録の論文・記事を含めた全124本を収録。本巻によって芸術と政治の狭間にあった松本俊夫が、アヴァンギャルドとドキュメンタリーの統一をいかに模索していったのか、その過程が明らかになるだろう。


収録されるテクストは、以下の通り。[a]は第一著作集『映像の発見』に収録のテクスト(全29本)で、[b]は第二著作集『表現の世界』に収録されたもののうち、1965年までに発表されたテクスト(18本)となる。よって、本書に収録されたテクスト124本のうち、77本が既発著作集に未収録ということになる。
また、本著作集成は、既発著作集に収録されたテクストを含め、初出を底本とする基本方針をとっており、Ⅰ巻では122本が初出となり、初出の存在を確認できなかった[*]の付いた2本のみが再録に拠っている。さらに参考というかたちで、高校の部活動会報に書かれた「趣味之王郵便切手蒐集」(1948)と、卒業論文「ヘーゲル美学に於ける主観と客観の関係」(1954)より、「問題提起」の部分を収録した。
第一著作集『映像の発見』と第二著作集『表現の世界』に収録されたテクストが、この時期に発表された松本の著作物のうちの半分以下に過ぎなかったということは、ある世代以降に読まれてきた「松本俊夫」像が一面的なものであったことを示すものだといえる。そこから抜け落ちたテクストには、政治的なものや、芸術運動に関わるものや、美術批評に関わるものなど、重要なものが多数含まれていた。その広範なテーマを持つテクスト群は、当時の映画や芸術の状況を、松本を通すかたちで浮かび上がらせる。そして、映画に限っていえば、このテクスト群は、典型的なシネフィルの歴史観に対する異物として機能するだろう。このことは、次巻以降でより明白となるはずだ。

【目次】
[Ⅰ 一九五三─一九六〇]
現実に密着した美術を──ニッポン展評
作者内部の概念規定が曖昧──武井・針生論争
『銀輪』
「作家の自主性のために」に対して
『マンモス潜函』を完成して
作家の主体ということ──総会によせて、作家の魂によびかける
a 前衛記録映画の方法について
私達の苦しみとその解決の道(一)
私達の苦しみとその解決の道(二)
書評──花田清輝著『映画的思考』
作品研究──『忘れられた土地』
a映画のイマージュと記録──シンポジュームのための報告
迫りくる危機と作家の主体──警職法改悪に私たちはいかに対決するか
複眼のドラマ意識──ポーランド映画『影』
日本の現代美術とレアリテの条件
倒錯者の論理──主体論の再検討のために(1)
a 「敗戦」と「戦後」の不在──主体論の再検討のために(2)
新しいプロパガンダ映画──映画『安保条約』をめぐって
記録映画の壁──内部につき刺す表現とそれを拒む根強い保守主義
カナリヤに歌を
a 芸術的サド・マゾヒストの意識──もしくは創作の内的過程と芸術的効用性について
a 隠された世界の記録──ドキュメンタリーにおける想像力の問題について
超記録主義の眼──中国の現実と芸術・Ⅰ
美術映画の驚異──中国の現実と芸術・Ⅱ
政治的前衛にドキュメンタリストの眼を──1960年6月の指導部の思想をめぐって
残酷と現実否定のイメージ
a 残酷をみつめる眼──芸術的否定行為における主体の位置について
映画技術を最高に駆使した──『白い長い線の記録』

[Ⅱ 一九六一─一九六三]
疑似前衛批判序説
a モダニズムとクリティック
b 「バラの蕾」とはなにか──『市民ケーン』とオーソン・ウェルズ
琉球の祭りについて
荊の道に抗して──自作を語る
現代時評
三人のアニメーション
個々のぶつかり合いによる運動の最小単位を
a 変身の論理
a 大衆という名の物神について
意外性のドラマトルギー──勅使河原プロ『おとし穴』
巨視的な未来の透視──花田清輝著『新編映画的思考』
書評──小川徹著『大きな肉体と小さな精神──映画による文明論』
『太陽はひとりぼっち』──ミケランジェロ・アントニオーニ監督
a 肉を切らせて骨を切れ──あなたの中のA君に宛てて
映画運動の思想と責任──記録映画への批判にこたえて
反教育的教育論
b 安部公房氏のアイ・ポジション
アンチ・テアトル上演の意義──イオネスコ作・表現座公演『アメデーまたは死体処理法』
映画創作のための連続講座──第二講・テーマとモチーフ
技術は向上、内容は低下──三人のアニメーション・3
形にならない形への模索──滝口修造著『点』
書評──滝口修造著『近代芸術』
a 映像・二つの能力──「見つける」ことと「作る」こと
a 「記録の目」の問題──対象のドラマを“模索”する
a もう一つの現実──「心のうごめき」を映像化する
a 「もの」との対決とは──外界、内界を結ぶヘソの緒
a 説明性を排除して──映像による直接的な表現
a イメージの深さ──生理的刺激と精神的刺激
a 「音」と映像の対話──補助手段としての音の否定
a 表現をささえるもの──主体の燃焼と主題の深さ
a 日常の中の異常──内面化した人間解体のドラマ
a 意識と無意識の間──目に見えない世界を見ること
a あるがままの存在──事実のドラマから存在のドラマへ
a 思索する映像──「見る」ということの意味
a 可能性と障害と──名馬はいるがばくろうがいない
作品構造論に特色──浅沼圭司著『映画美学入門』
「動き」と「音」
a 追体験の主体的意味──『二十四時間の情事』について
自作を語る『石の詩』
欲求不満
偽造された歴史──日本共産党四十周年記念映画『日本の夜明け』批判
根深い歪みの変革を──大島渚著『戦後映画──破壊と創造』
a 凝視と日常性──大衆社会状況下のリアリズム・その一
a ドラマの無いドラマ──大衆社会状況下のリアリズム・その二
a 存在の形而上学──大衆社会状況下のリアリズム・その三
下半身と上半身──映画『女と男のいる舗道』『審判』
a 運動の変革
青芸ヘ──その先の課題
ルイ・マルの『鬼火』と消えることのない疵
b 映画批評の貧困──俗流政治主義、エセ戦闘性
イオネスコとメタフィジカル・ドラマ
a* ネオ・ドキュメンタリズムとは何か

[Ⅲ 一九六四─一九六五]
b 本能と外界の接点を抉る──『にっぽん昆虫記』(日活)
書評──武井昭夫著『創造運動の論理』
b 文学における「戦後」の超克
映像作家のみた西陣
隠れた部分へのアプローチ──ピランデルロへの手紙
人間性の回復──『去年マリエンバートで』を見て
基本方針案提起
劇団の堕落について
端正な冒険──『六人を乗せた馬車』について
b ベケットの世界──もしくは猶予の悲惨さについて
舞台のための覚え書
絶望のドラマ
対話を回復するために──ある劇作家集団を結成するにあたって
b 示唆的な空間論と時間論──中井映画理論に内蔵されているもの
事件の本質は何か──日共の裏面の動きに眼をむけよ
書評──針生一郎著『われらのなかのコンミューン』
b 破壊の美学──白南準作品発表会について
b アンデパンダン64──カオスの中のイメージ
事実はこうだった──石堂論文「岩崎昶氏と紅閨夢」への補足
未知の空間への挑戦
b 現実と人間の条件
可能性の世界──アニメーション・フェスティバルの試み
忘却と責任と──映画『パサジェルカ』をみて
b 血の形而上学
ドラマトゥルギー以前
偶然と選択の詩
疼く痛み鋭い思想性──変革を死にものぐるいで求めているドラマの世界
芸術運動とはなにか──「現代詩の会」解散をめぐって
b 差別からの自由とは何か──黒人解放を自己の自由と結びつける作家の意識を
映像の記録性について──ドキュメンタリーにおける事実主義の克服のために
b 精神的飢餓感の表現──アルビーの『バージニア・ウルフなんかこわくない』の評
意味と表現の分裂──安部公房『おまえにも罪がある』評
b 小川徹論──「裏目読み」の功罪
大型変圧器を運ぶ
総括(及び今後の方針)のために
b 真の戦争ドラマとは何か
b* 迷路の中の他者
b シジフォスの祭典──アンデパンダン・アート・フェスティバル
一条の綱を手ばなさず対立物をとことんかみあわせる──花田清輝著『恥部の思想』
b 愛と自由は可能か──『8 1/2』と『赤い砂漠』をみて
『瀕死の太陽』製作意図
日本的エロスの原像──『水で書かれた物語』
現代の映像──イタリアンリアリズム以後のドラマの状況