「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展@銀座メゾンエルメス フォーラム

「グリーンランド」 中谷芙二子+宇吉郎展
会場:銀座メゾンエルメス フォーラム
会期:2017年12月22日~2018年3月4日
http://www.maisonhermes.jp/ginza/le-forum/archives/405275



現在、銀座のメゾンエルメス フォーラムにて中谷芙二子+宇吉郎による展覧会「グリーンランド」が開催されている。中谷芙二子は、「ビデオひろば」に参加して最初期のビデオによる表現を開拓した先駆的なビデオアーティストであり、E.A.T(Experiments in Art and Technology)との協働による日本万国博覧会ペプシ館(1970)に始まる霧の彫刻でも知られる芸術家である。そして雪の結晶の研究で著名な科学者であり、岩波映画製作所の設立にも深く関わった中谷宇吉郎は、芙二子の父親である。この展覧会は、科学と芸術という異なる専門に取り組んできた親子の仕事を併置して、両者に通じ合うものを浮かび上がらせるものとなっている。

エレベーターを降りて展示フロアに足を踏み入れると、そこには芙二子がアメリカ留学中に描いた抽象的な油彩画が二点掛けられているが、テクノロジーと深く関わった中谷の原点が、伝統的な絵画にあるというのは興味深い。そして、右の展示室に進むと、そこには1957年から1960年にかけて行われた、宇吉郎のグリーンランド調査に関わる写真や資料が展示されているほか、芙二子が1994年にグリーンランドを訪れた際のビデオ映像がプロジェクションされている。

そして、この展示室の奥の開けた空間には金属製の機材が設置されている。これが今回の展示の中心となる『Glacial Fogfall』(2017)のための噴霧器である。この噴霧器からは定期的に大量の霧が噴出し、メゾンエルメスの内部空間を濃霧で満たす。メゾンエルメス外壁のガラスブロックは氷を思わせる質感を持っているが、そこから芙二子は今回の展覧会のタイトルである「グリーンランド」を着想したらしい。観客は非日常的な濃霧のなかで、この環境と、自分の身体との関係性を探ることになる。



このような観客の身体を内包した環境への関心は、芙二子のビデオアートのコンセプトとも共鳴している。左の展示室では、宇吉郎の用いた器具と研究成果である写真やファイルと共に、芙二子が1970年代に用いていたポータパック(ビデオカメラとレコーダーが分離した、初期の携帯型ビデオ機器)と、ビデオ作品『モナリザのしっぽ』(1974)と『風にのって一本の線を引こう』(1973)が展示されている。前者は、当時大きなブームとなった東京国立博物館での名画『モナリザ』の展示を観るため、長い行列に並んでいる人々にインタビューして周り、その様子を捉えた作品である。これは、『水俣病を告発する会―テント村ビデオ日記』(1971~1972)に始まる、ビデオによって社会的なコミュニケーションを媒介するというコンセプトに連なる作品だといえる。後者は、1973年に京都で開催された「映像表現’73」に出品されたビデオインスタレーションための映像であり、蜘蛛が巣を張る様子が長回しで撮影されている。この二作品は、共に観察対象となる環境をビデオによって媒介する(=可視化する)という性質を持っているが、それは芙二子の他のビデオ作品にも共通するものだといえる。その他、展示室の奥のモニターでは、過去に行われた霧の彫刻の記録映像が上映されており、芙二子の創作活動を全体的に捉えた、バランスの良い展示になっていた。

科学者と芸術家という異なる専門に進んだ親子であるが、その環境への関心と観察眼は深く通じ合っていたことがよく伝わる、素晴らしい展覧会だったと思う。ガラスブロックを透過した外光との調和が見事なので、可能であれば晴れた日の昼間に観に行くことをお勧めしたい。

Advertisements

DVD/Blu-ray 2017

もう年が明けてしばらく経ってしまったが、2017年に発売もしくは再発(発掘)されたDVD/Blu-rayで、重要なものを以下に挙げておきたい。



・Alan Schneider, Samuel Beckett – Film(Milestone Films|Blu-ray)
サミュエル・ベケットの脚本、バスター・キートンの主演によるコンセプチュアルな前衛映画『フィルム』(1965)。古典的な作品だが、Blu-rayで観られるようになったことの意味は大きい。作品コンセプトについては、菊池慶子「ベケット『フィルム』試論」(http://www.waseda.jp/bun-france/vol27.htm)に詳しい。



・Fernando Birri – Org(Filmgalerie 451|DVD)
年末に亡くなったフェルナンド・ビリは、ラテンアメリカにおける映画運動の重要人物であるが、政治的理由で1960年代半ばから1980年代半ばにかけてイタリアに亡命していた。面白いのは、その期間に10年以上もかけて、3時間にも及ぶ長大な実験映画『ORG』(1967-1978)を制作していたことだろう。



・Peter Tscherkassky – Exquisite Corpus(Index|DVD)
言わずと知れたオーストリアの実験映画作家ペーター・チェルカススキーのスーパー8による初期作品4本(1981〜1989)と、35mmによる近作『The Exquisite Corpus』(2015)を収録したDVD。アプローチはそれぞれの作品で異なるが、この作家に一貫する支持体としての映画フィルムへの執着を確認することができる。



・Jean Rouch – Eight Films by Jean Rouch(Icarus Films|DVD)
・Jean Rouch – Le cinéma Léger(Editions Montparnasse|DVD)
生誕100年ということで国内でも特集上映が行われた、民族誌映画の代表的作家ジャン・ルーシュの作品集がまとめてリリースされた。前者はDVD4枚に8本、後者はDVD10枚に28本収録(後者は年末にリリースされたので、まだ手元に届いてないが)。その物量にも驚くが、それでもフィルモグラフィーは網羅できない。



・Abel Gance – J’Accuse édition numérotée(Gaumont|Blu-ray, DVD)
アベル・ガンスの『戦争と平和』(1919)は幾つものバージョンがあることで知られるが、この巨大なボックスセットの目玉は、1938年のリメイク版を素材として、1956年に三面ポリヴィジョンで上映された『マジラマ/戦争と平和』の復元版の収録であろう。中央スクリーンに対してシンメトリーに配置される左右スクリーンは、オカルトめいた終盤の展開と相まって強烈なトラウマを観客に与える。資料的価値は高い。



・クリス・マルケル – ラ・ジュテ(角川書店|Blu-ray)
静止画像で構成されたSF短編映画としてあまりに有名な、クリス・マルケルの『ラ・ジュテ』(1962)が、遂にBlu-rayになった(しかも日本盤)。このBlu-rayの、元々の写真の網点がはっきりと見える精細なスキャンのクオリティは特筆ものである。モノクロの網点の上で映画フィルムの粒子は粟立ち、それによって観客は「これは写真を再撮影した映画なのだ」ということを明確に自覚する。そして、この明確化の意味が最も発揮されるのは、この映画の中で唯一、時間が動き出すあのシーンであることは言うまでもない。このBlu-rayを観て、私は、初めてこの映画を観た時に匹敵する衝撃を受けた。



・Toshio Matsumoto – Funeral Parade Of Roses & Avant-Garde Short Films(Cinelicious Pics|Blu-ray)
2014年より松本俊夫監督が取り組んできた劇映画『薔薇の葬列』(1969)4Kデジタル修復は、フィルムセンター所蔵の35mmオリジナルネガを使用して、イマジカで高解像度スキャンを行い、松本監督の監修を受けながら北米でデジタル修復が進められた。この最新のデジタル素材が、松本俊夫作品の映画史的な重要性を更に広めてくれることは間違いないだろう。
また、このセットには松本監督のセレクトによって『薔薇』の前後に制作された8本の記録映画・実験映画が、4Kもしくは2Kデジタル修復のうえ収録されている。このような劇映画と記録映画・実験映画を組み合わせた構成で作品集がリリースされるのは初めてのことであり、これによって松本監督の持っている越境性が広く知られるようになれば、それは素晴らしいことだと思う。

「松本先生追悼 京都時代の映像展」@京都Lumen Gallery


同じくこの週末(12月15日~17日)、京都ルーメンギャラリーでは様々な方々の協力のもと、松本俊夫が京都造形芸術大学に在職していた時期の作品が特集上映されている。この追悼プログラム「松本先生追悼 京都時代の映像展」を京都でやることは、とても大きな意義のあるものだと思う。

「松本先生追悼 京都時代の映像展」
会期:2017年12月15日〜17日
料金:一般1,000円、学生500円
主催:Lumen gallery
お問合せ:info@lumen-gallery.com
協力:ダゲレオ出版、FMF、NPO法人戦後映像芸術アーカイブ
科研費番号「JSPS科研費15K02184」
http://www.lumen-gallery.com/

京都時代のフィルモグラフィーは以下で、今回上映されるのは◎でマークされた作品とのこと。
(タイトル|発表年|形式|時間)
◎EEコントロール, 1985, 8mm, 3min
◎スウェイ=揺らぎ, 1985, 16mm, 8min
◎バイブレーション, 1986, 8mm, 3min
・マルチコネクション, 1986, (ビデオインスタレーション), NA
・アーティキュレーション=分節, 1986, (ビデオインスタレーション), NA
・広がるコンピューターの世界, 1986, Video, 19min
◎エングラム=記憶痕跡, 1987, 16mm, 12min
・ドグラ・マグラ, 1988, 35mm, 109min
・ルミナス・グローブ, 1989, (ビデオインスタレーション), NA
・トラウマ, 1989, Video, 18min
・ウランド伝説, 1990, (演劇), 72min
◎Old/New=気配, 1990, Video, 20min
・ナラトロジーの罠, 1992, (ビデオインスタレーション), NA
◎ディシミュレーション=偽装, 1992, Video, 21min

さらに今回は、科研費課題(「日本映像芸術の1960〜1970年代:その歴史的全体像について」2015年~2017年)で作業を進めていた、未発表の試作である『1986夏』のデジタルアーカイブ化が完了したため、これも参考上映される。


『1986夏』(1986, 16mm, 3min *Silent)
この試作(『1986夏』は正式なタイトルではない)では『スウェイ=揺らぎ』『バイブレーション』から続く知覚の撹乱というコンセプトが、二つの手法によって複雑に展開される。その二つの手法とはコマ撮りと多重露光である。瑞々しい初夏の自然はコマ撮りによって細分化され、もう一つの多重露光されたズーム運動と重なり合う(撮影場所はいずれも京都造形大のキャンパスである)。
この試作から判断できることは、この時点(1986年夏)では、代表作である四本目の劇映画『ドグラ・マグラ』(1988)に至るまでの物語構造の実験が、表現のレベルで明確に開始されていないということである。あくまで本作は、同年のビデオ・インスタレーションである『マルチコネクション』『アーティキュレーション=分節』の姉妹作として位置付けるべきものなのだろう。そして、この夏の制作期間中に次作への構想が作家の中に生じはじめ、本作は試作のままサウンドも付けずに中断されたのだと空想してみるのは、とても面白いことである。それは知覚の撹乱というコンセプトを、物語に持ち込むことを意味する。この試作は『エングラム=記憶痕跡』を制作する直前の期間を埋める興味深い存在だといえるだろう。

デジタルアーカイブ化されたこの試作のデータは、科研費成果物として無償で提供できますので、ご興味のある方はお知らせください。いろんな人に幅広く観てもらい、研究などで活用してもらいたいと思っています。
また、この追悼プログラムのフライヤーはネットに出ていないようですが、そこに記されていた櫻井篤史氏・稲垣貴士氏のコメントに、松本先生への深い敬意を感じ取りました。京都ルーメンギャラリーの方々にリスペクトです。

松本俊夫『晴海埠頭倉庫』@物流博物館映画上映会「海と陸と」

harumi.jpg

本日(12月17日)、品川の物流博物館では物流博物館映画上映会「海と陸と」が開催される。
http://www.lmuse.or.jp/event/eiga2017.html

この上映会は物流博物館が所蔵するPR映画がデジタル化されたことを受けてのもので、特筆すべきは松本俊夫『晴海埠頭倉庫』が含まれていることだろう。『晴海埠頭倉庫』は近年発見されたPR映画で、2016年のアップリンクでの松本俊夫特集でも上映した。その時の解説に少し手を加えて、下記転載しておきます。(全作品解説の記載されたアップリンクのサイトはこちら。)

松本俊夫『晴海埠頭倉庫』 Harumi Pier Warehouse, 1965, 16mm, 34min
近年発見された日本通運の企画、輸送経済新聞の製作によるPR映画であり、1965年に完成した晴海埠頭倉庫の業務を解説する。斬新なフレーミングや、綿密なカメラワークを展開しており、企業のPR映画でありながら実験性に満ちた作品となっている。音楽は湯浅譲二による器楽曲とテープ音楽。
製作:小平亨/脚本・監督:松本俊夫/撮影:高田昭/照明:鈴賀隆夫/音楽:湯浅譲二/編集:岩佐寿枝/解説:小松方正

本作は、『石の詩』での前衛的な表現をめぐってテレビ局とトラブルになり、映画を思うように作れなくなった、松本の創作活動にとっては苦しい時期に制作された作品である。作家への聞き取り調査では、本作はPR映画としての仕事であり、あまり満足した作品ではなかったように語っておられたが、そんなことはない。松本は撮影の高田昭とともに、クレーンに吊り下げられた貨物を真下から撮影したり、屋内の空間を最大限生かしてカメラを振り付けたりと、カメラワークの実験を可能な限り追求している。演出のコンセプトとしては、『300トン・トレーラー』を引き継ぐものであることは明確だろう。そして、湯浅譲二による器楽曲とテープ音楽は、そのような松本の実験を堅実に支えている。このような限界の中での創意工夫こそが、PR映画を作家性において見返すことの意義であることは言うまでもない。貴重な機会なので、是非。

Trap/HipHop MV 2017

今年は趣向を変えて、2017年にリリースされたトラップ/ピップホップで、よく聴いたもの、印象に残ったものを10点ピックアップ。ヒップホップに関しては、ここ2〜3年の典型的な文脈から逸脱したようなスタイルの流行に関心を持っていて、前にも増して聴くようになった。勿論、ノイズや現代音楽も相変わらず聴いているが、絶対量は減った。恐らく、自分の意識の中で、音楽の位置付けが少し変わったということもあるのだろう(それは消費するという感覚に近い)。以下の並びを見れば、自分の嗜好が、パンクの要素が若干入ったようなエモーショナルなトラップにあることは一目瞭然かと。

kiLLa – SHINE (Prod. No Flower)

YDIZZY – Dream Rain (Prod. KM)

YDIZZY – OMW (Prod. Chaki Zulu)

MONYPETZJNKMN – WHOUARE feat. Awich (Prod. Chaki Zulu)

MONYPETZJNKMN – UP IN SMOKE (Prod. Chaki Zulu)

kZm – Midnight Suicide feat. Awich (Prod. Mitch Mitchelson & Chaki Zulu)

kZm – Emotion (Prod. hnrk)

Gab3 – True Religion (Prod. Tripi Hendrix)

Gab3 – Hollywood Dreaming ft Lil Peep

Lil Peep & Lil Tracy – WitchBlades

簡単に概説しておくと、kiLLaは元々YENTOWNに属していた20歳前後の若いクルーで、昨年の秋にYENTOWNから集団で離脱した。ラッパーは現在のところ、YDIZZY、KEPHA、ARJUNA、BLAISEの4人。パンクスのようなファッションや、観客にモッシュを要求するパフォーマンスなど、トラップ以降に表れた典型的な文脈から逸脱する動きを、国内において体現しているクルーだといえる。面白いのは、メンバーのソロではエモーショナルな要素が前面に出てくるところで、例えばYDIZZYのソロやミックステープでそれは顕著だろう。
MONYPETZJNKMNは、YENTOWNに属するラッパー3人によるユニットで、MonyHorse、PETZ、JNKMNから成る。彼らは比較的固い韻を踏むのだが、リラックスしたフロウに、一歩引いて力を抜くというルーツレゲエ的な姿勢を感じさせる所があり面白い。ちょっと違うがフィッシュマンズや、シンガーがいた頃のDRY&HEAVYを思い出したりもする(過去に観たライブのイントロでは、Bob Marleyの『Concrete Jungle』を流していた)。YENTOWNは、この3人に加えてkZmや、今年から合流した沖縄出身の女性ラッパーAwich、そしてChaki Zuluをはじめとした複数のビートメイカーやDJを擁するクルーである。kZmは、kiLLaのメンバーだったがYENTOWNに残ったラッパーで、トラップのビートに乗せて、不穏で内省的なラップを聴かせる。海外でいえばBonesなどに近いといえ、既存のフォームからの距離感が絶妙だと思う。ちなみにYENTOWNとkiLLaは袂を分かったとはいえ、Chaki Zuluが双方をプロデュースしたり、kiLLaのリリースパーティーにPETZとkZmがゲスト参加したりと、完全に切れた訳ではないようだ。
Gab3(Uzi)は、西海岸のラッパーで、ここまで来るとエモーショナルなオルタナティヴロックといった趣だが、これをヒップホップにおける内部的な異化として捉えると、途端に、凄く批評的なラッパーなのではないかと思えてくる。ちなみにGab3は、MONYPETZJNKMNの『Zutto』のリミックスもやっているほか、2016年にはYENTOWNの面々とMVも作っている。
Gab3 – Know Me

そのGab3と一緒に曲もやっており、エモーショナルなトラップの代表格であった、GOTHBOICLIQUEに属するLil Peepは、つい先日、薬物摂取で亡くなったことが報じられた。

Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty@香港Empty Gallery

Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty
会場:香港Empty Gallery
会期:2017年9月9日〜11月18日
http://www.theemptygallery.com

NPO法人戦後映像芸術アーカイブから香港のEmpty Galleryに、2Kレストアされた松本俊夫作品のデジタルデータが貸し出され、2ヶ月間に渡って「Toshio Matsumoto: Everything Visible Is Empty」展が開催された。Empty Galleryが凄いという話は、ギャラリーとの話を繋いでくれた牧野貴さんから聞いていたので、会期終了までに観に行きたいなと思っていていた。そして、スケジュールがうまく合ってクロージング間際に観に行けることになった次第である。

Empty Galleryは香港の新しいコマーシャルギャラリーであり、ロケーションは高層ビルが立ち並ぶセントラルから離れた、香港島南部の香港仔の工業ビル街にある。このギャラリーはオーナーの方針によって、実験的なアーティストや即興音楽の紹介に主眼を置いているようで、いわゆるコマーシャルギャラリーとは異なる雰囲気を纏っており、高品質なインディペンデント・スペースといった趣きがある。直近では映画作家の牧野貴による『Takashi Makino: Cinéma Concret』(2016年12月13日~2017年2月17日)や、アメリカの現代美術家タケシ・ムラタによる『Takeshi Murata: Infinite Doors』(2017年3月22日~5月27日)を開催している。香港には現在のところ、大手のコマーシャルギャラリーやインディペンデント・スペースはあれど、現代美術を専門的に取り扱う公的美術館が存在しない。2019年には西九龍文化区に、大規模な公的美術館としてM+(エムプラス)が開館する予定であるが、そのような状況のなかで、このギャラリーは香港のアートコミュニティにおいて独自の存在感を放っている。

ギャラリーは、ビル高層階の2フロアに入っている。今回は壁を新たに作り直して、内壁を黒で統一するというコンセプチュアルな展示によって、まるで暗闇の迷路のような空間が生み出されていた。まずエレベーターの扉が開くと、密室のようなエントランスで『ホワイトホール』(1979)がプロジェクションされている。そして、エントランスの自動ドアを抜けて、暗闇の通路を手探りで進んでゆくと、香港的な調度品のあるレセプションルームにたどり着く。ここで解説書と配置図を受け取り、二つある通路のうち片方へ進むと『色即是空』(1975)がプロジェクションされている空間にたどり着く。この空間の内壁には微かな反射が生じており、眩暈を覚えるような秘教的な空間になっていた。

次にレセプションルームに引き返してもう一つの通路を進むと、細長い空間にたどり着く。ここでは一方の壁面に『ファントム=幻妄』(1975)が、もう一方の壁面に『石の詩』(1963)がプロジェクションされていた。

この空間の壁面中央には40cm程の隙間が空いており、その隙間をすり抜けると、透過型のスクリーンが吊るされた真っ暗で大きな空間に出る。そこでは、リア側から3台のプロジェクターによって『つぶれかかった右眼のために』(1968)がプロジェクションされており、観客は自由な位置から作品を眺めることができる。


本作は、フィルム上映の場合は3台の16mm映写機によって分割投影されるが、デジタル上映の場合はひとつに合成したバージョンを1台のプロジェクターによって投影することが多い。しかし、作家は本作に関しては3台のビデオプロジェクターによる分割投影も認めていたので、それに基づき今回の展示では高品質な2Kプロジェクターを揃えることによって、16mm映写機と遜色ない精細なプロジェクションが実現されていた。3台の2Kプロジェクターの間ではコンピュータ制御によって完全な同期が取られており、作家の意図に忠実なシンクロを保ちながら進行する。しかも、初演時に仕込まれたラストのストロボ発光まで再現されており、その上演形態は可能な限りオリジナルに近付けられていた(このストロボもコンピュータ制御による)。やはり本作は、分割投影によって上映されることで、中央のイメージの存在感が強烈に際立つ。私自身、分割投影で本作を見るのは久しぶりだったので、新鮮な発見が多数あった。

次は『ファントム=幻妄』と『石の詩』の空間に引き返して、その先にある吹き抜けの階段をおりて、下のフロアに向かう。この吹き抜けの空間では、4Kプロジェクターによって高めの位置に『エクスパンション=拡張』(1972)がプロジェクションされている。空間を撹乱するような作品配置は、作品がもたらす眩暈の感覚を強化していた。

階下に降りた空間では『西陣』(1961)がプロジェクションされており、翳りのあるモノクロ映像が暗闇に溶け出すような、静謐で緊張感のある場が生まれていた。

そして、通路の先に開けた隣室では『アートマン』(1975)がプロジェクションされており、強烈なイメージを通路のこちら側にまで届けていた。漆黒の内壁が映画館並みの徹底した暗闇を実現しており、ギャラリーの展示でここまで出来るのかと驚愕した。

この『アートマン』の空間の左隣の空間では、『エクスタシス=恍惚』(1969)がプロジェクションされている。この空間は狭く、スクリーンは観客を部屋の角に追い込むような形で配置される。作品のイメージと相まって異様な圧迫感が生じていた。

最後に『アートマン』の空間の右隣の空間につながる自動ドアを抜けると、打ちっ放しのコンクリートの空間に出る。そこではエピローグ的に『ブラックホール』(1977)が静かにプロジェクションされていた。

海外の美術館やギャラリーで、松本俊夫が単独展示されるのは初のこと。国内では2012年に久万美術館で「白昼夢 松本俊夫の世界」展があったが、それとはまた違ったコンセプトで、大変丁寧に映画を展示してくれたEmpty Galleryに敬意を表したい。今回の展示では、松本作品に存在する観客の身体に直接的に作用する眩暈の効果が、最大限に引き出されていたといえる。作家本人にも見てもらいたかった。最終日のクロージングイベントでは、即興演奏のコンサートで使用するスペースで、北米版Blu-rayがリリースされたばかりの作家監修による4Kレストア版『薔薇の葬列』(1969)の上映と、上映後のディスカッションが開催された。香港の観客たちは、自分たちが直面した2014年の香港の民主化デモと、『薔薇の葬列』の後景にある1960年代末の日本の社会状況を重ね合わせながら、熱心に作品を読み解いているようだった。

日本国内では東京写真美術館やイメージフォーラム、京都ルーメンギャラリーで、海外では北米・ヨーロッパでの4Kレストア版『薔薇の葬列』や、2Kレストア版の実験映画の上映が進められている。いずれも素晴らしいことだと思う。松本先生が語られていたように、これからも松本作品を観たいと思う人が、作品に容易にアクセスできるような環境が維持されることを願ってやみません。

この一年の牧野貴の活動について

本日より、関西での上映ツアーが始まるとのことで、この一年の牧野貴の主な活動について私の知る限りで記しておきたい。

3月10日〜11日には、東京都庭園美術館にて「IGNITTION BOX 2016/2017」として『ENDLESS CINEMA』のパフォーマンス上映が行われた。これは私も両日観に行った。両日ともに、インスタレーション版の『ENDLESS CINEMA』(2017)を半日にわたってループ上映し、次に近作である『On Generation and Corruption』(2016)と『Picture From Darkness』(2017)の上映を挟んで、パフォーマンス版の『ENDLESS CINEMA』を牧野貴本人(10日)とジム・オルーク(11日)のライブ演奏によって上演するというものだった。

・『On Generation and Corruption』(Digital, 26min, 2016|音楽:ジム・オルーク)
液体の中を流動する塵を主なモチーフとした作品。牧野作品らしい、イメージを生成する抽象性を備えながらも、部分的に物質性がそのまま残されている(原形となる物質の形象が保たれている)ところが面白い。ジム・オルークによる電子音の点描によるサウンドトラックも、これまでの彼の音楽にはあまりなかったアプローチである。



・『Picture From Darkness』(Digital, 37min, 2017|音楽:サイモン・フィッシャー・ターナー)
サイモン・フィッシャー・ターナーがサウンドトラックを担当した、デレク・ジャーマンの『BLUE』(1993)の後に上映することを前提とした作品らしい。『BLUE』は青一色のフレームによるフィルム作品であるが、ターナーのサウンドトラックに触発されて、観客は意識のなかで青一色のフレームを映画として形成する。そして本作もまた、その意識の運動を引き継ぐことになる。



・『ENDLESS CINEMA』(2017|音楽:ジム・オルーク)
本作は、3台のプロジェクターを使用した映像インスタレーションであり、各プロジェクションの持続時間が異なることにより、ランダムなイメージの重なり合いが常態的に生み出される映画である。左・中央・右スクリーンのイメージは、牧野の過去作品である『World』『No is E』『Still in Cosmos』に、それぞれが類似している。パフォーマンス版の上映では、牧野あるいはジムによるライブ演奏に合わせて3つのプロジェクションが合体し、3つのレイヤーを内包した単一のスクリーンとなる。私はこのパフォーマンス版を観て、マイケル・スノウの『←→』(1969)のエピローグパートを連想した。観客は各レイヤーの重なり合いにおいて、頭の中にある単体のプロジェクションの記憶を呼び起こしながら、眼前の重層化したレイヤーに向き合うことになるのだ。この分裂性は極めてスリリングなものだった。

ちなみに、これら3作品は全てサウンドトラックが単独リリースされており、『Picture From Darkness』についてはLP版もリリースされている。





続いて、サンフランシスコにて10月11日〜15日の期間で開催された「RECOMBINANT festival 2017」では、会場の壁全面に、映像を360度で投影する『Memento Stella Cinechmber』(2017)が上映された。この試みは、一見すると、これまでの映画史のなかで試みられてきたエクスパンデッドシネマの範疇に収まるものにみえなくもないが、実際に観たうえで『ENDLESS CINEMA』からの展開において検討する必要があるだろう。これまでの牧野作品におけるスクリーンの単一性と、その内部でレイヤーとして折り重ねられた複数性が、マルチプロジェクションによる複数性と同一視できるものなのか。それとも異なるものなのかという点において。

そして、これらの活動が、大阪シネ・ヌーヴォ(11月5日〜10日)とクローバーホール(11月7日)での「EXP」と、原美術館での「+ Peter Burr」(11月11日)につながる訳です。お時間のある方は是非。