池田龍雄インタビュー 1(聞き取り日 : 2011年2月22日)

池田龍雄インタビュー 1
聞き手 : 阪本裕文
聞き取り日 : 2011年2月22日

 


池田龍雄 プロフィール
1928年、佐賀県伊万里市生まれ。画家。特攻隊員として訓練を受けるなかで終戦を迎える。戦後になって花田清輝と岡本太郎のアヴァンギャルド芸術運動に参加し、数々のグループ・運動に関わってゆく。絵画・立体作品の他に『ASARAT橄欖環計画』、『梵天の塔』といったパフォーマンスやフィルム作品も手がけている。 1955年には映画の粕三平(熊谷光之)、演劇の田畑慶吉らと共に、絵画・写真・映画・演劇を越境する総合芸術を目指して〈制作者懇談会〉を設立する。〈制作者懇談会〉は、その活動のなかで粕三平によって雑誌『映画批評』を刊行し、美術映画『怨霊伝』を制作するなど、映画にも深く関わっていた。

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阪本:まず、〈制作者懇談会〉の活動について、教えていただけますでしょうか。

池田:ひとつグループを作ろうという話が出まして、それで彼(粕三平)の友達だった田畑慶吉君と、三人で人集めを始めるんですよ。それで熊谷君(粕三平)が映画関係の人を集めた。まず羽仁進ですね。(そして)岩波映画の、彼の助手をやっていた人たちであるとか、映画関係は羽仁進を初めとして5~6人はいたかな(映画部のメンバーは羽仁進、山際永三、吉原順平、佐藤忠雄、新藤謙、真杉竜彦、藤久真彦、神田貞三)。美術は、僕が全部呼びかけて、河原温、前田常作、飯田善国、島村潔と石井茂雄。この二人は二人展をやっていて、養清堂画廊というところで知り合ったんですよ。(そして)その当時、四人展というのをやっていたので、河原温ですね。それから吉仲大造、芥川紗織も誘ったんですけど、吉仲大造は入ってこなかったんですよ。石橋和美というのもいたけど、これは最初にちょっといただけでいなくなった。それから、写真の奈良原一高も入ってもらいました。まあそういうメンバーですよ。演劇関係は田畑慶吉というのが、彼自身が〈制作者懇談会〉のなかに〈集団劇場〉というのを作るんですよ。その演劇関係で、江田和雄というのが出入りするんですがね。この江田和雄は〈制作者懇談会〉とは別に〈人間座〉というのを作るんですよ。そういう関係で横に繋がりのある研究団体、これは運動体という考え方もあったんですね。それで将来、映画を一本、総合的に美術も文学も演劇も総合したものとして映画を作ろうという申し合わせがあったんです。ところが映画を作るとなると金がかかるからね、なかなか実現できないんですね。それから、〈制作者懇談会〉は東京では敢えて展覧会をやらない。地方で、啓蒙的な意味も含めて、所謂アヴァンギャルドと言われる一般には理解されない作品を、みんな苦労して手で持って行く。手弁当ですよ、入場料取らないからね。そういう形で最初は秋に、熊谷くんの郷里の北九州市(当時は小倉市)の小倉、そこの図書館を借りて展覧会をやるということをまず始めた。そして次に新潟でやった。その頃、佐藤忠男は新潟にいたんですよ。それで、彼のつてだったと思うんですけど、新発田でやりましたね。その後が大阪でやったかな。大阪はデパートでやったんですよ、向こうの〈極〉というグループと一緒でした。それから、どちらが先かちょっと曖昧だけど、いわき市ですね。小名浜という漁港で、そこに新藤謙がいまして、漁師の集会所みたいなのがあったんですよ。そこを借りてやっています。そして一番最後が、富山でやっていますよ。富山のグループと一緒にやっていますね。それは前田常作君が富山だったから、その関係でやっています。その後、次々に、美術のメンバーが外国に行っちゃうんですよ。57年秋(11月)、「アジア青年美術家展」というのがひらかれるんですが、これがアメリカの反共のフォーラムみたいな展覧会で、我々それを知って反対したんですけどね、すでに前田常作君はそこに出品したあとでね、まだ初日にはなっていないときに、反対の動議があったんだけど、彼はそこにいなくて取り消さず、そのまま出品して、彼がグランプリになったんです(笑)。その頃のグランプリは大きくてね、当時の金で100万くらいもらって、それでパリに行っちゃうでしょう。あと、前田常作君の前には、飯田善國君が半年くらい〈制作者懇談会〉にいて、すぐ彼はイタリアに行っちゃうんですよ。その次に河原温と芥川紗織。次々と居なくなるわけです。だからほとんど美術の方の活動は出来なくなるんですよね。そのうちに、雑誌『美術批評』が57年に終刊になって、熊谷君が『美術批評』みたいな雑誌を映画でやろうと言って、それで雑誌『映画批評』を出すことになったんですよ。そういう経緯だったんですね。その後〈制作者懇談会〉は、映画を中心に少し活動するんですね。だけど美術の方の活動はほとんど停滞した状態で。そのうち映画も、二年後くらいに――はじめから赤字ですからね、粕君は自分の家から持ち出したお金で――彼は福岡で旧家の出身で、親父さんが民俗学者で、その貴重な本などを売って、それをつぎ込んでいた。最後の方になると彼は家まで売り払おうと言い出したんですよ。僕は反対して、そこまでして出すことはないんじゃないか、ということで終わったんです。まさに刀折れ矢尽きて(笑)。

阪本:『映画批評』と一緒に、〈映画と批評の会〉という集まりもあったそうですが。

池田:〈映画と批評の会〉は、僕はそんなに付き合いはなくて、〈記録映画作家協会〉とは親密に付き合いがありましたけどね。これ(機関誌『記録映画』を指して)はいつ頃かな。

阪本:59年からですね。

池田:その頃、映画との付き合いは松本俊夫なんですね。松本俊夫は、まだ東大を卒業する直前くらいから。〈中央沿線懇談会〉と称して、中央線沿線ですね、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪このあたりに住んでいた絵描きが、研究会を持っていたんですよ。53年くらいでしたね。僕が『網元』という絵を書くのが53年なんですが、その『網元』の批判を松本俊夫がやって、言い合いをしたことを憶えているんですよ。発表は54年2月、「読売アンデパンダン」だからその頃かな、〈中央沿線懇談会〉に彼がもう出ていたということですよね。それで帰りに高円寺の喫茶店で言い合ったんです。彼が「『網元』という絵は、シュルレアリスムの尾てい骨がくっついている」とかいって、彼は共産党員だったんでしょう、それで何か、「大衆から遊離している」みたいなこといわれてね。変なこといわれて言い合って、だから覚えているんです(笑)。彼はまだ学生だったんです、東大の。彼は美術批評を目指していたみたいなんです。だからそういう所に、美術家の集まりに来ていたんですね。針生一郎もよく顔を出していましたからね。針生一郎も東大の助手か何かでいた時期ね。その頃、美術出版社が懸賞論文というか、そういう制度を作るんです。その第一回の一席になったのが東野芳明。これは54年でした。というのも僕は54年の8月に養清堂画廊で個展をやるんですよ。そこに最初に来たのが東野芳明で、彼は『美術批評』に展覧会評みたいなものを書き始めたんですね。美術評論家になったわけです。その年の4月ぐらいに懸賞論文で彼は一席になる、クレー論でしたね。彼は勇んでやって来ましてね、僕はその頃ペン画をやっていたんですが、「ああ、僕はこういう絵は好きだなー」と、言っていたのを憶えています。それですっかり意気投合したというか。一時期はね。その翌年(の懸賞論文の一席)が中原佑介なんです。55年なんですよね、一年に一回。その翌年、56年に松本俊夫がそれに応募するんです。ところが織田達朗という人が一席になるんですよ。これが文章を読んでみたけど、何を書いているか分からない変な文章です。その時、松本俊夫が二席になったんです。だからそれが逆だったら、きっと松本俊夫は美術評論家になっていたかもしれない(笑)。物事ってそういうものですよ。それから、松本俊夫と僕は少し付き合いの絶えていた時期があって、(彼は)二年後には『記録映画』をやるようになっていたんですね。そんなわけで、最初は美術評論をやりたいような風情で知り合っていた。彼はもともと理論的な体質なんですよね。だから彼の映画も、評論家が作ったようなところがあるでしょう(笑)。記録映画も『西陣』だとか、『石の詩』というのを作っていますよ。劇映画としては、一番最初が『薔薇の葬列』でしたね。そこに彼が、僕に出てくれということになって、僕と絵と(一緒に)ね。(彼が)「本人も出てくれ」というから嫌がったんですけど。それ以前、僕が59年から60年にかけて『百仮面』というのを描いているんですね。それを観てね、彼は「映画に撮りたいな」と言っていましたよ。だけどお金がないから話はそのままになっていて、それから十年近く経って69年に、ATGの一環として『薔薇の葬列』を作るんです。一千万円映画ということでしたね。その範囲で作ろうと。僕がここ(自宅)に引っ越してくるのが68年の10月なんですが、引っ越して間もなく松本君が来たんですよ。68年の末頃か、69年の初め頃か『薔薇の葬列』という映画を作りたいから『百仮面』を使いたいと言ったんですよ。それで僕は承諾したんですけどね。そうしたら、「君も出演してくれ」と言うんですよ。僕は映画に出るの嫌だし(笑)、しかし「シナリオに書いてあるから、もうどうしようもないんだ」と(笑)。「しょうがない、僕自身も仮面をかぶろう」とヒゲを生やし始めたわけですよ。そうしたら、まだ5~6mmしか伸びてない時期に撮影することになって。無精髭みたいに。立派なヒゲじゃないんですよ(笑)。撮影した場所は椿近代画廊という、新宿の地下にある(画廊で)、そこで撮影することになりまして。あれは一月の、かなり大雪の日だった。朝から夕方までかかったんですよ。たった一分か二分しか出ていないんですけど。そこにピーターがいたんです。僕は女だと思ったんですね。綺麗な少女だと思って話しかけたら、松本君が「彼、男だよ」と(笑)。ゲイボーイだと。

阪本:地下の画廊のシーンですよね。

池田:実際の画廊には、ちゃんと綺麗な入り口があるんですけど。映画では何か怪しげな感じの入り口になっていて「池田龍雄展」と書いてありましたけど、実際はあんなものじゃないんです。僕の絵を観て、気持ち悪くなってぶっ倒れちゃう、そういうシーンでしたね。仮面について論じている場面なんですよ。(画廊内にて、テープレコーダーで音声が流されれているシーンについて)この文章は松本俊夫が書いたのを僕が読んで、テープに入れてあったかな。あの、DVDになったのを観るとね、編集を変えているようでしたね。試写のときはちゃんと出ていたんですよ。ただし僕とは分からない顔になっていましたけどね、無精髭生えてるでしょう。まともに撮らないでくれと言って、ライトを下からあててね。

阪本:当時からああいう、薄暗い空間でコンセプトをテープで流して個展をやっていたのかと思いました(笑)。

池田:そんなのはないですよ(笑)。『百仮面』というシリーズは、もともとは60年代の初めに描き始めたかな。その前に顔について描いていましてね、その続きのようなもので。ひとつのシリーズになったのが60年。『美術手帖』が原始美術の特集号をやるんですよ。で、その編集を全部任されたんですよ。僕ともう一人、版画家の吉田穂高と二人でね。執筆者も写真もこちらが選んでね。『美術手帖』の編集がやったのは編集作業と依頼だけだったですね。仮面の、原始美術の仮面だけじゃない、南方やアフリカのものもあります。それの画集みたいなものを揃えたりね。コレクションが沢山ある「天理参考館」で、二人でそこに行って資料をもらってきたりして、それを掲載するというかたちで。数ヶ月かけてその仕事をやったんですよ。それに刺激されて『百仮面』という題にして、二度ほど展覧会をしていますね。61~62年近くまで『百仮面』のシリーズ(をやった)。それを松本俊夫は観て、これで映画を作ろうと言っていたのがそのままになって、68年に『薔薇の葬列』(公開は69年)になるわけです。

阪本:時代背景的なところをお聞きします。池田さんがルポルタージュを始めるのが50年代なんですが、他のジャンルを見ても50年代は「記録」というのが重要なテーマになっていた気がします。

池田:それは〈アヴァンギャルド芸術研究会〉のあとに〈世紀の会〉というのがありまして、これは時代でいうと49年5月からです。〈アヴァンギャルド芸術研究会〉が始まるのは48年の9月からですが、僕がそこに入っていくのは10月からなんですよ。で、その翌年の49年、昭和24年の3月頃から準備が始まってね、5月には『世紀ニュース』っていうニュースを発表しているんですよね。〈世紀の会〉という名称にして、会員から会費を取って、というかたちになるんですよね。実際に会費は満足に集まらないんですけど(笑)。会長を安部公房にして、副会長を関根弘にして、会計を誰々にして全部役割を決めたりしましてね、きちんとした組織にするんですね。それで、その研究会が始まる時に集まっていたのは、〈アヴァンギャルド芸術研究会〉の中心になっていた〈夜の会〉の人たちです。花田清輝、佐々木基一、埴谷雄高、野間宏とかそういう人たち。ほとんどが文学者ですよね、絵描きが岡本太郎一人。そういう人たちは特別会員になるんですよ、〈世紀の会〉のときにね。研究会には、もっぱら花田清輝と岡本太郎が一番出てきていまして、喋ってもらったりもしましたけどね。中心はその頃の20代。関根弘が28か29歳で、安部公房が25歳くらいになっていましたかね。僕らは20、21歳とかそこらですね。そういうのが一年続くんですよ。49年の5月からね、50年の5月ですね。で、50年の5月頃に、僕ら絵描きの大部分が抜けちゃうんです。その直後に朝鮮戦争が始まります。6月ですよね。で、抜けて〈プヴォワール〉の会を作るんですよ。抜けたメンバーが僕、北代省三、山口勝弘、福島秀子、その少し前から〈世紀の会〉に顔を出していた山野卓造、福田恒太もいたと思うんですけどね。その少し前から他の人たちも呼び込んで、入ってもらって、16~17人いたんじゃないかと思うんですけど。それで研究会を始めるんですよね。〈プヴォワール〉の名称は北代さんがつけたんだろうと憶えていますけどね。集まるのも、最初は北代さんは結婚して間もなくで、高円寺に住んでいましたよ。そこを使って集まったりしています、最初はね。それから場所を移したりします。翌年が「アンデパンダン」なんですよね、そこに皆出品するんですよ。だけど、できた直後から朝鮮戦争になって、だんだん社会情勢が険しくなってくる。戦争の危機が感じられるような状態になった。僕なんかが、美術も社会的な問題と全く無縁ではないだろうという考え方がありましてね。だけど北代さんとか山口勝弘は、およそ社会的な問題に余り目を向けないんですね。もっぱら芸術の新しさを追求していくんだという考え方だったんです。ちょうど一年後の51年の3月でしたね。主立った数人が「辞めます」と言ったわけですよ。それで、〈プヴォワール〉も解散ということになったんですね。(著書『夢・現・記』を読みながら)1951年3月9日に、「たとえボードレールほどでなくても、僕もまた往々にして、享楽、名誉、権力に対して悪魔的な渇を覚える」、とあり「必ずしもスムーズに移行したわけではないけれども、私は徐々に当時の言い方でいえば芸術至上主義的な考え方から離れてゆき、結局3月末、プヴォワールを抜けた」と書いてあります。3月31日の日付には「今日の会合で辞めることにした、いても無意味だから」という記述があります。

阪本:その違いとは、やはり個人個人の戦争体験というのも関わっているんでしょうか。

池田:そういう違いがあるのかもしれませんね。ただね、北代さんは南方へ行っているんですよ。軍関係の仕事で。だから戦争体験があるわけですよ。

阪本:山下菊二もそうですし。人によって…。

池田:山下さんは戦線に行っているんです。それで彼は上官の命令で中国人の捕虜を刺し殺すようなことをやっているんですね。その痛みというか、思いをずっと引きずっていたわけですよ。

阪本:50年代というのは記録というのが、他のジャンルでも生活綴方やサークル詩とかありましたよね、ああいう人民たちが自分の生活を記録して作品化するという運動が割と盛んだったように思います。

池田:そうですね、安部公房などの文学者たちがそういう考え方を非常に強く持っていたんですよね。特に花田清輝もね、さかんにドキュメンタリーということ(を言っていて)、あれはシュール・ドキュメンタリーなんて言葉を使っていましたね。それとリアリズム――まあその頃はリアリティという言葉が使われるんですけどね、リアリティとアクチュアリティという言葉が盛んに使われていましてね。そもそもが、〈夜の会〉というのを作った時にね、現実に根ざした変革ということをね(やろうとしていた)。だから昔よくあったヨーロッパの物真似的なことは避けようということにおいて、皆の意見は一致していたと、〈夜の会〉の発足の時に佐々木基一さんは書いていますよ。明治以後、ヨーロッパ追従ということを、日本のインテリたちはやってきたわけですよね。そういうのはもうやめようと。

阪本:文学者とか美術家のあいだで、そういったリアリズムの問題というのがクローズアップされたのは、やはり花田清輝の存在というのが。

池田:大きいですよ、彼の影響は相当大きいと思います。他の人はどの程度か知らないけど、僕なんかは大きな影響を受けた。美術家のなかではね。山口勝弘と北代さんなんかは、花田清輝の、文学者の影響はあんまり受けてないんじゃないかなと思います。だから政治とは無関係に、美術の変革、革新ということを考えていたのではないか…。

阪本:むしろ瀧口修造に近かったかもしれないですね。

池田:でも瀧口さんは本当はシュルレアリスムですからね、革命っていうことを考えるんですよね。ただしブルトンは精神の革命というか、それを中心に考える。瀧口さんは、戦時中は留置場に入れられていたでしょう。半年くらいも入れられていた。それで懲りたというところがあるんじゃないかな。

阪本:花田の影響が大きかったことは分かるのですが、例えば『人民文学』という雑誌があったりですね、他にもサークル詩とか、ああいったものの背後には共産党の文化方針の影響があったと思うんですね。

池田:そうだと思います。僕は共産党員にはついにならなかったんですが、僕の周りはほとんどが共産党員になってゆくんですよ。文学者も、安部公房だってなっているんです。花田清輝、野間宏はもちろん、中野重治とか皆、共産党員ですよ。埴谷雄高もそうじゃないかな。埴谷雄高は戦時中からマルクシズムの考え方を持っていたせいで弾圧されているんですよね。そう言ってましたよ。留置場に入れられたこともあったんじゃないかな。

阪本:そういう共産党的な文化方針への一種の批判として、花田清輝がいたと思うんですね。

池田:そうです、だから共産党は次々に除名してゆくんですよ。共産党批判みたいなことをやるとね、たちまち除名ということになっちゃったんですね。だから、ほとんどが60年前後に、除名されているんですよ。

阪本:美術の方の動きでは〈青年美術家連合〉が結成されますよね。

池田:これはね、桂川寛、山下菊二、尾藤豊――みんな共産党員になったんですよね。それで、共産党の方針として山村工作隊というのがあったんです。その一環としてね、その当時「東京都の水瓶」という名目で小河内ダムが建設中だったんです。ダムを造ると湖底に沈む村があったんで、そういう人たちが反対して、それから労働条件が非常に悪い。で、彼らは共産党の指示で山村工作隊として、小河内ダムの建設現場の、飯場って言いますよね、労働者が寝泊まりしている、そこに一ヶ月半ぐらい寝泊まりするんですよ。労働者と一緒に。そこでいろいろ活動をやるんですよ。そこで、同時に絵を書くわけです。それがルポルタージュと、後で言われるようになるんですけどね。その頃、彼らはまだルポルタージュという意識は明確に持っていないんですよね。ただ、52年にね、安部公房が『理論』という雑誌に「新しいリアリズムのために」という論文を書くんです。そこでルポルタージュの重要性を論じているんですよ。それを僕は読むんです。それで絵画でルポルタージュが可能であるのかどうだろうかということで、その実践というか、その頃、安部公房は野間宏と一緒に『人民文学』という雑誌に関わっている。これは共産党の主流派の。当時主流派と国際派に分かれるんですが、花田清輝なんかは国際派の方にいるんですけどね。安部公房は非常に急進的になっていまして、その頃、武装闘争ですね、それを支持するような言辞をいっていましたよ。(その一方で)僕と福田恒太と山野卓造(山野卓)、この三人がね〈エナージ〉というグループを作っていたんです。それが53年の初め頃ですよ。そして53年の3月から〈青年美術家連合〉が始まるんです。その〈青年美術家連合〉を作ろうと言い出したのが、先ほどの小河内ダムに山村工作隊で入っていた連中たちですね。桂川寛、山下菊二、尾藤豊、その他、共産党員になっていたのがいて、それから勅使河原宏もいるんですが、彼はついに共産党員になっていないらしいんですね。僕はなっていたと思っていたんでがすね。共産党の方から入党を拒否されたらしいんです。そういう経緯があって、そのメンバーが52年の9月にね、小河内ダムで描いた絵をですね、〈新日本文学会〉に持ってきて並べて合評会みたいなことをやるんですよ、報告会というか。(著書『夢・現・記』を読み上げて)「五時より、新日本文学会で何をいかに描くべきかというテーマで花田清輝、岡本太郎を交えた討論会をやる。そこに山下菊二、桂川寛らの貴重な実践の作品を観る」――これは小河内ダムで描いてきた絵ですよ。(再び著書を読み上げて)「彼らはしばらく小河内村に入りダムに働く労働者や村人たちの意識をわずかながらも捉えてきたらしい。」「このころ我が周辺の文学者や制作者たちは、大抵共産党に入っており、私はついに入党しなかったが、それぞれ所感派(主流派)とか、国際派とかに分かれて、かなりややっこしい事になっていた。時代は火炎瓶の飛び交う激しい政治の季節であった。」――そういう状態のなかで、ここに集まったんですね。このメンバーが、僕の記憶だとね。その後、間もなく朝鮮戦争に備えて、かつての戦時中には絵描きたちが動員されたりしたわけでしょう、戦争画を描かされたりしたような、ああいう状態になる事に備えて組織を作ろうという話があって、それで準備が始まるんですよ。友達を誘い合わせてね、全国的に拡げていって、準備会などで集まって、それでやっと翌年の53年の3月に、全国結成大会をやる。それが始まりなんです。

阪本:『人民文学』や山村工作隊などのお話を聞いていると、池田さんは違ったとしても、他の美術家たちの多くは共産党の文化政策に従っていたように見えるんですが。

池田:共産党員になっていた人たちはね。その頃は社会主義リアリズムということが言われていましてね、それで共産党の方針(であった)、社会主義リアリズムというのはソビエトの方から来たわけですが、それを受けて、そういう考えを強く持っていたと思うんですよ。だけど桂川とかは当時〈前衛美術会〉というのに所属していたんですね。そのなかにはシュルレアリスムの影響がかなり強く残っているんですよ。というのは〈前衛美術会〉の前身だった〈美術文化協会〉ね――これは戦時中、福沢一郎さんがシュルレアリスムを中心にして団体をつくった訳です。そこから一群が分かれているんですよ、〈前衛美術会〉が。山下さんも、福沢一郎の指導を受けた一人なんです。だからシュルレアリスティックな方法論を持っているんですよ。その影響が濃厚にあって、必ずしも共産党の文化政策に従っていたわけではないと。その描き方なんかはシュルレアリスム的――普通のリアリズムじゃない訳ですから。

阪本:花田清輝や松本俊夫みたいに、共産党的な社会主義リアリズムに対する批判として、シュルレアリスムの方法を取り入れた作家がいろんなジャンルにいたんだなと思います。

池田:そうですね。安部公房もシュルレアリスム的要素をかなり持っていたんですよね。まあ、シュルレアリスムを批判する面もありましたけどね。

阪本:〈青年美術家連合〉では、割と池田さんが中心となって活動されていたのですか。

池田:中心というよりも、準備会の時の数人と一緒だったから、まあ中心メンバーの一人という事でしょうね。一番中心が誰だったとかはいえないと思うんですよね。年長の順からいうと山下さんなんかがそうでしょうけどね。

阪本:本を読んでいると、所謂美術グループではなくて、いろんな小グループの連合体だったようですが。

池田:それは決まりとしてね、〈青年美術家連合〉はグループ単位で構成しようということだったんですよ。でも個人的に入っている人も何人かはいる。でも、ほとんどはグループ。僕らは少し前から、さっき言った〈エナージ〉というグループを作っていたんですよ。その〈エナージ〉の前は〈NON〉というグループを作っていたんですけどね。〈NON〉は一回展覧会をやれば解散しようと、長くやると馴れ合いになって堕落する事になるから。だから一年後くらいに〈NON〉は解散したんですよ。その後で、〈NON〉のなかの三人で〈エナージ〉というグループを作った。そのグループを作った辺りは〈青年美術家連合〉の準備会が行われていた最中です。それで〈エナージ〉というグループとして〈青年美術家連合〉に入っているんです。

阪本:そして、内灘に行かれるのですね。

池田:内灘に行ったのは、〈エナージ〉の三人なんですよ、一緒に行ったわけです。それで、『今日の美術』という雑誌を出し始めるんです。〈青年美術家連合〉で。僕は最初から編集委員をやっていました。2~3人、編集委員がいるわけですよ、編集長というのはなかったんですけど。それで、第二号でね「絵画におけるルポルタージュの問題」そういう文章を書いたんです。だから、はっきりルポルタージュという意識で絵を描いていた。立川に行ったのも、『人民文学』から仕事を頼まれたというのもあるんですけど、それがまさにルポルタージュの意識で行ったという事ですよ。そういう考え方を持ったまま、その次は内灘に行くわけですよ。

阪本:炭坑の方にも行かれますよね。

池田:石炭というものに、変にオブジェとしてね、「一体何だ? これは」と思ったんで、石炭の実態というか本質というか、それを突き止めてやろうという感じで。それがまさにルポルタージュという事ですよね。現場に行って、掘り出している現場を見ようと。

阪本:実際の作業としては、現場でスケッチしたものを持ち帰って、絵画にするのでしょうか。

池田:現場でスケッチなんて出来っこないですよ。冗談じゃないです、座る事さえ出来ないんです。僕の行ったところの労働の過酷さ、びっくりしました。1メートルの高さのところを掘っていくんですよ。そこは小さな炭坑でね、既に採算が合わないような状態になって、炭層が一尺くらいで、石炭の層ができているわけ。大体その上下にボタの層が含まれているんです。粘土と石炭分が混じったような層ですよ。ほとんど燃えないようなものなんです。それを合わせて、約1メートルですよ、三尺ちょっと。(身振りをしながら)床から天井までがこれくらいしかないんです。だからほとんど寝て掘っているんです。頭の向こうに(前の人の)足があるという状態で掘るわけですよ。並んで掘って、小さなシャベルで掘った石炭をね、この格好のまま、後ろのゴムのベルトですね、その上に載せるんですよ。石炭の載ったベルトがゆっくり流れていく。その先が溝みたいになっていましてね、そこにトロッコがあって、トロッコの上に石炭が(落ちる)。そして、やがてトロッコが石炭で一杯になると、押していくんです。それが集まって、メインの通りで、五台とか六台のトロッコが集まってくるでしょう。それを連ねてウインチで、坂になるところは機械でズーッと上がっていく。

阪本:そういうのを実際に体験して、そしてアトリエに帰って制作するんですね。

池田:そうです、だからスケッチなんて出来っこないですよ。だから記憶しかないですよね、写真も勿論撮れない。

阪本:写真も撮れないんですか。

池田:火の気が危ない。炭塵がもうもうですからね。少しでも火花が散ったら爆発するんです。一切火の気なしです。

阪本:なるほど、甘く考えていました。山村工作隊には行かれなかったんですか。

池田:僕は共産党員じゃないから。共産党員だけですよ、山村工作隊は。

阪本:ああ、なるほど。山村工作隊に参加した人は基本的に共産党員だったのですね。そして、池田さんは共産党員ではなかったから、炭坑であったり、内灘であったり。

池田:それは、僕は自分の意志で行った。命じられてやった事はひとつもないですよ。頼まれてやるとか、仕事で、とかはありますけどね、命令みたいにして「これをやれ」と言われてやった仕事はないです。

阪本:頼まれては行った事はあったわけですか。

池田:それはありますよ。『人民文学』に頼まれてね。

阪本:だとすると、山村工作隊の人たちとは、事情が違ってきますよね。

池田:そうですよ。あの、まあ恐らく山村工作隊の方は命令のかたちではあるでしょうけど、積極的に行ったんでしょうね、連中は。

阪本:その辺は桂川寛さんの本を読むと、いろいろ作家によって個人差があったのかなと思いました。

池田:命令ではあるんですよね。指示というか。

インタビュー 2 へ続く