池田龍雄インタビュー 2(聞き取り日 : 2011年2月22日)

池田龍雄インタビュー 2
聞き手 : 阪本裕文
聞き取り日 : 2011年2月22日

 


阪本:それで、ルポルタージュの時代となるわけですが、池田さん自身の活動のなかで〈青年美術家連合〉から、次に〈制作者懇談会〉に移行するにあたって、リアリズムの問題が一貫してあるように思うんですよね。

池田:そうですね。それはね、要するに革命っていうことが皆で言われているし、考えてもいた状態ですからね。革命は、やはり大衆というものを抜きにはあり得ない。一部インテリだけで出来っこないんですから。だから、大衆の支持を得るというか、大衆に理解される必要があると考えるわけですね。それで抽象的な表現というのは、ほとんど「何を描いてるんですか?」ということになっちゃうから、分からないといわれるから、だからリアリズムでないといけないだろうと。安部公房もね、文学の方は抽象的な文学というのは余りあり得ないんですけど、「新しいリアリズムのために」と題してルポルタージュというものを提言しているわけですよ。ひとつの方法としてね。だから、リアリズムという考え方はかなり文学的な要素を持ってるんだけど、絵もそれに応じて、リアリズムでないと、所謂大衆性や一般性がないだろうという風に考えたんですね。だから〈制作者懇談会〉のメンバーも、ほとんどそういう考え方で集まっているわけですよ。

阪本:確かに機関誌『リアリズム』(〈制作者懇談会〉が発行していた機関誌)に目を通すと、〈制作者懇談会〉のメンバーはジャンルに関わらず、皆リアリズムの問題をメインのテーマに据えているわけです。

池田:だから、そういう考え方の者だけが集まってきたという事でしょうけどね。例えば僕は吉仲大造を誘ったけど、彼が入らなかったのはね、彼がその当時かなり抽象的な表現をやっていましたからね、それで入らなかったんじゃないかなと思いますよ。

阪本:池田さんの場合は、それ以前にルポルタージュをやっていたから、分かりやすいんですよね。しかし、例えば映画なんかの人の場合というのはどうだったんでしょう。

池田:羽仁進は記録映画を撮っていますよね。映画の方は熊谷君がいろいろ準備していたから、でも執筆者には『記録映画』の人も執筆しているんじゃなかったかな。〈記録映画作家協会〉というのが別にありましたけどね。あれは59年か、野田真吉さんなんか、文化映画みたいなのがあって記録映画に…。

阪本:その前身になる組織があって〈教育映画作家協会〉が。

池田:そう、〈教育映画作家協会〉が〈記録映画作家協会〉になるんでしたね。あの頃は大衆性といったものが重要に考えられていて、要するに国民文学とか人民文学とか――まあ人民というのは共産党が好んで使っていた――だから、大衆、国民、庶民、そういうところに目を注いでいるという、当時としては極々当然の事のように考えられていたわけですよね。

阪本:そのなかで公式的な社会主義リアリズムに対する批判として、花田清輝がいたり、美術家や文学者がいて、除名されてゆくという流れがあったわけですね。

池田:あの辺の素朴リアリズム的なものを批判していたわけです。

阪本:〈制作者懇談会〉のメンバーのなかに、共産党員だった人はどれ位いたのですか?

池田:〈制作者懇談会〉のなかにはほとんどいなかったと思います、僕の知っている限りでは。なかにはいたかもしれませんけどね。共産党的公式論みたいなのを振り回す人はいなかったですね。少なくとも美術家のなかには一人もいないです。羽仁進も共産党員にはなってなかっただろうと思います。美術家は、共産党に関わっていたのは昔からの流れのなかでね、だけど『リアリズム』に行ったのは55年以後ですからね。だからちょっと違うんですよね。

阪本:「六全協(日本共産党第六回全国協議会)」の後だから。

池田:そうです。だから、まあ考え方としては非常に共産党に近い考え方、社会主義とかを持っているといってもね、党には入っていない。僕が入らなかった理由はね、(『網元』を描いていた時期に)その頃、僕の借りてたアトリエをね、アジトみたいに提供していたんです。これは、「そうしてくれないか」と言われたのは、確か福田恒太か山野卓造、その辺りだったと思うんですよ。つまり共産党員に彼らはなっていましてね。共産党員になって素朴リアリズムの絵を描き始めたから、僕は批判して、もう〈エナージ〉を解散したんですよ。僕はまだシュルレアリスム的な方法論を持っていたし、労働者のそのままの姿かたちを描くっていうのがね、僕も一時期それに近づいた事はあるんですけどね、ちょっと批判的になっていたから。だけど彼らが僕にね、50年から共産党から幹部が追放されて、赤旗が発行停止になっていて、その追放された幹部たちが秘密会議をやる場所として、僕の借りていたアトリエを使いたいという事になったんですよ。それを頼まれたのは、確か山野卓造か福田恒太の辺りだったんですけど、その背後に安部公房がいたんじゃないかなと思うんですよ。思い出すと、その少し前に安部公房がいきなり来たんです、阿佐ヶ谷の僕のアトリエに。「近くに来たから寄ってみたよ」「良いところに住んでいるねー」って言ったんですよ(笑)。後で思うとね、アジトとして格好の場所だと(思ったんでしょう)。(間取りを説明しながら)裏から入れるんですよ。(アトリエ周辺の道路を説明しながら)ほとんど人が通らない道で、この家に用事のある人しかここは通らないんですよ。それを見てね、安部公房は「良いところに住んでいるね」って言ったと思うんです。それから間もなくだったんですよ。「月に二回くらい集まりがあるから、提供してくれないか」って言われたんです。「いいでしょう」と、僕は承諾したんですが、承諾してから、条件がね「その間は座を外してくれ」と言われた。前の日くらいに必ず連絡が来るんですよ、「明日、午前何時から何時までお願いします」と。いつも毎回来るのは決まっていた、若い人で、彼が『網元』を見てこう言ったんですよ――「骨の魚がなんで泳いでいるんですかね?」みたいな事を言ったんです(笑)。「これは大衆には分からないですねー」と、「大衆」ってすぐに言うんですね(笑)。「人民」だったかな? とにかく自分が分からないと言えばまだいいけど、「これは大衆には分からないでしょう」とか言うんですよ(笑)。それで、そういう意見を言うからね、彼がいつも「入党しませんか?」と誘っていたんですが、僕はね入党したらそういうことをしょっちゅう言われるようになるんじゃないかと思って(笑)。「まあ、そのうちに」とか言って、いつもそのうちにそのうちにと延ばしていて、それっきり。安部公房の話は僕の憶測ですけど、彼はその時、代々木の中心部に入っていたんです。野間宏なんかと一緒に。

阪本:『リアリズム』に話を戻すと、皆がそういった素朴リアリズムへの批判のところから、それぞれがリアリズムのあり方を追求していた。そういう集まりだった訳ですね。〈制作者懇談会〉についてですが、先日の展覧会(岡本太郎美術館「池田龍雄展 アヴァンギャルドの軌跡」)のトークの際にお話されていたのですが、当時、山口勝弘さんたちの〈実験工房〉がいろんなジャンルの領域横断を行っていたわけですが、〈制作者懇談会〉も領域横断的な動きを見せていたといえるのではないかと。

池田:〈実験工房〉は音楽や映像を作ったりしていますけど、僕らは〈実験工房〉とは違う。〈実験工房〉は純粋芸術なんですよね。こっちは社会問題を常に抱えたまま、新しい事をやろうという。〈制作者懇談会〉で映画を作ろうという事はあって、そういう意味では〈実験工房〉的な考え方と、共通するものがあったでしょうね。ただ、〈実験工房〉と大きく違ったのは、音楽がなかった。文学、演劇、映画、美術――文学といっても、小説家ではなかった。(文学者は)一人いました、井上成一郎。この人は、後で絵描きになっちゃいます。

阪本:音楽は社会問題的なものを込めにくいという事もあったのでしょうね。そういった領域横断的な試みとして〈制作者懇談会〉が作られたという意識は、当時のメンバーたちに確固としてあったのですね。ところで、『(第二次)映画批評』の連載のなかで、粕三平さんが戦後の活動について書いているのですが、このなかで『リアリズム』のことも書かれていまして、当時〈制作者懇談会〉で例会を行っていたとあるのですが、どのような形で行っていたのですか?

池田:例会は頻繁に行っていましたよ。熊谷君がレジュメを大体作っていましたね。テーマを設けてね、結局全体には映画に関する議論が多かったと思いますね。演劇、映画――美術は美術だけでやっていたような気がするな。全体の問題にはなっていなかったと思いますよ。

阪本:池田さんが例会の中で発表されたとも書いてあったんですが。

池田:やっていたでしょうね。それは絵の事についてやったんです。皆で絵についての議論はしているはずですけどね。だけど、ウェイトはやっぱり映画の方にかかっていたんじゃないかなと思いますね。

阪本:発表者が自分の領域からリアリズムの問題について提起して、皆がそれを討議するといった形だったのですね。

池田:ただテーマがどんなのだったかは憶えていませんね。

阪本:粕さんも、素朴リアリズムに対する批判みたいなところからきていると書かれていますね。

池田:そうです。

阪本:それで、粕さんによると〈制作者懇談会〉の活動が終わっていって、『映画批評』の方に活動が移っていったとあります。

池田:美術の方は、盛んに地方で苦労しながら展覧会をやって、作家が次々にいなくなっていったから。富山が最後ですね、57年だったと思いますよ。

阪本:57年は、まさしく『映画批評』の始まる年ですよね。その後、池田さんの書かれている文章のなかで、60年安保のあった辺りから、自分のなかで政治に対する距離が生まれてしまったとあるのですが。

池田:そうですね、挫折感という感じですよね。「どんなに反対してもやっぱりダメなんだ」ということだったんですね。あの時は、僕の感じでは日本全国の80%位の人が反対しているんじゃないかなという位だったんですよね。にもかかわらず国会では多数決で通ってしまうわけですよ。民主主義って何だろうと、僕はその時思いましたね。まあとにかく芸術は無力だ、そういう事に関して無力だと思い知ったというか。

阪本:50年代から活動されていた方は、60年を境にして政治に対するある種の挫折みたいなものを抱えてゆき、次に60年代の若い学生の世代が学生運動に関わってゆくように思います。

池田:ただ僕はね、芸術の役割ってのはね、観た人の意識を変える、意識に働きかけるという、変えていくという力はあるだろうと。ただし、意識の変革というのはね、直接政治行動には結びつかない。ブルトンじゃないけど精神の解放と言う。だから、遠回りになっていきますよね。いつかはそれが世の中を変える力になるかもしれないという、遠回りですよね。まあ、芸術の役割とはそういうものだと。それと、僕と世界、その先にある宇宙というものとの関係、つまり僕の現実っていうものが一体何なのかということでしょうけど、そういうのに目が向いていく。花田清輝が外部の世界という言葉を使っていましたよね、外部の世界と僕との関係――つまり内部の世界を抱えている僕と、外部の世界の関係がどうなんだということに、だんだん考えが向いていくという事になって、やがて僕は外部の世界――トポロジーの考え方で、メビウスの環のように、クラインの瓶のように、内部と外部が全部、境目なく繋がっている状態なのではないかと思うようになっていくんですよね。花田清輝はそれを対立的に捉えてるんですよね。外部と内部の世界を対立的に。対立しているかもしないけど、こういう具合に入り組んで境目がない、つまり内部の世界のなかにも外部があり、外部の世界のなかにも内部が入り組んでいる、そういう構造じゃないかと、だんだん考えるようになっていったんですよ。単純な対立じゃ捉えられないということですよね。

阪本:ニュアンスとしては、近いことを松本俊夫も言っているように思います。やはりそれが50年代から活動されていた作家の到達点だとするならば、そこが50年代の作家と60年代以降の作家の意識の違いだと思うんですよね。ところで『映画批評』が終わったあとに、粕さんが『戦後映画』という雑誌を出して、その後に『映画批評』と『戦後映画』が持っていた流れが『記録映画』で突き進められて、『記録映画』の後に松本さんが〈映像芸術の会〉をやって、それが『季刊フィルム』に繋がってゆくのだと思うのですが、その時期にもうひとつ重要な雑誌として『(第二次)映画批評』があった訳です。どうして『映画批評』の名前を譲ることになったのですか。

池田:そこがわからない。僕は粕君からね(名前を)譲ったとか、譲ろうと思っているという話を聞いて、「まあ、それはそんな重要な問題でもないからいいんじゃない」と言ったのを記憶していますよ。

阪本:粕さんの了承があって名前を譲ってもらったんですね。第一次『映画批評』で突き詰められていたリアリズムの問題と、第二次『映画批評』も、あれもまた政治的なところがあったのですが、そこで何か繋がりがあったというのではなくて。

池田:『映画批評』は粕三平が個人的に金をつぎ込んで、赤字を埋めてやっていたでしょう。だから粕三平個人の『映画批評』という感じがやっぱりあったんですよね。『映画批評』という名前を、こっちはもう終わっていたんだから、別のところで『映画批評』の名前を繋いでいければいいんじゃないの、くらいの軽い気持ちでいましたよ。

阪本:直接、例えば足立正生らとの繋がりがあったというわけでは。

池田:直接はないけど、少しは交流がありましたね、あの頃。それは連中が日大芸術学部だったかな、そこで映画の発表をやって、そこで『鎖陰』なんかを観ていますよ。そういう交流はあったんですよ。面白い事をやっていると僕は見ていましたけどね。かなり過激派になっていきましたよね。70年安保や万博というのがあって、あの頃も結構激しい季節でしたね、60年ほどじゃなかったけど。一部で激しい事も行われたけど。僕は抵抗する側に、大いにシンパシーを持っていたんですけどね。(池田さんが現在も関わられている市民運動の会報などを見せて頂きながら)政治的なものは生活と結びついた感じで、政治は無視できないという考えですからね、僕は。生活と関わっているわけですから、だから常に政治と離れることは、生活している以上はあり得ないと考えていますから。ただしセクトとか、党に所属するとかっていうことは、一切僕はしていないですよ、敢えてしないようにしてきた。避けてきた。それは、僕が戦後、上からあるいは外からの指示で動くというか、そういうことを拒絶しようという風になっちゃったんですね。師範学校を追放されたという事が大きな原因だと思いますよ。上というか、自分より力のある権力、組織の指示に従って動かなくてはならないという状態に自分の身を置きたくないという感じですよ。

阪本:最後に、池田さんが制作された映画についてもう少しお聞きしたいのですが。

池田:『怨霊伝』(粕三平監督、1967)は、いま言った〈制作者懇談会〉 が始まりのときから、いずれ一本映画を作ろうということで、それが結局実現できないまま(でいた)。67年くらいに、まず熊谷君がスポンサーをつけて、映画を35mmで45~50分くらいの、一時間足らずくらいの映画を(作ることにした)。そのときはですね、日本のお化けですね、幽霊、日本人の怨念っていうのかな、そういうものを探る、そういう映画をひとつ作ろうっていうことでね。その頃ね、藤沢衛彦さんっていう、明大の民俗学の先生が、僕の住んでいた経堂のすぐ近くにいましてね、膨大な幽霊やお化けの絵を持っているというので、一度どういうものがあるのか見せてくれと、僕が行ったんですよ、そこへ。そして一部分を見せてもらって、その人とお話をしたんですよ。「いずれこれをお借りして、映画をつくらせてくれ」と話をしたんです。それで後日、改めて熊谷君とそのお宅へ行ったんですよ。そうしたら、お婆さんがね、「先生は具合が悪いから今朝診察に行きました」っていうんですよ。まあいずれ帰って来るだろうから、昼飯を食ってね、(そして)また行ったら、「そのまま入院してます」って言うんですよ。じゃあ、しょうがないということで、退院するのを待とうと思って。そうしたら一ヶ月以上経ってから「亡くなりました」って言うんですよ。それで結局どうしようかということでね、スポンサーをつける予備的な映画を一本16mmで撮ろうということになった。それでお化け(の絵)がありそうなお寺だとか何とかね、いろいろ調べてね。結局は僕の案で東京画廊という画廊がありましてね、山本さんという人が月岡芳年の絵を沢山持っていると僕が知っていたんですよ。それで東京画廊から借りようということになって、芳年の血みどろ絵を全部といっていいくらい借りましてね、それを中心に撮るということになったんです。題名を『怨霊伝』としてね。その時残った〈制作者懇談会〉のメンバー、田畑とか僕だとか何人か、5~6人くらいで。それとね、長谷川龍生を加えたんです。彼に一種の詩のような文章を書いてもらって、それを読むという形で。18分くらいかな、20分足らずの映画を。それは一人二万円ずつ出して、二十万足らず(の予算)で(制作した)。フィルム代だけですよ。写したフィルムの90%位を使って作っているんですよ、最も安上がりな。一応監督は粕三平。撮影するときは絵が主ですからね――絵で作った映画ですから。田畑君は米屋さんなんです。そこに蔵みたいなのがあって、そこを使って、絵にカメラを向けライトを照らして。二日くらいかけて18分くらいの映画を作ったんです。

阪本:カメラは誰がやられたんですか?

池田:カメラは熊谷君がよく知っていたカメラマンに頼んで。編集はほとんど(フィルムを)捨てないで、撮った分、全部つないで熊谷君が編集しました。カメラワークの指示は僕もやっています。一部分ですよ、全部じゃないんですが。熊谷君がだいたいの(コンテを)作ってね、それに従って「この絵はここでパンした方がいいんじゃないか」とかやっているわけです。美術監督みたいなことは僕がやっていますけどね。

阪本:アラン・レネの『ゲルニカ』のように絵を解体するようにして撮影したのですね。音楽は付いていましたか?

池田:奇妙な、お経みたいな音楽が付いていますよ。

阪本:他には『ASARAT橄欖環計画』(1972)と『梵天』(1974)がありますよね。

池田:『ASARAT橄欖環計画』は、芸大の学生だった乙部聖子さんに撮ってもらったんですけどね。『梵天』もやはり乙部聖子さん。一年半くらいあっちこっち行って。だいたい僕がロケハン行って場所を決めて、それでなるべく四季の感じを出さないように撮ってもらうという。最初の頃は一応、絵(コンテ)を書いたんですよ、「こういう感じで」と。でも後は全部任せるという感じで撮りましたね。

阪本:『ASARAT橄欖環計画』は、結構奇妙なパフォーマンスが行われていましたね。人がミイラみたいになって、手だけ出して埋まっているとか。

池田:あれは、各自が考えたパフォーマンスです。『ASARAT橄欖環計画』は、全然僕はコンテみたいなのは書いていません。全部行き当たりばったり。『梵天』は最初の頃はコンテを書いて渡したんだけど、後はもう全部お任せするという感じで。どういうアングルでどう撮るかは、全部彼女が自分で決めて撮ったんですね。乙部聖子さんが持っていた8mmカメラを使って撮っているんです。だから彼女の交通費とかフィルム代、わずかな費用だけで作っています。あれ(撮影)は二カ所で、二回だけですよ。ひとつが八月十五日。ヨシダ・ヨシエなんかが裸でやってるでしょう。あと、〈パーリ二パーナ・パーリヤーヤ体〉というグループ。(このグループは)三人なんですけどね。一人(赤土類さん)は埋まってしまって、手だけこう(地表に出しているシーンがありますが)、あれも発見したという感じで。彼(赤土類さん)が前の晩から(撮影場所へ)行きたいというので連れて行ってあげたんですよ。(夜の)12時くらいになって、それでここで夜明かしすると言うので、僕は浅間の山の中にそのまま置いて帰った。それで、翌朝そこへ行ったら、彼は既に穴を掘りましてね、白装束で穴のなかにうつぶせになっているんです。で、それを最初に撮ったんですよ。それで次のところへ移動して行ったんですが、途中で僕はカメラを現場に忘れていたことに気が付いたの。それで乙部さんと一緒に戻ったんですよ。10分くらい経って。そしたら、赤土さんは写されることを考慮しないで(穴のなかに)埋まっちゃっていて、手だけ出して(自分で土をかぶせて)均している訳ですよ。それで急いで写真を撮ったんです。(最初に)僕らが来た時に彼はうつぶせになっていて、それで(僕らは撮影を済ませて)去った訳です、一度。だから我々が去ったのを見越して、自分で土をかけたんですね。だから赤土さんは写されることを予定しないで埋まっていたんです。

阪本:彼は何を思ってそんなことをしたんですか。

池田:オリーブの種とともに地球と同化したんでしょう。一緒に埋まったんです、文字通り。そのままだと死んじゃいますから出てきたんでしょうね。

阪本:ちゃんと生きていますよね(笑)?

池田:そりゃもちろん生きてますよ(笑)。彼は僕らが写していることを知らないはずですよ。あと裸になって踊っているのも〈パーリニヴァーナ・パーリヤーヤ体〉(の辻村和子さん)ですね。あの裸だって僕が頼んだわけではなく、辻村和子さんは、勝手に踊り始めたわけですよ。それで丸い鏡をね――彼女に言わせると「宇宙をこの鏡のなかに写し取るんだ」と言ってね、写し取っていたんです。それで全部を鏡のなかに収めて「宇宙の真ん中に種を置くんだ」と言って、鏡の真ん中に種を置いたでしょう。それぞれのコンセプトで。ヨシダ・ヨシエは裸になって「大地と交わるんだ」とか言って、まさに種まきを…(笑)。

阪本:そういうお話を聞くと大分作品の印象が変わりました(笑)。

(了)

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