「初期ビデオアート再考」を再考する

「初期ビデオアート再考」展は随分過去のものとなり、DVDカタログも大半が出回ったことで、ようやく一区切りがついたと最近実感している。そこで「初期ビデオアート再考」を再考してみたいと思う。
大筋で初期ビデオアートの重要な作家はほぼ全てを押さえられ、また悲願であったDVDパッケージ化も果たすことが出来たことには満足している。当初は私などでは相手にされないのではないかと思っていた作家の方からも快諾いただけたことは、本当に幸いであった。
しかし、人選については紆余曲折あり悔いが残る。本当なら60年代末の作家であれば坂本正治、CTG、70年代の作家であれば美術系の松本正司、堀浩哉、和田守弘ら、80年代の作家であれば斉藤信、島野義孝、寺井弘典、あとはRadical TV、そして伝え聞く限り興味深い作品を作っておられた柴田良二あたりも含めたかった。このように時間的金銭的問題から限られた作家数となってしまったことは、私の力不足に起因する。また数名の作家の方には、誠に失礼なことに出品キャンセルをお願いせねばならなかったことも悔やんでも悔やみきれない。
加えて80年代は自分の好きな作品ばかりを含めてしまったので、ビデオアート正史なるものがあるとすれば、逸脱の見られるものとなってしまったことは自覚している。本来であればもっと大きく取り上げるべき80年代ビデオアートの中心であったSCAN周辺の動向を、ほとんど取り上げることが出来なかったからである。ある程度ビデオアートに理解のある観客であれば、この展覧会が日本の初期ビデオアートをあるひとつの視点(ビデオというメディアの固有性)から解釈したものと容易に判断出来るはずだが、ビデオアートに通じていない観客からすれば、これが正史であり全てであるとの誤解を招く恐れがあったのではないかとも思えている。
そして何より反省しているのは、カタログ発行の遅延についてである。DVDのエディットと、カタログの編集とデザインのほとんど全てを個人でやっていたとは言え、ほぼ一年遅れの発刊となった自分の手際の悪さには弁解の余地もない。チャンスを与えて下さった方、ご協力を頂いた作家や執筆者の方には御心配ばかりおかけしてしまった。
このような反省点ばかりの「初期ビデオアート再考」展であったが、(メディアアート前史としての)ビデオアートの重要な作家や作品が現在殆ど顧みられていないという国内現代美術ジャーナリズムの状況、そしてビデオアート/メディアアートについて雑誌で書き散らかしている批評家の無知さに対して、声は小さくとも異議申し立てを行えたのであれば幸いに思う。(余談であるが、ロスのGetty CenterとMOCAにて開催された”OUT OF THE ORDINARY: NEW VIDEO FROM JAPAN/RADICAL COMMUNICATION: JAPANESE VIDEO ART,1968-1988″には、大変多くの観客が詰めかけたと聞いている。またオーストリアのINDEXスタッフなどはカタログ付属のDVDに驚嘆の返答をくれた。海外では日本の初期ビデオアートについての情報が欲しくとも、一部作家を除いては知ることすら出来ないのが今までの現状だったのである。国内のジャーナリズムや批評家の無知、あるいは無責任がこの現状を生み出して来たのだと私は考えている。)

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Sutcliffe Jugend – Transgression


(Dogma Chase/LP)

不定形なパルスノイズの狭間から切り込み、即離脱する刺々しいヴォイスを呼び水として、各種エレクトロニクスにKevinの激情剥き出しのアジテーションが現れ、それらがズルズルに爛れた奇怪極まりない変態を晒し、聴くものを煽動するA面「Transgression」。異様な勢いはそのままに、プリミティヴな断続のなかで、駄目押しの致命傷的ダメージを与えるかのように、徹底した暴走を見せるB面「SJ-POP」。そして人間性の欠落した冷酷な電子音の反復によって、各種雑音+ヴォイスを串刺しにする「Playground」にて締める。同時期に各種発表されたSutcliffe Jugend新録音源の中でも、圧倒的なネガの彼岸に位置する強力さ。言葉で形容しても、全く形容し足りない規格外の違反的音楽/ノイズ。ここでSutcliffe Jugendは暴虐の果ての果てを突き詰め、具体的モチーフを消失せしめ、理性の介在しない純粋で真っ白な本能的暴力感情の領域へと到達している。内容面での暴虐の極みとは一見対極的な、厳粛かつ極めて美しいアートワーク(和紙&エンボス、小口の折り返し、ホワイトヴィニール)も素晴らしい。このアートワークの厳粛さは、盤面の暴虐が決して野卑なものではなく、気高く崇高なものであることを主張しているかのようだ。

Robert Ashley – Wolfman


(Alga-Marghen/One-Side LP)

Sonic Arts Unionの一員でもあった米国の実験音楽家、Robert Ashleyの初期(1964)の傑作。Whitehouseにも間違いなく多大な影響を与えたであろう、恐るべき暴虐フィードバックノイズ作品である。本作のコンポジションにおいてAshleyは、マイクを口腔の中に突っ込みかねない勢いで、今日のパワーエレクトロニクス顔負けのフィードバックノイズと吠え声の混成体を放出し、テープの変調とミックスさせている。特に終盤のテンションの高さとクールさは異様ですらあり、現代音楽系電子ノイズに特有の、乾いたプリミティヴな緊張感に満ち満ちている。(この緊張感と極端な歪みは、サウンドマテリアルと形式のみ取り出せば、ノイズ/パワーエレクトロニクスと同質のものである。)また余りに格好良いAlga-MarghenからのLP版アートワークと潔いワンサイドのみの収録形態は、この作品のプリミティヴな緊張感をより引き立たせていると言えよう。

Sutcliffe Jugend+Satori @ 高円寺 ShowBoat, 難波 Bears

Sutcliffe Jugend, Satori, Pain Jerk
2007/4/28
高円寺 ShowBoat
Sutcliffe Jugend, Satori, Solmania
2007/4/30
難波 Bears

ついに実現したSutcliffe Jugend+Satori来日ツアーの東京、大阪両公演を観た。ここでは特により強固な緊張感に満ちていた東京でのライブを取り上げたい。ちなみに日本側の共演として、東京ではフロントアクトとしてPain Jerkがライブエレクトロニクスによる極端かつ鋭利なハーシュノイズを聴かせ、大阪ではSatoriの後にSolmaniaが改造ギターと大量のエフェクターによる有機的なノイズを聴かせた。どちらもピュアノイズとしての日本ノイズの完成度を見せつけるものであった。

Satori:
インフォメーションが極めて少なく、不穏なイメージにその存在が覆われたユニットとして知られたSatoriを、まさか日本で観ることができるとは思わなかった。そのライブは映像を中央スクリーンに投影し、スクリーン両サイドで黒づくめの二名のメンバーがノートPCを操作し演奏するというものであった。その映像は過去の不気味な映画群からのファウンドフッテージものであり、奇怪かつ印象的なシーンがしつこくループされるという内容。それはサウンドの視覚的シンボルとして、必然性を持って機能していた。そして演奏の方は、不穏なデスインダストリアル〜ダークアンビエント形式のサウンドであり、ハーシュ質のノイズが持続するなか、インダストリアルな脈動が打ち込まれゆく壮大な展開をみせた。精神の奥底を探求し、畏れという普遍的感情の表出を目指すかのような、派手さとは無縁のストイックなサウンドである。この精神的イメージ追求への指向は、言うまでもなくSutcliffe Jugendと相通じる。観客らも瞑想するように、そのサウンドに聴き入っていた。最後に象徴的なCold Springのレーベルロゴがスクリーンに写し出されて終了。

Sutcliffe Jugend:
Sutcliffe Jugendは英国ノイズ/パワーエレクトロニクスにおいてWhitehouseと並ぶ重鎮であると同時に、Come Org期Whitehouseのようなシリアスな攻撃性を、より純化させて聴かせるユニットである。しかしながら反社会的テーマへの具体的な接近は、2000年代Sutcliffe Jugendにおいては若干希薄化している。その反面、いまのSutcliffe JugendはSJやBodychoke名義での活動の反映として、定型的なパワーエレクトロニクスに留まらない幅広いレンジの音楽要素を、凶暴なサウンドに回収することに成功しており、シリアスな攻撃性はより強固になっている。勿論元WhitehouseでもあるKevin Tomkinsの、独特の声質によるアジテーションは一層激しさを増している。音の凶暴性をより純化するという指向性は、暴力衝動の音楽/ノイズによる表出として支持することが出来る。
不定形な音響に導かれて登場したKevin TomkinsとPaul Taylorは、まずは持続ノイズのなかで断続的なノイズを発する。このとき特に唾棄しながら観客を睨みつけるPaulの姿が印象的であった。機材はKevinがサンプラー&エレクトロニクスとフィードバックを取り込んだマイク&エフェクター類、Paulがサンプラー&エレクトロニクスとギターであった。双方ともに極めてシンプルなセットである。そしてPaulのノイズギターを狼煙としてKevinがヴォイスを発することで、Sutcliffe Jugendの暴虐が開始される。ノイズのループとPaulのギターノイズ&エレクトロニクスに満たされた空間の中で、暴力衝動の顕現と化したKevinは激しくアジテーションを繰り返す。暴力衝動の純度は時間とともに高められ、Paulがギターを放り投げてマイクを手にし、二人掛かりのアジテーションを繰り広げる最終段階に来て臨界に達する。ここで私は暴虐の花が開くような印象を受けた。二人はリミッターが切れたようにステージに留まらずフロアのなかを徘徊し、叫び続け、そしてまた観客も拳を突き上げる。(Sutcliffe JugendはKevinのキャラクターばかりが主にクローズアップされて来たが、Paulのドスの利いたアジテーションも極めて存在感あるもので、この二人あってこそのSutcliffe Jugendであると理解した。)彼らは意味を伴うノイズを一貫して追い求めている。そのノイズ/パワーエレクトロニクスのエッジに立つ姿勢に深い感銘を受けるとともに、自分のノイズに対する価値観について強固な裏付けを得られたライブであった。Sutcliffe Jugendは純粋化された暴虐そのものであるノイズを凶器として、我々のモラルによって固定された精神と世界観を殺し続ける。

“OUT OF THE ORDINARY: NEW VIDEO FROM JAPAN/RADICAL COMMUNICATION: JAPANESE VIDEO ART,1968-1988”


GettyとMOCA共同開催による”OUT OF THE ORDINARY: NEW VIDEO FROM JAPAN/RADICAL COMMUNICATION: JAPANESE VIDEO ART,1968-1988″の上映の際に配布された冊子が送られてきたので、出品を直接仲介した村岡、河口、植松各氏にもお送りした。まだ部数があるので、友人知人で欲しい人は次に会った時にでも言って下さい。内容は日本のビデオアートの歴史を回顧できる素晴らしいセレクトであった(正直なところ、未見の作品も幾つかあったが)。
加えて近年のBTあたりで取り上げられていそうな、ポストモダン以降の美術の文脈から来る最近の作家の作品も収録されていた。こうして初期の作品と近年の作品を並べると、やはり日本においてビデオアートの歴史は完璧に切断されているのが、明確に見て取れる。

Macronympha & Prurient Live

Macronympha & Prurient Live

これは何とも極端で禍々しい。PrurientことDominick FernowはHospital Productionsの主宰者でもあるが、制作とレーベル運営のどちらをとってもアメリカンハーシュの重要人物となったと言っていいだろう。Macronymphaとのこのコラボでも、御大相手に一歩も引かず、二乗三乗の雑音を生み出している。またHospitalからはAkitsaとのスプリットをリリースするなど、ノイズとともにブラックメタルも愛好している模様であり、その点でも好感が持てる。
The Rita Live

Pedestrian Deposit Live

そして来日間近のThe RitaとPedestrian Depositのライブ。期待している。