Table of the Elements Discography


Table of the Elements Discography

Table of the Elementsのディスコグラフィーが一覧になっている。こうして見るとTable of the Elementsのデザインに一貫するコンセプトが見えてくる。アートワークもレーベルとしての審美眼も明確であり、大変素晴らしい。
数えてみたら、もう手放した盤も含めて32作を持っていました。一時期はコンプリートを目指していた。

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FAUST – Rien


(Table of the Elements/CD)

ジム・オルーク、彼の名前をはっきり覚える切っ掛けになった最初の一枚が本作である。ジャーマンプログレ大好きな若輩だった私が、当然のように買ったFaustの新譜(95年当時)。その内容に「流石はFaust。なんて緻密なコラージュワーク。」と思ってたら、実質的にはオルークの作品だったというトホホな巡り合わせであった。ここでオルークはプロデュースという肩書きではあるものの、Faustが相手ではスタジオでの計画的な録音になんてなるはずもなく、ライブのテープだけ送りつけられて、文句言われて、気の毒な事にそれをコツコツと手作業にて一人で仕上げる羽目になったという。なんともFaustらしい逸話ではないだろうか。しかし、そんな不運がこの素晴らしいコラージュ作品を産む事になるのだから世の中分からない。テープの使える部分の切り貼りで緻密に再構成したFaustに似た別の音楽。Faustを素材にしたオルークのリミックスとでも言おうか。初期のオルークの音楽が持つ、あの循環する感覚が堪らなく好きという方には必須の作品。他者に実制作を丸投げするという、Faustらしい脱臼的行為であると深読みするも良し。元素記号表レーベルらしいミニマルな銀一色のアートワークも美しい。その元素記号表レーベルの活動記録パンフによると1994年のアメリカでの「manganese festival」の時のFaustのライブが素材の模様。トニー・コンラッド、AMM、サーストン・ムーア、灰野敬二も出演。実際、灰野とはセッションに近い形だったのではなかろうか。一聴して灰野とわかるヴォーカルとギターがかなり入っている。
ノイズリスナーにとってはオルークとはどういう存在なのであろうか?。軟弱な音響?、程よくポップで程よくマニアックなスノッブ向けミュージシャン?、器用すぎるのと、音楽マニアでノイズからポップスにまで詳しいのが災いしてか、どうも硬派なノイズマニアからは受けが悪い気がする。別にノイズ聴く人に「Eureka」を勧める気は全く無いが、Gastr Del Solと初期の個人作品はどれも聴いておいて損はない。
過去において「音響派」と称された音楽やその周辺の実験的ポピュラー音楽が、ファッションや雰囲気に寄りかかったものに過ぎず、結果消費されて行ったのは明らかであるが、そんななか、ある時期までのオルークの仕事は他とは違う本当に意味のあるものとして私には感じられた。勿論そこで試みられた実験とは、過去の実験の焼き直しに過ぎない。しかし多領域の文脈を横断しつつ、先人の表現形式の実験を、実践的に辿り直そうとする気概が彼の中には存在していたと思える。その気概とは変化、経験を求めて広がる意志から来るものであったと言ってもよいだろう。

Jim O’rourke – Happy Days


(Revenant/CD)

96年の作品。チェンバー・ドローンあるいはエレクトロニクス・ドローンを構成物とすることにより、大きなスケールでの循環を得意としていた初期の仕事を経て、オルークはこの作品で、アコースティックギターとハーディーガーディーのみを用いている。孤立したアコースティックギターと密集したハーディーガーディーの対比、それは帯解説文にあるようにジョン・フェイヒーとトニー・コンラッドの関係性を探る仕事である。

冒頭の10分はゆったりとしたアコースティックギターの演奏で、ジョン・フェイヒーを想定した、ミニマルな弛緩したメロディを黙々と爪弾く。その後、トニー・コンラッドを想定した、ハーディーガーディーの持続音へ移行してゆくという展開。この重なり合った二つのレイヤーは、風景が移り変わるように、ゆっくりとした速度で入れ替わる。これらのレイヤーは、個別に見ると両者ともに音の構造(反復と持続、そのなかでの漸次的変化)は類似している。そのコンセプト的な対比も興味深いが、その一方で後半のハーディーガーディーが産み出すドローンの凄まじさも特筆しておきたい。密集したぶ厚い軋みは、例えばOrganumの金属摩擦ノイズを凌駕するほどである。ノイズ的聴取という観点からみても、この音の豊穣さは絶品。ガリガリと引っかかる軋み音と多層的な持続音が一際大きくなる39分以降は、手回しハンドルの力の入り具合がリズムのようにも聞こえる。そのままドローンは更に上昇してゆき、やがて消えてゆくのだが、その中から再びアコースティックギターのレイヤーが浮かび上がり、大きな循環は最後に大円団を迎える。間違いなく彼の最良の仕事だろう。オルークにとって重要な2つの要素、ミニマルミュージック(広義で取るならばアメリカ実験音楽)とカントリーブルースという、アメリカ的な歴史背景に裏付けられたものの結合。さらにそれを「幸福な日々」と題するセンス。これだけは聴いて欲しい。

Jim O’rourke – Terminal Pharmacy


(Tzadik/CD)

エレクトロ・アコースティック作品集。ジョン・ゾーンのTzadikコンポーザーシリーズに作曲家としてオルークが登場。40分にもわたる大作「Cede」は93〜94年制作。オルークのテープに演奏家(管楽器奏者2人とジョン・マッケンタイア)が加わるという編成。ここでは他の作品のような分かりやすいマテリアルの使用はしていない。曲の大部分を静寂が占めているが、耳を澄ませば微細な抽象音が注意深く静寂の中に配置されていることが分かる。そこへ管楽器が部分的にうっすらと重ねられる。難解と言う訳ではないが、何もせずとも聴こえてくるような分かりやすさは皆無。微細な持続音やテープ音源は緊張の度合いを高めながら循環し、やがて突然別の段階へと転じる。オルークのエレクトロ・アコースティック手法の集大成に相応しい。微細な音に40分近く集中することで、敏感になった意識にとっては終了直前の大きな転換(ここのみがマッケンタイアのパート)は衝撃。もう一方のタイトル曲「Terminal Pharmacy」は中断しながらも95年に完成した作品。アコーディオン、管楽器、弦楽器、アコギ(オルークが演奏)による室内楽曲で無調な現代音楽的印象。

Jim O’rourke – Rules Of Reduction


(Metamkine/3’CD)

フランスの、実験映画とも深い関係のあるメタムキンからリリースされた3’CD。メタムキンの「耳のための映画シリーズ」の一枚。93年の作品。街の雑踏、車のクラクション、公園で遊ぶ子供達の声、様々なフィールドレコーディング音源が場面転換のように切り替わりながらコラージュされてゆく。その手さばきはあくまで映画的で、ラッシュ編作業のようでもある。実際のフィールド音に加えて、BGMとしての映画音楽的な演奏が付け加えられており、多くの場面で何らかの音楽の断片が流れている。音と映像の関係について考察し、劇映画の範疇でそれを展開させたゴダールのように(例えば「右側に気をつけろ」)、ミュージック・コンクレート作品でもありながら、架空の映画のサントラでもあるという鋭いコンセプトを、音楽の側から突き付けた批評的な作品。

Jim O’rourke – Scend


(Three Poplars/LP)

92年作、本盤はLP再発。盤面はクリアビニールであり、アートワークも美しい。フィールドレコーディング音を素材とした作品。大気の流れる音、車の走行音など、フィールド音はそのままの姿で提示されている。静寂が音楽の多くを占めており、集中して聴いていると何気ない日常音も甘美な音響に聴こえて来る。そして中盤から、いつものドローンがゆっくりと姿を現す。荒々しくも繊細極まりないドローンは、フィールド音と絡まりながら緊張の度合いを高める。この具体音と不安定な抽象音のせめぎ合いこそが本作の聴きどころ。次作と同じくフィールド音の使用頻度が高いので、フィールドレコーディング作品が好きな方にもお薦め。

Jim O’rourke – Disengage


(Staalplaat/CD×2)

91-92年にかけて制作された、溺水をテーマとしたドローン、エレクトロ・アコースティック作品。2枚組。1枚目「Mere」は3章からなる組曲で弦楽器、管楽器、声、ベースによる徹底したドローン。即興集団Morphogenesisのマイケル・プライムも短波ラジオで参加。淡々とした持続音は変化や派手さとは無縁で、ひたすら暗く重苦しい。2枚目「A young persons guide to drowing」も2章からなる組曲。ウォーレン・フィッシャーとの共作(彼はヴァイオリンも演奏)。ゆっくりと寄せては返す、陰鬱な波を想起させるエレクトロニクスの織り成すドローンを中心に、水の音や電子音も交えながら曲は展開してゆく。特に電子パルスが無機質に冷たく鳴り響くパートは凄まじい緊張感と暴力性。後半は消えてしまいそうなほどに弱々しく震えるドローンに、軋むヴァイオリンが重なる展開。美しさではなく恐怖の対象としての水。鉛のように重く冷たい塩気のない淡水。静寂の中に潜む、人間的な感情を無視した暴力的な悪意としての自然。初期のオルーク作品には、どこか冷たく陰気な水のイメージが漂う。初期の傑作であり必携。