Martin Carthy – Sweet Wivelsfield


(Topic/CD)

正統派英国トラッドの第一人者、マーティン・カーシーの74年作品。スティーライの2ndと3rdに参加した後の時期に当たる。スティーライでトラッドのフォークロック的応用という挑戦的な試みを果たし、再びトラッドの領域に戻った本作は、勿論全曲トラディショナルソングのアコースティックギター弾き語り(アレンジは本人)。スティーライの3rdでも演奏していた「Skewball」も収録。痛いほどの緊張感に満たされていたスティーライのバージョンと違い、おおらかで包容力に満ちている。聴けば聴くほど味わい深い、流行とは無縁の普遍的な名作(というより、彼の単独作品は今まで聴いた限り、一つも外れがない)。

Advertisements

ILDJARN – Ildjarn is Dead


(Northern Heritage/CD x 2)

ILDJARNの最終作「Ildjarn is Dead」。本作は初期の再発済のテープ2本を収めたDisc1、貴重なマテリアルを集めたDisc2から成る2枚組。Disc2には最初のテープである「Seven Harmonies of Unknown Truths」(何故かBURZUMのブート「Svarte Dauen」に収録されてしまったトラックも含んでいる)のオリジナル&バージョン違いや、不気味なノイズトラック、鎮魂歌のようなシンセアンビエントまで幅広く収録。
ブラックメタル、特にプリミティヴブラックには殆ど一人で音源制作をする者が多々おり、そのようなブラックメタルの特有の制作スタイルこそが、この界隈にアンビエント作品を生み出して来た要因であったと思う。北欧の雪に閉ざされたスタジオで、孤独に延々と繰り返されるロウで劣悪な音響加工。楽曲よりも、断片化した音楽の残骸を拡大し、曲展開よりもハーシュな音像を前面に押し出す。同じマイナー音楽同士、そこからノイズミュージックまでの距離は後一息である。そうして秋田昌美の指摘どおり、(音楽の形式においても反社会的アプローチにおいても)ブラックメタルはWHITEHOUSEの領域へと至る。例えばILDJARNとWHITEHOUSEの前身COMEを比較すると、その類似がよく分かる。
何故、ILDJARNことVidar Vaaerが元THOU SHALT SUFFER(EMPERORの前身)のメンバーという経歴を持った人間でありながら、ノイズをも凌駕する極端な逸脱を成せたのかについて不思議に思えてならず、彼の作品を追って来た。しかし彼は本作で完全に活動を終了させてしまった。その態度は潔いというよりも、音楽及び人間社会への決別として映る。菜食主義者であり、自然を崇拝し、人間を嫌ったVidar Vaaerは、今頃はインタビューで語った通り、雪に閉ざされたノルウェーの奥地で隠者として暮らしているのだろうか…。

SORT VOKTER – Folkloric Necro Metal


(Northern Heritage/LP)

ILDJARNことVidar Vaaerを中心とした別ユニット。オリジナルはNorth League ProductionsとNapalm Recordsによる共同リリース。前半はILDJARNらしさを残しつつ、比較的ブラックメタルの形式(といってもメタルの標準からすれば、規格外間違いなしのプリブラではあるが)をとっており、その微妙なバランスが面白い。やけに目立つ打ち込みドラムと、今までのILDJARN本体のトラックでは殆ど併用されなかった寒々しいシンセサイザーが、このユニットならではの個性を打ち出している。この二つの要素が加わるだけで意外とILDJARNらしさを保ちつつもメタルへ近づけられるものだと思う。そしてさらに凄いのが#6、無茶な音質によるプリミティヴブラック…というよりもこれはパワーエレクトロニクスである。一応微かに単調なリズムはあるが、そのような演奏を押しのけて、もはや楽曲の主役となった高音域ノイズと人外の悲鳴がとにかく耳に痛い。#7は無謀極まりないダブ化したプリミティヴブラックメタル。劣悪なヒスノイズをも素材として取り込んだ極端な音響加工は、ここまで来ると楽曲を聴かせるという本来の目的から完全に逸脱している。そしてラストを淡々としたシンセ曲で締めくくる。

ILDJARN – Landscapes


(Norse League Production/CD x 2)

ブラックメタルのミュージシャンには暴力的なバンドサウンドを放棄し、シンセによるアンビエントに転向する人々が少なからずいる。思えばVargもそうであった。私見だがそのようなブラックアンビエントにも二つのタイプがあり、クラウス・シュルツェや初期タンジェリン・ドリーム等、ジャーマンプログレ系の淡々とした瞑想的なシンセアンビエントと、管弦楽器音色の打ち込みによるネオクラシカル/ネオフォークに大別できると思う。この作品は前者であり、非常に静かで派手さのない、精神の内面へ降りてゆくかのような瞑想的な作品である(ちなみにILDJARN-NIDHOOG名義のアンビエントは後者)。Vidar Vaaerがノイズの果てに辿り着いた静謐な世界。彼自身によるジャケットフォトそのままの、美しいノルウェーの自然をイメージさせる音楽。ブラックメタルにアグレッシブさのみ求める人には刺激が足りないかもしれないが、シンセアンビエントとして非常によくできた作品で気に入っている。特にジャーマンプログレ好きにはお勧め。

ILDJARN – Det Frysende Nordariket


(Norse League Production/CD)

EMPERORの前身バンドTHOU SHALT SUFFERにも参加していた人物、ILDJARNことVidar Vaaerによる一人プリミティヴブラック。プリミティヴブラックと呼ばれる音楽の中でも間違いなく最も極端なサウンドを出しており、もはや全くメタルの範疇からはみ出ている。意図的なサウンドデザインとしての極端な劣悪音質。洗脳のように延々繰り返されるミニマルな演奏(展開は殆どなく、突然始まり突然終わる)。ブラックメタルの音楽形式を保ちながら、ノイズを取り込み捩じ伏せている。安直にノイズの領域に踏み込んだブラックは、多くの場合ノイズとしては案外ありきたりなものとなる。それに対して、この崩壊寸前の絶妙なバランスの維持は全くもって素晴らしい。ジャンルの呼称がこのようなアヴァンギャルドな音楽に出会う機会を奪っているのだとしたら残念だ。アヴァンギャルドロック、ノーウェーヴ好きな方にこそ薦めたい。
本作は93〜94年の間にリリースされた7インチと2本のデモをまとめた95年の編集盤。ヴォーカルとして本人の他にNidhoog、そしてかつての仲間であるEMPERORのIhsahnがゲストで参加している。#1〜4は7EPの曲でヴォーカルはNidhoog。フックのあるリフが繰り出される。そして1stデモである#5からは更に極端な音質。ヴォーカルはIhsahnだが、なんといっても彼のヴォーカルが凄い。何がそんなに憎いのか、常軌を逸した怒声、絶叫の連続。ひたすら延々延々続く単調なミニマル演奏と、Ihsahnのヴォーカルのコンビネーション。そのなかでもペナペナな演奏による何ともいえない倦怠感と哀愁を含んだリフの#10が特に異様。そして#13からはVidar Vaaer本人ヴォーカルの2ndデモになる。もはやドラム音は機関車の蒸気音か昆虫の羽音。凄まじい音質であるが、勿論これも意図的なものである。ヴォーカルなしで淡々とミニマルな演奏が繰り返されるインストトラックも収録。

GENOCIDE ORGAN – Mind Control


(Tesco Organization/LP)

Genocideo Organによるノイズ・インダストリアルと称される音楽を通した状況への闘争。聴くものを圧殺するかのように重苦しい電子音とそこに忍び込まされる音源引用。「The Elders Of Zion」におけるガラスの破砕音とインダストリアルな駆動音を貫通するアジテーションなど、マーシャル・パワーエレクトロニクスの音楽様式としても完成度は高い。断っておくがノイズにおける文化的攪拌者としてのGenocide Organはプロパガンダとして極右思想やエスノセントリズムを掲げているわけではない。その真意は隠蔽されたままだが、それはこの音楽の本質ではないだろう。むしろ、その軋んだノイズと押し潰された叫び声は、聴く者の意識の内奥にある抑圧されるもののイメージを呼び出し、モラルやコントロールされた社会的意識を内部から喰い破る契機として機能する。490枚がリリースされ、うち25枚はナンバーが刻印された全面メタルプレート・ジャケット仕様。黒のビニールに密封されたレコードにインサートシート付属。

牧野貴 – No is E


(Film→Video, 23min, 2006)

私は近頃、芸術の本質とは五感の快/不快や、メッセージ性によって左右されるようなものではなく、その事柄に出会った際に体験される経験そのものであるとの思いを強めております。私は最前列で「No is E」を拝見しましたが、粒子のきらめきが視覚を通して経験されるのを感じ取り、そこに充実感と高揚感を覚えました。一見するとブラッケージ的な、現実のイメージをもとにした抽象映画に近いものと解釈されかねない作品ですが、むしろ私はジェイムス・ベニングの映画に近いものを感じます。大仰な展開を極力排除したうえで、フィルムに撮られた一つの光景が、それ自体が一つの経験をもたらすものとして現実から断ち切られ、眼前に提示される。そこでは「見ることそれ自体の豊かさ、そこで得られるはずの経験の可能性」としての映像が、体験されるべき事柄として観客の前に晒される。消極的な観客にとっては退屈な時間であっても、積極的な観客にとってこれは新たな経験の契機となります。

上記は私が作家へ送った私信に加筆したものである。フィックスで撮影される水面の光の乱反射は、ストイックな手法により多重化される。これは断じて安直に抽象を指向した作品ではない。牧野貴の作品は、イメージそれ自体を媒介として、観た者の内において経験とともに生成されるものである。この作品は作家の内面の表現でもなく、自律した外界の提示でもない。ここで作品は作品となる境界線上で、生成されるか霧散するかの状態で揺らめく光そのものとなる。それは極めてシンプルで、その反面極めて混沌としたものである。本作品の音楽はジム・オルークが担当している。