PAINKILLER – Collected Works


(Tzadik/CD×4)

節度ある大人なフリージャズ/フリーインプロ愛好家ならまずジャケットに、次いで内容に二度顔をしかめるであろう首吊り死体ジャケットに包まれた集大成4枚組(Box内には1stアルバムの検死ジャケットをはじめとした悪趣味なアートワークも収められている。)。
1st「Guts Of A Virgin」、2nd「Buried Secrets」が収録されたDisc 0、およびDisc 1「Execution Ground」はビル・ラズウェルのダブなベースに支えられ、高音域でフリーキーに暴れるジョン・ゾーンのアルトサックスにミック・ハリスのハードコアなドラムが容赦なく襲い掛かるというハードな内容。このユニットにてゾーンはハードコア〜グラインドコア〜デスメタルから初期衝動のみを抽出し、フリージャズ〜インプロに挿げ替えてみせた。もともとゾーンは「HARMONY CORRUPTION」のライナーを読めば分かるようにハードコアパンクにも深い理解を有していた人物である。「Scum」によってグラインドコアを打ち立てた初期NAPALM DEATH。その斬新な音楽的コンセプトの要であったハリスをフリーインプロに引っ張って来てドラムを叩かせる。則ちグラインドの動燃機関でフリーインプロを駆動させる。それによって我々はフリージャズ〜インプロヴィゼーションとハードコアパンク、両者は意外にも近いベクトルを持っていたことを思い知らされる。
90年代には灰野敬二や山塚アイ関連といい、この辺りの音楽を全て同一の価値観で繋げることが可能な空気があった。Disc 3には、その山塚アイもゲスト参加した94年の大阪でのライブが収録されている。またBox化にあたってはDisc 0に、巻上公一「殺しのブルース」に収録されたトラック「Marianne」が追加収録されている。これはJacksのカヴァーを灰野敬二、巻上公一と一緒に演奏するという強烈なトラックである。
改めて聴き返すと、上記のような激しい側面だけではなく、恐らくラズウェルが持ち込んだものであろうダブ的アプローチが随所で炸裂しているのも面白い。Disc 2はダブ処理によってズタズタにされた即興演奏の残骸/残響としてのアンビエント全2曲。そういえばPAINKILLERの演奏からゾーンの金切りサックスに触発された激しいパートを除いて、ラズウェルとハリスのダビーなリズム演奏部分のみを聴いてみるとヒップホップ/ダブレーベル WORDSOUNDからリリースされた彼等のユニット、E.O.Eと驚く程に音楽形式が似ていることに気がつく。この頃からハリスは打ち込みによるダブ・ブレイクビーツ路線へと転身するのだが、PAINKILLERでの活動も変化の要因の一つだったのではないだろうか。
ドラマーの音楽的背景が即興演奏ではなく、あくまでハードコアパンク〜グラインドコアであることがこの作品の特色となっているのは当然だが、それに加えてダブの要素までもが注入されている怪作と言える。

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HELDON – Interface


(Cuneiform, CAPTAIN TRIP/CD)

暴力的なもの、サウンドゲリラとしての表現を行うとリシャール・ピナスは語った。そしてインダストリアル・ノイズとしてのエルドンという解釈を秋田昌美は述べた。確かにエルドンにおけるエレクトロニクスの使用は、機械的な駆動を繰り返すのみである。秋田昌美の指摘通り、ここに当時のジャーマン・エレクトロニクスのような溢れんばかりの電子音の快感はない。単純でプリミティブな電子音の作動。インダストリアル・ミュージックとしてのエレクトロニクスの使用。この音楽は技術的進歩により表現力を獲得し、洗練され音楽化してゆくエレクトロニクス・ミュージックの進歩史観に対するアンチの立場をとっている。電子メディアの無価値な誤用=インダストリアル・ノイズ。ここからEGやSPKへ至る道程は思いのほか近い。
エルドンの面白さは、ゴーチエとピナスによる駆動するアナログシンセサイザーの反復に、人力演奏によるインタープレイが真っ向から対峙するところにある。ピナスによるフリップ的メタリックギターの蠢動とオジェの緻密なドラムが、暴力的エレクトロニクスと衝突する。メタリックなSFテイストのジャケットやタイトルも、サウンドの疾走する無機質な感覚とよく合っている。
ノイズとは何か。それは意味のレベルでは反社会的モチーフの使用による、TGに代表される情報戦略や、GWのような文化的テロリズムである。(そこから反社会的モチーフが本気化してしまうと、所謂犯罪者による音楽となり、最早好事家以外には用を成さない対象物となる)。またノイズをマテリアルである音楽の形式のレベルでの問題としてとらえると、ダダ/アンチ/無意味/誤使用の実践のための方法論として解釈することが出来る。インダストリアル・ノイズは電子音楽におけるダダであり、機械の誤使用の提示である(それと同時に、意図的であろうとなかろうと、表面的には先述の意味のレベルにおいて、工業社会へのアイロニーも身に纏ってしまうこともあるだろう)。同じく狂躁的に転げ回り、雑音をまき散らすスカムな非エレクトロニクス系ノイズも(即興も含めた)演奏という形式へのダダとして見なせる。
しかしダダはどこまで行ってもダダでしかなく、無意味の提示でしかない(それはそれ故にダダである)。その枠外の地点、残骸としてのノイズから、再度音楽の形式を模索すると、エクスペリメンタル・ノイズや実験音楽になる。この観点から行くと、エフェクターをスパゲッティ状に繋ぎ即興的にノイズを垂れ流すハーシュも、その音響構築が高度化するにつれて、意義としてはダダとしてのノイズではなく、音楽としてのノイズに近づく。
話をエルドンに戻すと、エルドンにおけるシンセサイザーの使用は恐ろしく単調で無機質であり、それはノイズ・インダストリアルにおけるダダ/アンチ/無意味/誤使用の実践を思わせる。ピナスの暴力的、サウンドゲリラという形容の発言を(ノイズであることを念頭においての発言ではなかったにせよ)その早過ぎた試みとして解釈するのも一興であろう。そうなってくると実はエルドンの音楽で一番不要なものが、ピナスのロックへの憧憬とクリムゾンへの敬愛がありありと伝わるフリップ的メタリックギターとなってしまうのは、何というか皮肉である。いや、むしろそういった生身の要素が、即物的な電子音に抗いつつ轢き潰されてゆく様を楽しむのが正解なのかもしれない。
エルドンの5-7thは、全てプレ・インダストリアル・ミュージックの傑作である。

河口龍夫 -見えないものと見えるもの- @ 名古屋市美術館


2007/11/2
名古屋市美術館

「河口龍夫 -見えないものと見えるもの-」展の内覧を観に市美術館へ出かける。河口先生の展覧会は、今回は兵庫と名古屋にて同時開催されている。ここ名古屋での展示は、一階が概念に芸術を向かわせる中で、未成の存在を象徴するモチーフとしての種子に着目した作品群。二階が平面作品や、現象における関係性そのものを扱ったインスタレーションで占められていた。なかでも一室を使って設置された「関係—電流・種子のとき、化石の時」が特に良かった。個人的には河口先生の作品の中では観念的/概念的になった作品よりも、こういった現象性を全面に押し出した作品の方が好みである。
また地下では鉄板に巻いた布に錆を浮かび上がらせる綿布と鉄板による平面作品「《関係—質》」シリーズも展示されていた。一日中ここにいても飽きないような、静謐で美しい空間である。偶発的に、またある部分はコントロールされて生成した錆の痕跡は、その背後に潜む自然の諸関係を垣間見せる。
展覧会の会期中、観客の手によって二階吹き抜け部分から一階に落下し続ける種子が、時間の経過とともに堆く山を築くとのことなので、その最後の姿を展覧会終了日に確認したいと思う。
私にとっては河口先生の行って来られた仕事のなかでも、やはり1970年前後の「現代の造形・映像表現」における映像の使用は大きな意味を持っている。あの時期の関西で発生した極めて興味深い美術家の映像の展開において、河口龍夫が果たした意味は大きい。