HELDON – Interface


(Cuneiform, CAPTAIN TRIP/CD)

暴力的なもの、サウンドゲリラとしての表現を行うとリシャール・ピナスは語った。そしてインダストリアル・ノイズとしてのエルドンという解釈を秋田昌美は述べた。確かにエルドンにおけるエレクトロニクスの使用は、機械的な駆動を繰り返すのみである。秋田昌美の指摘通り、ここに当時のジャーマン・エレクトロニクスのような溢れんばかりの電子音の快感はない。単純でプリミティブな電子音の作動。インダストリアル・ミュージックとしてのエレクトロニクスの使用。この音楽は技術的進歩により表現力を獲得し、洗練され音楽化してゆくエレクトロニクス・ミュージックの進歩史観に対するアンチの立場をとっている。電子メディアの無価値な誤用=インダストリアル・ノイズ。ここからEGやSPKへ至る道程は思いのほか近い。
エルドンの面白さは、ゴーチエとピナスによる駆動するアナログシンセサイザーの反復に、人力演奏によるインタープレイが真っ向から対峙するところにある。ピナスによるフリップ的メタリックギターの蠢動とオジェの緻密なドラムが、暴力的エレクトロニクスと衝突する。メタリックなSFテイストのジャケットやタイトルも、サウンドの疾走する無機質な感覚とよく合っている。
ノイズとは何か。それは意味のレベルでは反社会的モチーフの使用による、TGに代表される情報戦略や、GWのような文化的テロリズムである。(そこから反社会的モチーフが本気化してしまうと、所謂犯罪者による音楽となり、最早好事家以外には用を成さない対象物となる)。またノイズをマテリアルである音楽の形式のレベルでの問題としてとらえると、ダダ/アンチ/無意味/誤使用の実践のための方法論として解釈することが出来る。インダストリアル・ノイズは電子音楽におけるダダであり、機械の誤使用の提示である(それと同時に、意図的であろうとなかろうと、表面的には先述の意味のレベルにおいて、工業社会へのアイロニーも身に纏ってしまうこともあるだろう)。同じく狂躁的に転げ回り、雑音をまき散らすスカムな非エレクトロニクス系ノイズも(即興も含めた)演奏という形式へのダダとして見なせる。
しかしダダはどこまで行ってもダダでしかなく、無意味の提示でしかない(それはそれ故にダダである)。その枠外の地点、残骸としてのノイズから、再度音楽の形式を模索すると、エクスペリメンタル・ノイズや実験音楽になる。この観点から行くと、エフェクターをスパゲッティ状に繋ぎ即興的にノイズを垂れ流すハーシュも、その音響構築が高度化するにつれて、意義としてはダダとしてのノイズではなく、音楽としてのノイズに近づく。
話をエルドンに戻すと、エルドンにおけるシンセサイザーの使用は恐ろしく単調で無機質であり、それはノイズ・インダストリアルにおけるダダ/アンチ/無意味/誤使用の実践を思わせる。ピナスの暴力的、サウンドゲリラという形容の発言を(ノイズであることを念頭においての発言ではなかったにせよ)その早過ぎた試みとして解釈するのも一興であろう。そうなってくると実はエルドンの音楽で一番不要なものが、ピナスのロックへの憧憬とクリムゾンへの敬愛がありありと伝わるフリップ的メタリックギターとなってしまうのは、何というか皮肉である。いや、むしろそういった生身の要素が、即物的な電子音に抗いつつ轢き潰されてゆく様を楽しむのが正解なのかもしれない。
エルドンの5-7thは、全てプレ・インダストリアル・ミュージックの傑作である。

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