DEATH IN JUNE – Brown Book: 20th Anniversary Edition


(NER, Nerus/CD x2)

CD1
01. Heilige Tod
02. Touch Defiles
03. Hail! The white grain
04. Runes and Men
05. To drown a Rose
06. Red Dog – Black Dog
07. The Fog of the World
08. We are the Lust
09. Punishment Initiation
10. Brown Book
11. Burn Again
Disc1はLPオリジナルバージョン。Douglas P, Tony Wakeford, Patrick Leagasのオリジナル編成が1985年に解体し、DIJ=Douglas Pとなって以降、「The Wörld Thät Sümmer」に続く1987年の代表的作品である。基本的には幽玄なコーラス(Rose McDowall、David Tibet)を伴った、アコースティックギターによるフォーク楽曲が演奏される。そこに戦時下音源コラージュや不定形な音響、そして最小限の打ち込みのリズムが加えられ、DIJ=Douglas Pでしかあり得ない妄想めいた領域にまで高められた全体主義、共同体への憧憬が展開される。旧東独にて出版されたナチス党員リスト「Brown Book」からタイトルを取った楽曲にてナチス党歌を合唱していることが、あまりにも直接的な表現であったためか、ドイツでは発禁となった。

CD2 (20th Anniversary Edition):
01 Heilige Tod
02 Touch Defiles
03 Hail! The white grain
04 Runes and Men
05 To drown a Rose
06 Red Dog – Black Dog
07 The Fog of the World
08 Europa: The Gates of Heaven And Hell
09 Punishment Initiation
10 Brown Book – Re-read
11 Burn Again
12 Zimmerit
13 Europa: The Gates of Heaven
14 Brown Book
Disc2は改編版となり、印象はオリジナルと比較してかなり異なる。1-7曲目まではオリジナルのままなのであるが、後半はがらりと構成が変更されている。8,9,11曲目はコンピレーション「Abandon Tracks」からのバージョン。10曲目は表題曲の「“The Cathedral of Tears」に収録されたRe-readバージョン(14曲目も同一曲の別テイク)。12,13曲目は「To Drown a Rose」に収録され「The Corn Years」にも再録されたバージョン(ちなみに10曲目と13曲目は同一曲の別テイクである)。この12曲目の憂いを含んだが歌声がとにかく素晴らしく、本構成での一つの山場となっている。14曲目は10曲目と同じく表題曲の「The Cathedral of Tears」に収録されたWhiphand 6 logoバージョン。2曲の「Brown Book」がナチス党歌ではなく、言霊のようなリーディングが浮遊するバージョンの別テイク2曲に差し替え得られているのがDisc1との最大の違いである。

髑髏のシンボルマークが彫られた石製円形ボックスに、パッチと大戦中の兵士の写真が用いられたインサート入り。そのインサート類のなかで、兵士の衣装に身を包んだDouglas Pも彼らに同化し鋭い眼光を放つ。
我々はあまりに希薄化、断片化、記号化した現代の社会空間のなかを漂いながら生きている。そして、この宙吊りの生のなかで、自己の外部に何らかのフレームを欲すること、自己の存在を保証する支えを欲することは当然の欲求である。国家、宗教、思想、民族、歴史、家族、組織といった外部の支え。それらに過度に依存することの危険性は言うまでもないだろう。
強い求心力を持つファシズムの美学に引きつけられながらも、ギリギリのところでそれらをシンボル化されたモチーフとして相対化させようとするDouglas Pの姿勢は、私にとって三島由紀夫に近しいものとしてうつる。

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DEATH IN JUNE – Live in Italy 1999


(Neroz/DVD)

99年イタリアでのライブ。スモークの中に浮かび上がるマスクにて顔を覆った3人。その姿は異様な存在感を放つ。ダグラス・ピアースはヴォーカルと、曲によってはスタンディングドラムも叩く(中盤よりアコースティックギターも)。Der Blutharschのアルビン・ユリウスは主にキーボード担当で、彼も曲によってはスタンディングドラムを叩く。ジョン・マーフィーはパーカッション、スタンディングドラムを専任。何とも豪華極まりない編成。アルビン・ユリウスはこの数年前からDIJのアルバムに参加したり、DIJ周辺人脈との親交を深めており、Der Blutharschの活動へのフィードバックも大きかっただろうと思われる。(80年代ノイズ・インダストリアルと現代欧州ヘヴィーエレクトロニクス。この両者を繋ぐバンドとしてDIJは重要なポジションに位置する気がする。)
前半はギターを用いない選曲で、バックトラックにキーボードと行進曲のようなミリタリードラム連打とヴォーカルが加わる演奏。ひたすら重々しい荘厳な展開。ダグラス・ピアースの白仮面と迷彩服という出で立ちから、ある種、宗教儀式的な印象も受ける。そして中盤にてダグラス・ピアースが白仮面を外し、アコースティックギターを抱え「Little Black Angel」を奏で出し、ここで空気ががらりと変わる。窓が開け放たれ、澄んだ風が吹き抜けるように。しかしその音楽の持つ感触は変わらない。終末を前にして歌われる哀歌のようなフォークソング。それは明るく、軽快で、勇ましく、寂しい。繊細で味わい深いネオフォークが次々と繰り出される至福の選曲が続く。そして最後は唸りを上げる手回しサイレンにミリタリードラム連打にてステージを締めくくる。虚無、全体主義、同胞愛、ファシズム、ペイガニズム、ミリタリー嗜好等々、それらのような記号が渾然一体となったライブである。
さらにクロアチアで催されたレイヴパーティーのPVも収録。この曲ではダグラス・ピアースのヴォイスが使用されている。こういうレイヴカルチャーにゴシック〜ダークウェーブ〜インダストリアルが繋がる流れはあまりよく知らないので、どういう経緯でこうなったのかは分からないが、レイヴカルチャーのただれた退廃的雰囲気にその声が奇妙にマッチしている。

牧野貴 – Elements of Nothing


(Film→Video, 20min, 2007)

本作はスチルを撮影した35mmフィルムを素材とし、フレームの区切りが生じないように工夫して再撮影。次にそれらをテレシネし、DTV環境にて編集された。今日であれば画像処理にて、本作品と類似した処理結果を得ることは充分可能である。しかしなぜそこで作家は一次素材をフィルムにて準備する必要があったのか。それは実験映画、特に構造映画が映画/映像ではなく、むしろ現代美術や造形芸術に近いことを明確に示している。
例えば絵画はスキャンされ静止画像のデータとなってしまえば、過程において特定のメディウムにて制作されたことを示す証拠を喪失する(作家以外、誰一人としてスキャン後のデジタル処理がなかったと証明することができない)。そして結果のみを鑑賞の全経験として受け取るのであれば、制作プロセスなどは全く無意味なものとなる。実際、今日のコンピュータグラフィックスや画像処理で制作された映像への一般的な評価はこの価値基準に依っている。そこで重要なのは、「どんな視覚的な結果が得られたのか」のみだ。これは映像を現実の延長と見なさず、現実から切断された表象として見なす態度である。もともとコンピュータグラフィックスや画像処理は情報空間にて制作されるものであるから、映像を現実から切断された表象として見なす態度は極めて正しい。
しかし、現代美術や造形芸術の領域ではコンセプトや特定メディウムによる制作プロセスを含めた形で、作品は観客の眼前にプレゼンテーションされる。結果としての作品の視覚的印象のみが抽出された形で評価されることはありえない。このポジションに映像や写真を持ち込むのであれば、光学的、あるいは電子的な結果としての映像は常に被写体や制作プロセスへのインデックスとして機能する。
話はそれるが、一般論として多くの実験映画、特に構造映画の多くが、現代美術や造形芸術に近いポジションにて制作されながらも、典型的な映画の上映システム(暗闇における映写機=スクリーン=観客の関係)にて発表を行っていることに対して、個人的に若干疑問が残る。観客はそんなに利口ではなく、スクリーン上の映像のみから、コンセプトや特定メディウムによる制作プロセスへの理解に至ることなど期待できない。実験映画の制作者は、コンセプトや特定メディウムによる制作プロセスに自らがこだわったのであれば、それと同程度に、観客にコンセプトや特定メディウムによる制作プロセスについて理解させることを考慮せねばならない(上映会の口頭での説明や、リーフレットの配布でもいいだろう)。もちろんテクストとしての作品は、多様な読解に向けて外部に開かれているが、それは最低限提示すべき情報を観客に提供してからの話である。
牧野貴の作品では、常に明確な輪郭をとる以前のイメージが、霧散するか生成するかの境界線上の状態で観客に向けて提供される。そこから観客はイメージを自らの経験において掴み取ってゆく(あるいは掴み取らないという選択もあり得る)。視覚的な抽象映画とは方向が異なるのだ。本作品も冒頭で述べた手の込んだ制作プロセスによって、映画における全フレームが一つのフレームに解け合わされており、木々から漏れる細かな光が明確な輪郭を綻ばせながら、ホワイトノイズのような激しい混沌へと到達させられている。ここに織り込められたイメージは判別不能なまでに複雑に編み合わされており、観客が経験の中から掴み上げるであろうイメージは豊潤な状態に保たれている。
しかし、そこには一つだけ無視できない仕組みが用意されている。明確な輪郭を綻ばせた混沌としたイメージというものは、あっさりと原初的イメージとして神秘化/オカルト化、あるいは内面世界化するいという危険性をはらんでいる(サイケデリック方面に傾倒した抽象映画や、晩年のブラッケージのように)。または単純な視覚的刺激に還元し消費されるという危険性もはらんでいる。そのような陳腐な受容に転落しないためには、要としてのインデックスが必要なのである。どんなに加工変調による制作プロセスを経ようとも、映像が最後まで被写体や制作プロセスへのインデックスを持ち続けることが重要なのである。彼はその点について慎重であり、前作における水面における反射光の煌めき、本作における木漏れ陽といった現実のイメージは、輪郭を失ったイメージ以前の状態にまで延長されているが、その一方でその映像に現実の被写体が存在すること、現実のインデックスであることを忘れさせない。この両極性、すなわち現実へのインデックスと、輪郭を失ったイメージ以前の状態にあるイメージの齟齬こそが彼の作品に存在する仕掛けなのである。本作での齟齬の度合いは極めて高く、もう一歩踏み込めばそれは完全にインデックスを欠いた混沌になってしまうだろう。本作はこの仕掛けが機能するギリギリの許容値に達していると言える。
また本作も音楽はジム・オルークが担当しており、映像における現実から延長されたイメージの混沌に相応しい、マテリアルとしての音が音楽との狭間で揺らめく楽曲を提供している。

若松孝二 – 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程


(Film, 190min, 2007)

寒空のなか、早朝から名駅裏のシネマスコーレへ行く。目的はもちろん若松孝二「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を観るため。少々眠かったのだが、映画が始まってみれば目が醒め、どんどん引き込まれる。
実録というだけあり、字幕での解説やナレーションが随所で入る。全体としては群像劇なので、誰が主役という訳ではないのだが、冒頭パートでは遠山美枝子の視点に、山岳ベースのパート以降では加藤兄弟三男の視点に重心がおかれている。もっと監督の思い入れが前面に出された映画になるかと思っていたが、即物的な事実の描写と個人の視点を重視した映画となっていた(台詞も赤軍兵士の手記に基づいているようだ)。特に山岳ベースのパート以降の閉塞した空間においての展開は即物的であり、不合理な死がどんどん投げつけられてくる。この異様な加速感のまま、あさま山荘での銃撃戦のパートとなり、ラストでの加藤兄弟三男の視点にこの群像劇は収斂されてゆく。そして再びインパクトを与えるタイミングで記録映像の引用が行われ、その後の赤軍の動向が年譜として示される(足立正生の名前もそこにある)。同時代性と予感を感じさせながら、映画が現実と地続きとなる感覚。これぞ若松作品の特権である。未見の方も是非観て欲しい。
音楽についても述べておくと、オルークはごくごく普通の映画音楽をやっていた。この点に関しては残念。またバーのシーンでは「天使の恍惚」の挿入曲も引用されていた。