牧野貴 – Elements of Nothing


(Film→Video, 20min, 2007)

本作はスチルを撮影した35mmフィルムを素材とし、フレームの区切りが生じないように工夫して再撮影。次にそれらをテレシネし、DTV環境にて編集された。今日であれば画像処理にて、本作品と類似した処理結果を得ることは充分可能である。しかしなぜそこで作家は一次素材をフィルムにて準備する必要があったのか。それは実験映画、特に構造映画が映画/映像ではなく、むしろ現代美術や造形芸術に近いことを明確に示している。
例えば絵画はスキャンされ静止画像のデータとなってしまえば、過程において特定のメディウムにて制作されたことを示す証拠を喪失する(作家以外、誰一人としてスキャン後のデジタル処理がなかったと証明することができない)。そして結果のみを鑑賞の全経験として受け取るのであれば、制作プロセスなどは全く無意味なものとなる。実際、今日のコンピュータグラフィックスや画像処理で制作された映像への一般的な評価はこの価値基準に依っている。そこで重要なのは、「どんな視覚的な結果が得られたのか」のみだ。これは映像を現実の延長と見なさず、現実から切断された表象として見なす態度である。もともとコンピュータグラフィックスや画像処理は情報空間にて制作されるものであるから、映像を現実から切断された表象として見なす態度は極めて正しい。
しかし、現代美術や造形芸術の領域ではコンセプトや特定メディウムによる制作プロセスを含めた形で、作品は観客の眼前にプレゼンテーションされる。結果としての作品の視覚的印象のみが抽出された形で評価されることはありえない。このポジションに映像や写真を持ち込むのであれば、光学的、あるいは電子的な結果としての映像は常に被写体や制作プロセスへのインデックスとして機能する。
話はそれるが、一般論として多くの実験映画、特に構造映画の多くが、現代美術や造形芸術に近いポジションにて制作されながらも、典型的な映画の上映システム(暗闇における映写機=スクリーン=観客の関係)にて発表を行っていることに対して、個人的に若干疑問が残る。観客はそんなに利口ではなく、スクリーン上の映像のみから、コンセプトや特定メディウムによる制作プロセスへの理解に至ることなど期待できない。実験映画の制作者は、コンセプトや特定メディウムによる制作プロセスに自らがこだわったのであれば、それと同程度に、観客にコンセプトや特定メディウムによる制作プロセスについて理解させることを考慮せねばならない(上映会の口頭での説明や、リーフレットの配布でもいいだろう)。もちろんテクストとしての作品は、多様な読解に向けて外部に開かれているが、それは最低限提示すべき情報を観客に提供してからの話である。
牧野貴の作品では、常に明確な輪郭をとる以前のイメージが、霧散するか生成するかの境界線上の状態で観客に向けて提供される。そこから観客はイメージを自らの経験において掴み取ってゆく(あるいは掴み取らないという選択もあり得る)。視覚的な抽象映画とは方向が異なるのだ。本作品も冒頭で述べた手の込んだ制作プロセスによって、映画における全フレームが一つのフレームに解け合わされており、木々から漏れる細かな光が明確な輪郭を綻ばせながら、ホワイトノイズのような激しい混沌へと到達させられている。ここに織り込められたイメージは判別不能なまでに複雑に編み合わされており、観客が経験の中から掴み上げるであろうイメージは豊潤な状態に保たれている。
しかし、そこには一つだけ無視できない仕組みが用意されている。明確な輪郭を綻ばせた混沌としたイメージというものは、あっさりと原初的イメージとして神秘化/オカルト化、あるいは内面世界化するいという危険性をはらんでいる(サイケデリック方面に傾倒した抽象映画や、晩年のブラッケージのように)。または単純な視覚的刺激に還元し消費されるという危険性もはらんでいる。そのような陳腐な受容に転落しないためには、要としてのインデックスが必要なのである。どんなに加工変調による制作プロセスを経ようとも、映像が最後まで被写体や制作プロセスへのインデックスを持ち続けることが重要なのである。彼はその点について慎重であり、前作における水面における反射光の煌めき、本作における木漏れ陽といった現実のイメージは、輪郭を失ったイメージ以前の状態にまで延長されているが、その一方でその映像に現実の被写体が存在すること、現実のインデックスであることを忘れさせない。この両極性、すなわち現実へのインデックスと、輪郭を失ったイメージ以前の状態にあるイメージの齟齬こそが彼の作品に存在する仕掛けなのである。本作での齟齬の度合いは極めて高く、もう一歩踏み込めばそれは完全にインデックスを欠いた混沌になってしまうだろう。本作はこの仕掛けが機能するギリギリの許容値に達していると言える。
また本作も音楽はジム・オルークが担当しており、映像における現実から延長されたイメージの混沌に相応しい、マテリアルとしての音が音楽との狭間で揺らめく楽曲を提供している。

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