Of The Wand And The Moon – Sonnenheim


(Heidrunar Myrkrunar/CD)

軽やかで美しいDIJ直系のアコースティックギターの演奏に、穏やかに呟くようなヴォーカル。空高く掲げられ、風にたなびくジャケットのモニュメントのように、気高く天を仰ぐようにして歌われるパガン・ネオフォーク。このOTWATMは Kim Larsenによるユニットであり、本作ではForsetiのA.Ritterもヴォーカル、アコーディオンで参加している。A.Ritterの奏でる美しいアコーディオン音の皮膜は、俗世から演奏の場を聖別するかのようにして包み込む。このユニットの持つ親しみやすい普遍的な感触は、国歌や民謡のように、昔から民衆に歌い継がれてきた楽曲を思わせる。シングルで先行した「My Black Fate」(タイトルがちょっと変えられている)、「Hail Hail Hail」も収録。印象的なジャケット写真もKim Larsenによるもの。ルーン文字がエンボスされ、金色の印刷が施された美麗なアートワークも、自分達の民族的ルーツを尊重しようとする想いに満ち満ちている。民族主義、復古主義を誘導する文化装置としての音楽。それは、ある社会的機能を果たすと同時に、ある危うさも孕むものだろう。

VA – 幻野 幻の野は現出したか~’71日本幻野祭 三里塚で祭れ


(FLYING PUBLISHERS/CD x2, DVD)

二枚組LPのCD化に、ドキュメンタリーDVD(監督:青池憲司)も付属したBOX仕様。CDは三里塚にて、1971年8月14、15、16日にかけて行われた「’71日本幻夜祭〜三里塚で祭れ」における初日日没から深夜にかけての録音である。
全共闘の闘争が終息し行く時期(すでに小川紳介は三里塚シリーズに取り組んでいる)における状況の変化。録音の中でもこの状況は、一元的には解決し得ない問題として浮かび上がっている。
演奏を中断させる、主催者である青年行動隊と他セクトとの激しい論争。皆がひとつの考えを共有することの困難さを感じさせるが、そもそも何のために個が連帯せなければならないのだろうか。その問いは祭り/革命の主体は誰なのかという問題に突き当たる。
張りつめた緊張感。参加者らの齟齬は論争の中で先鋭化するが、しかしそれはロックの演奏になると一旦中断する。この現象は終盤の頭脳警察の「銃をとれ」での一体感へと繋がる。しかし極々個人的な感想ながら、この一体感、共同幻想は分かり易すぎて危うい。舞台に上がって民謡を歌いはじめる婦人行動隊や太鼓の演奏も、このような一体感の別の現われである。また「ゼロ次元」の全裸パフォーマンスなどの混沌とした状況も、それ自体が祭りの中にフレームされてしまうと、とたんに共同幻想のなかで、ひとつの個性として回収されてしまう。
本盤の白眉は「世界革命戦争宣言」から「銃をとれ」のアンコールに至る流れと、それを切断するロストアラーフ(灰野敬二)の演奏であるが、ロストアラーフの他にも高柳昌行ニューディレクションや阿部薫(彼のここでの録音は残されていない)などは、異物として、即興演奏によって「個が個であること」を突きつけてくる。和解することのない鋭い対立としての演奏である。主催者の思惑は分からないが、出演者に(当時の呼び方で言うところの)ニュージャズを組み込んだこと、それによって生まれた拒否の持つ意味は、極めて大きい。

David Tudor, John Cage – Rainforest Version II, Mureau


(New World Records/CD×2)

1972年に行われたチュードアによる「Rainforest Version2」とケージによる「Mureau」の、作曲家本人による同時演奏。要するにチュードアのライブ・エレクトロニクスに、ケージのヴォイス・パフォーマンス(というか鼻歌)が同時進行するという鬼のような内容である。
ここでケージはあらかじめ吹込んでおいたテープも使用している。チュードアの放つ電子音は相変わらず冷たく硬質であり、ケージのことなど全く無視して断続的に演奏する。対するケージも淡々と演奏を行う。この噛み合わなさが堪らない格好良さを生み出す。しかも CD2枚に渡ってコレである。このような同時演奏は、楽曲が非楽音や偶然性を取り込むことによって可能となった演奏形式であると言える。この演奏のなかで貫徹されている非同一性、複数性とは、当時の芸術全般にみられたインターメディアの核心であった。

David Tudor – Rainforest


(mode/CD)

「Rainforest Version1」と「Version4」を収録。ちなみに「Version 1」はマースカニングハム舞踏団の為の小杉武久参加の音源。所狭しと吊り下げられたオブジェ、日用品に取り付けられた小型スピーカーとマイク。オブジェを介在させることによって、音を物自体の構造で変調させるというコンセプトである。
こうして発された、細やかな熱帯雨林の環境音のような電子音が縺れ合い、絡み合う。束になりながら蠢き、捻りあげられ悲鳴をあげる電子音の群れは、時として奇妙なメロディのように聴こえてくる。本来であればインスタレーション的な演奏にて体験すべき作品であるが、こうして一枚の盤として、音のみを聴いても非常に良い。特に「Version 1」は時間の経過と共に電子音の密度は上がってゆき、ハーシュノイズの領域へと至る。

EARTH – Earth2


(Sub Pop/CD)

グランジの変異体であり、全く一般性を持たない様な音楽ながら、所属レーベルと、1stでの有名ミュージシャンの参加のため、案外よく知られているEarth。ドラムレス(メンバーはギターとベースのみ。一部でパーカッションは入る)という特異な編成で、殆どドローン化したような、引きずる様なストーナー/ドゥームを演奏する。バンド名からも分かるように初期Black Sabbathの影響色濃く、あの重い音楽性をさらにスロー化したサウンドである。「special low frequency version」との言葉通り、重さと遅さを極端化させるなかで、ドラムとヴォーカルを排し、ギターとベースのみによるインストを選択した彼らは、やはりユニークだ。またストーナー系列のバンドの持つ60~70年代ロック嗜好(特に歌い方)が肌に合わない自分としては、このEarthのインストは丁度いい。
ところで、いわゆるノイズのドローンものと、ストーナー/ドゥーム、スラッジのドローンものの最大の違いは、ロック的あるいはハードコア的な意味でのバンド演奏に留まっているか否かだと思う(ドローンそのものを演奏すること、即ちノイズ/実験音楽の領域に踏み込んでしまえば、やはりMirrorや永久音楽劇場の方が音響として高内容である)。
本作でのEarthは、なんとかロック的あるいはハードコア的な意味でのバンド演奏の領域に踏みとどまる。ギリギリのところでリフを繰り返し、ノイズ/実験音楽の領域に接近しながらも、安易にドローン化することを回避している(安易にドローン化してしまっては平凡な垂れ流しノイズと同じレベルになってしまう)。このように、ロックあるいはハードコアとして異物であり、ノイズ/実験音楽としても異物であること。ここがEarthの素晴らしいところだ(ちなみにEarthはAshのコンピ「Scatter」にも参加していたが、他のノイズ作家の音源と比較すれば、根底にあるものの違いは容易に分かろうかと思う)。
Earthは次作以降、音楽的な色気を出してしまうのだが、彼らが真価を発揮したのは、間違いなく本作においてであろう。

SLEEP – Dopesmoker


(Tee Pee/CD)

ストーナー/ドゥームという音楽形式に私が興味を覚えるのは、楽曲よりも音の質感に重きをおき、聴き手に陶酔を与えることを目的化しているが故である。これらの音楽形式をとるバンドらは最初期Black Sabbathのいかがわしさと、粗雑さと、重さを継承し、それを極端化させる。この極端化の果てが2003年の名作「Dopesmoker」である(本作は1996年に録音されるが、発表されないままにバンドは解散。1999年には短縮版が「Jerusalem」としてリリースされた)。
この作品の何がそんなに極端なのかと言えば、タイトル曲が約一時間にも及び、しかもそれがただひとつのリフによって成り立っているところである。この長時間反復されるリフは、単調さを感じさせることなく、揺らぎを持って万華鏡的な変容を続ける。またドラムの手数が多くフリーキーであることも、単調さを感じさせない理由であろう。微細な演奏のバリエーションはあっても、それは堂々巡りの果てに、もとの地点に戻ってくる。組曲的な展開ではなく、ただひとつの要素が一時間の長さに拡大されているのだ。
この形式はミニマルテクノ、(ある種の)ダブ、ハーシュノイズ、ドローンによく似ている。コンポジションではなく、サウンドの質感が優先されているのだ。そして、ここで重視される質感とはストーナー/ドゥーム、スラッジにとって重要な要素である「重たさ」に他ならない。この重音圧による麻痺にも似た恍惚の感覚と、先述の拡大された堂々巡りによる催眠的効果の相乗効果がこの音楽のコアである。油断して聴く者は、この恍惚的催眠に簡単にはめ込まれてしまうだろう。本作は私にとって最高のアンビエントであり、鎮静剤である。
ちなみに歌詞は、タイトル通り「ストーナー・キャラヴァンが聖地エルサレムを目指す」という奇妙かつ妄想的なもの。夢見る身体は現実世界に留まるが、意識は拡大されてゆき、ストーナー・キャラヴァンは精神世界の奥底へと旅を続ける。終わりのない、精神世界の奥底への旅を。これが何の隠喩なのかは明白だ。
まるでBlack Sabbathの様なボーナストラックも一曲収録。

メディアアートの世界 実験映像1960−2007

メディアアートの世界
実験映像1960−2007

編:伊奈新祐
著:松本俊夫、飯村隆彦、かわなかのぶひろ、阪本裕文、栗田安朗、米正万也、赤山仁、平野砂峰旅、中村滋延、相内啓司、伊奈新祐
発行:国書刊行会
定価 2310円(税込)
A5判・並製
ISBN978-4-336-04989-6
Amazon

テキスト一本(初期ビデオアート再考カタログ掲載のテキストに加筆したもの)、および巻末の年譜資料を担当しました。
よろしくお願いします。

追記:年譜資料内に誤植、訂正がありました。申し訳ありません。
VI 1957年6月 第一次「映画批評」(映画批評社)創刊 編集長を柏三平が務める→第一次「映画批評」(映画批評社)創刊 編集長を粕三平が務める
VII 1958年 – 「映画批評」編集長である柏三平により→「映画批評」編集長である粕三平により(以下同文)
IX 1963年4月 黒木和雄の記録映画『あるマラソンランナーの記録』を巡って作家と制作会社の間で衝突が起き、その衝突は政治的なものに発展する→削除
X 1964年4月 黒木和雄の記録映画『あるマラソンランナーの記録』を巡って作家と制作会社の間で衝突が起き、その衝突は政治的なものに発展する→1964年3月(以下同文)
XVI 1971年2月 飯村隆彦がテレビゲームと→飯村隆彦がテレビームと(以下同文)
XXVII 田中雄二『電子音楽 in JAPAN』(アスベスト、2001年)→田中雄二『電子音楽 in JAPAN』(アスペクト、2001年)