性と文化の革命展

シネマテークにて「性と文化の革命展」と題された特集上映があり、未見であった岡部道男「クレイジーラブ」を観た。

岡部道男 – クレイジーラブ
(Film, 90min, 1968)
当時のアンダーグラウンド文化オールスターといえるキャストが凄まじい、明確なストーリーのない長編作品。新宿のフーテンも多数出演。パートカラーにて、サウンドは当時のロックの楽曲を多数引用。こう書くとドキュメンタリータッチでアングラ文化を描いたフィルムかと思えるが、内容は割と作り込まれたもので、今で言うPVのようでもある(ただし編集は意図してメチャクチャな形式をとっている)。出演者らの寸劇(台詞等は殆どない)や、ゼロ次元による意味不明なハプニングや、写真の引用によるコラージュが延々と続く。意外と美人な宮井陸郎の女装や、リヤカーを引く佐藤重臣の、楽しげな、しかし意味不明なダンスが強烈に印象に残る。60年代後半のアングラ文化には、やや複雑な印象を持っている私だが、このフィルムに関しては好感が持てた。このフィルムが上映されること自体がひとつのハプニングであり、日常に対する祭りの性格を持っているように感じられたからである。
もちろん私は当時のアングラ文化が、社会に対するポジティヴな異議申し立て、対抗文化であった側面は評価している。しかし後から見ると、この対抗文化をファッションとして消費する、或は消費されていた側面もあったのではないかと感じてしまう。それは70年以降の金坂健二らの失速にもつながる。

土本典昭の世界1

名古屋シネマテークに「土本典昭の世界」を観に行った。ビデオで持っている作品もあるが、この日は下記2作品を鑑賞。簡単にメモ的感想を。

土本典昭 – ある機関助士
(Film, 37min, 1963)
国鉄のPR映画として制作されたという作品。カラー、非同録。勇壮なSLの走行シーンからはじまり、なかなかダイナミックなショットが続く。そして機関士らの訓練、実際の業務が説明されてゆく。その業務の厳しさの表現に、監督の政治的スタンスの微かな発露を見て取ることも出来る。しかし構成が巧みなため、それを気にせずともどんどん機関士の世界にのめりこんでゆくことが出来た。

土本典昭 – ドキュメント 路上
(1964, 54min)
撮影は鈴木達夫。警視庁の協力のもと、交通安全映画として制作された。モノクロ、非同録。ドキュメンタリーではあるが、それはノンフィクションであることを意味しない(全てのドキュメンタリーがそうだ)。タクシー運転手の日常を家庭、職場、業務のなかから浮かび上がらせる。劇映画的なストーリー構成(ラストは業務中の事故と、その後日の事故への注意を促すタクシー会社経営者の朝礼で終わる)をとっている。モンタージュの巧みさと、鈴木達夫の厳密に構成されたカメラワークは、素晴らしいクオリティである。
しかし、このような視点で見る必要はないのかもしれないが、政治的なスタンスから観れば政治的動機の根拠が実際の状況と乖離しているようにも感じられる。ここで描かれた抑圧されるタクシー乗務員の日常は現実のそれと同じであったのだろうかと。ここから水俣シリーズへ向かい、自らを抑圧される者のなかに置いてゆく土本典昭の道程は、一本の線でつながっている。

Mark Fry – Dreaming with Alice


(Arkama/CD)

休日の昼下がりに聴きたい現実逃避盤。72年リリースの平和過ぎる儚いアシッドフォーク。このマーク・フライなる人物の詳細は不明であるが、スタイルとしてはニック・ドレイクにも似た穏やかなアコギによるアシッドフォークをやっている。コーラスやフルートによるアレンジも派手過ぎず良い案配で、インド趣味に傾倒したかのようなシタールっぽいギターが絶妙な「Witch」、壊れそうなコーラスが愛おしい「Lute and Flute」が特に良い。
アルバムとしてのコンセプトも練られており、曲間をテーマ曲「Dreaming with Alice」で繋ぎながら、トータルな展開のなかで白昼夢的アシッド感覚を見事に表現している。何度も何度もフラッシュバックする「Dreaming with Alice」の断片に堂々巡りの酩酊感が増幅され、どんどん有り得ない蒸留された非現実的理想世界へと聴き手を迷い込ませる。
そしてラストは収録曲(「Song For Wild」か?)の逆回転という、向こう側へ行ってしまった確信犯的大技で締める。聴き手を酩酊させるその手腕があまりに見事過ぎる。陽光降り注ぐ平穏な世界から(Heronと同じく)日常に帰って来れなくなる危険性を孕んでいる。来週からの勤労意欲が間違いなく減退します。

makinokino.exblog.jp

映像作家である牧野貴氏がブログを開設されました。ロッテルダム国際映画祭2008にて作品が上映されるなど、その旺盛な活動は注目に値します。狭義のカテゴリー内にて伝統化しかねない状況にある「実験映画」に対して正面から向き合う、信頼に足るフィルムメーカーであると思う。
http://makinokino.exblog.jp/

「土本典昭の世界」

3/15より、名古屋シネマテークにて、土本典昭特集上映「土本典昭の世界」が開催される。未見の作品もあるので、とても楽しみだ。以下、名古屋シネマテークのサイトより転載。

「土本典昭の世界」
○土本典昭 1928年岐阜県土岐市生まれ。岩波映画製作所を経て、’63年『ある機関助士』(37分)でデビュー。国鉄のPR映画にもかかわらず、機関士達の労働の過酷さが前面に出た秀作として注目を集める(C62の運転席を撮った迫真の映像には、SL映画の最高傑作との声も多い)。東京のタクシー運転手の労働実態に目を向けた『ドキュメント路上』(54分)を経て、’69年、全共闘運動の関西の雄・滝田修の活動を追った『パルチザン前史』(120分)を発表。滝田が後に指名手配され逃亡生活に入ったこともあって、ある時代を象徴する傑作として後世に残るものとなった。
’71年、水俣病を世界に知らしめた『水俣─患者さんとその世界─』(167分)を発表。第一回世界環境映画祭グランプリを得た本作を契機に、土本はドキュメンタリー映画作家として長く、そして深く水俣と向き合うことになる。チッソ本社で直接交渉に臨む患者達を追った『水俣一揆─一生を問う人びと─』(108分)に続き、水俣病の医学における研究史と今日に残された課題を検証する画期的作品『医学としての水俣病─三部作─』(全276分)を発表。’75年の『不知火海』(153分)では終わらない水俣病の苦悩と、水銀に侵されながらも再び命を宿して再生していく自然界の豊穣さを織り込んで、連作中のピークを成す。’81年『水俣の図・物語』(111分)では丸木位里・俊夫妻の創作を追い、石牟礼道子の詩、武満徹の音楽とのコラボレーションを試みた。以後、原子力発電所の脅威に警鐘を鳴らした『原発切抜帖』(45分)、『海盗り─下北半島・浜関根─』(103分)、富山妙子の詩と画をモチーフにした『はじけ鳳仙花─わが筑豊、わが朝鮮─』(48分)を発表し、’89年には、アフガニスタンで撮影した『よみがえれカレーズ』(116分)を世に問う。新作は『みなまた日記─甦える魂を訪ねて』(100分)。
●映画は生きものの記録である 土本典昭の仕事 ’04年、再び水俣を訪ねた土本の旅に同行し、その偉大な足跡をふり返りつつ、土本と水俣の現在をとらえた、藤原敏史監督の秀作。94分。
http://cineaste.jp/l/1700/1734.htm

FAUST – So Far


(Polydor/LP)

Faustの音楽には、例えるならキラキラした甘そうな菓子を口に含んでみると、それは実は無機的なプラスチックの模造品であった、というような感覚がある。どこか既視感を感じるポップな音楽であるが、この離人症的な現実感のなさ、空虚感こそがFaustの魅力である。
これら楽曲は寄せ集めのつぎはぎで構成され、音楽を盛り上げようという表現への欲求が完璧に欠落しているかのように感じられる。本作はヴュンメにおける、廃校での共同生活時代に制作されたものであるので、同じくこの時期に制作された1stの対となる。
1stは緻密なコラージュによる分裂症的構成であり、編集と音響工作を前提とする、後のThis Heatや音響派の試みを先取りするものであった。それに対し本作は音楽が、一応ポップな楽曲として成り立っている(ただし、極めて歪なかたちで)。これを一言で言い表すなら、「悪意ある間違い」であろうか。それは冒頭曲「It’s a Rainy Day, Sunshine Girl」にもよく現れている。高揚感もなく、曲の始まりから終わりまで単調に刻まれるリズム。やけに軽くかき鳴らされるギター。やる気のないタイトルの連呼。まったく間違いだらけの異様なポップスである。
1stはその編集と音響工作により、音楽形式としてはアヴァンギャルドな形式をとっていた。それに対して本作の音楽形式はアヴァンギャルドとは(一見したところ)程遠い。だが、その表面的な取っ付きやすさには、音楽に期待されるものをことごとく脱臼させてゆく、巧妙かつ場違いな要素が組み込まれ、配置されている。この手さばきは、1stの分裂症的コラージュと同じものである。
あるべきように構成されているはずのものが、ニヒリズムあるいは悪意ある罠によって脱臼される。そしてリスナーはそれに触れるとき、自明のものとしてとらえていた世界が、薄い皮膜一枚で成り立っているに過ぎないと気が付く。そして皮膜を隔てた向こう側には、昨日まで知っていたはずの「世界」によく似た歪な「世界’」がある。そこで生じる現実感のなさと空虚感(これぞ「廃墟と青空」の感覚である)。Faustの悪意とはこのようなものだ。