フィルムとビデオ

自前で購入した中古のBolex H16がようやく届いた。レンズはAngenieuxでとても奇麗。これで私物のシネカメラは五台となった。シングル8はP300一台と518SVが二台。ダブル8はBolex H8が一台。そして16mmがBolex H16だ。あとはスチルでF3も一台持っている。やっぱりフィルムは金もかかるし、手間もかかるが面白い。
面白いとは言ったものの、それは「アナログはデジタルに比べて暖かみがある」とか「撮影者の思いが込められる」とかいったアナログ機材へのオカルト的信仰という意味においてではない。
ビデオとフィルムは決定的に異なる制作プロセスを持ったメディアであり、新旧や優劣によって価値を決めることなどは出来ない。いくらビデオに画像処理を加えたり、フィルムライクな画質を持たせても、フィルムの制作プロセスがもたらす限界は模倣できない。特に実験映画においては、機能に限界があること、不可能性があることが逆にそのメディアの個性となり、可能性となるのだ。例えば構造映画をデジタルで様式的に模倣したところで、そんなものには何の意味もないだろう。これは実験映画が(そして初期のビデオアートが)、“制作プロセスそのもの”を作品が成立するうえでの不可欠な構成要素として見なしているということだ。この考え方はモダニズム芸術のそれと同質のものである。そこに芸術の形態・形式と、テクノロジーやメディアの特性が交錯する緊張感ある関係の場が生まれる。(このあたりのことは「初期ビデオアート再考」カタログ内の、松本俊夫インタビューで言及しているので、一読を。)
一方、デジタル時代のビデオ映像においては、あらゆる映像が結果として記号的な表象となり、過程(制作プロセス)から切り離されている。コンピュータに飲み込まれたビデオ映像は全てがシミュラークルとなった。そこでは多くの場合、制作プロセスは作品コンセプトに含まれない。私がCGやモーショングラフィックスを観ても、いまいち感銘を受けないのは、それが記号的な表象の羅列にしか感じられないからである(技術的側面での関心は強くある)。なんだかんだ言って、自分は未だにモダニストだなと思う。(ただし、デジタル時代のビデオ映像であっても、作品を鑑賞するうえで何らかのインタラクションがそこ含まれていれば話は別だが。)
話しが逸れたが、さて何を撮ろうか。

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