Extreme The Dojo Vol.20 Special @ 名古屋 クラブクアトロ

AT THE GATES, DILLINGER ESCAPE PLAN, MAYHEM, PIG DESTROYER, INTO ETERNITY
2008/5/9
名古屋 クラブクアトロ

職場の仕事が長引いて到着が遅れてしまい、二番手のPIG DESTROYERから観る。PIG DESTROYERは元AxCxのScott Hullを含むベースレスのバンド編成にノイズ担当メンバーが加わる変則的グラインドコアで、とても奇妙であった。

MAYHEM:
このバンドがなければブラックメタルがその後の文脈を獲得することもなかった。今回の来日はAttila(vo)、Hellhamer(dr)、Blasphemer(g)、Necrotcher(b)という編成(Blasphemerはすでに脱退を表明している)。このメンバーのうちAttila、Hellhamerは「De Mysteriis Dom Sathanas」の録音に参加している。「De Mysteriis Dom Sathanas」はEuronymousの遺作であり、直後に彼を殺害するVargも演奏に参加したという、MAYHEMにとっても、そしてブラックメタル界全体にとっても象徴的な作品だった。この二人が眼前で演奏しているということ、それはブラックメタルが象徴、言葉のレベルに留まらず、文化的社会空間を具体的行動によって喰い破った、あの時代を幻視させる。Attilaは顔面まで覆った黒尽くめのアラビアの民族衣装のような姿で、シアトリカルなパフォーマンスを交えながら叫ぶ。このパフォーマンスがブラックメタルらしいのかといえば、実はかなり個性的な部類に入るのではないかと思う。それでも「De Mysteriis Dom Sathanas」の「Freezing Moon」が演奏されれば、そこにはブラックメタル以外の何ものでもない世界、圧倒的な象徴性を伴った音楽が出現する。そう、「音楽」なのだ。今の彼らのやっていることは、どこまで行っても「音楽」でしかない。
Euronymousの死により、かつてのような具体的行動(たとえ若者の暴走だったとしても、それはある種の政治性を持つものである)を採用せず、音楽的手段を選択したのだとすれば、それはそれで認められるべき方法論だ。彼らは行動を経てその方法論へと達したのであり、その過程は無視できない。その存在を確認するという義務を果たせたので、とても満足している。

DILLINGER ESCAPE PLAN:
名前は知っていたが、不勉強で作品を聴いたことすらなかった。ただライブ映像は見たことがあり、随分ハイテンションなカオティックハードコアだなという印象があった程度だが、実際観て驚いた。精密機械のような、しかし複雑に骨折したポンコツが、高速動作するような演奏。身体能力の高そうなメンバーらは、メチャクチャに暴れ回りながらも演奏をこなす。ボーカルはスピーカーをよじ上って天井に逆さまにぶら下がり、ギター二人はステージで飛び回るのに飽き足らずフロアにおりて、肘掛けテーブルの上に立ち、移動しながら演奏を続ける。観客もダイブを繰り返す。そのバカバカしいまでの技術力と終始ハイテンションの勢いには笑うしかない。
全然タイプは違うが、まるで山塚吉川時代のボアダムズがグラインドコアをやったかのようなパフォーマンスだと思った。脱力するようなとぼけた部分と高速グラインドの部分が激しく精密に切り替わる。その要素の多さがどこかプログレのようでもあり、じっくり聴ける音楽として充分に楽しめた。

AT THE GATESはただただ懐かしかった。なんとも高内容なイベントに満足したが、翌日体中が痛くなった。こういう時に年齢を感じる。

牧野貴 – Diaries

牧野貴 – Diaries
(video, 18min, 2008)

京都の夭折したノイズ作家、佐野公祐の音源を使用した、牧野貴の新作。そのサウンドトラックは極めてハーシュであり、現在の欧米ノイズシーンにおけるテープサーキットから聴こえてくるような、荒々しく過剰なノイズである。牧野貴のフィルムも、このハーシュノイズの攻撃性と「夭折したノイズ作家の音源」という事実に影響されて、荒々しいフォルムの変容をみせており、今までと違うフェイズに入ったかのような、痛々しいほどに鋭利な印象を受けた。このフィルムは多分に感情的である。分かりやすいやり方でその感情を表に出すことはしていないが、誰もがまずそう感じるだろう。
私は基本的に感情的なものを極力警戒する。そして私は個の感情を一義的には排除して作品と向き合う。芸術は芸術的価値観に基づく評価軸(モダニズムでもポストモダニズムでも、何でも良い)との距離、もしくは政治的価値観に基づく評価軸(社会主義リアリズムでもマルチチュードの芸術でもテクノロジーの発展でも、何でも良い)との距離において計られるべきだと思うからだ。
牧野貴のフィルムは、例えばブラッケージの系譜にあるとの誤解を受けやすい。ブラッケージはどこまでも個人的な感情に拘泥したフィルムメーカーであり、センチメンタルな存在である。しかし、牧野貴は個人的な感情の吐露とは対極にあるフィルムを制作してきたと思う。もちろん作家の内面において個人的な感情は常に存在していたのかもしれないが、それは前面に押し出されてはいなかった。彼のフィルムは、現実にあるフォルムが不定形なフォルムとして変容させられ、観るもののなかで現実がまったく異なる何ものかとして立ち上がる、そこにこそ価値があった。さらに技術的試行を経て現実の変容が成されるので、構造映画のようなフィルム機構の前景化も同時に達成されていた。
だが本作は、作家の個人的感情を前面に押し出すこと、あるいは自我を前面に押し出すことで成立している。もちろん日記映画や自分探し映画のように、幼稚にも個人的な感情をただひとつの象徴として作品の中心に据えるようなマネは行っていない。あくまで表現形式は、今までのスタイルを踏襲している。しかし、本作には危うさもついて回る。
私にも明確な回答を出すことなど出来ないが、個人の感情や自我を作品の象徴的中心に据え、客観的視点のないまま吐露するのは冒頭に記述した価値観において誤りだと強く思う。しかし作家のなかに客観的視点、外部の視点を求める意識がある場合は、その限りではない。