牧野貴 – Diaries

牧野貴 – Diaries
(video, 18min, 2008)

京都の夭折したノイズ作家、佐野公祐の音源を使用した、牧野貴の新作。そのサウンドトラックは極めてハーシュであり、現在の欧米ノイズシーンにおけるテープサーキットから聴こえてくるような、荒々しく過剰なノイズである。牧野貴のフィルムも、このハーシュノイズの攻撃性と「夭折したノイズ作家の音源」という事実に影響されて、荒々しいフォルムの変容をみせており、今までと違うフェイズに入ったかのような、痛々しいほどに鋭利な印象を受けた。このフィルムは多分に感情的である。分かりやすいやり方でその感情を表に出すことはしていないが、誰もがまずそう感じるだろう。
私は基本的に感情的なものを極力警戒する。そして私は個の感情を一義的には排除して作品と向き合う。芸術は芸術的価値観に基づく評価軸(モダニズムでもポストモダニズムでも、何でも良い)との距離、もしくは政治的価値観に基づく評価軸(社会主義リアリズムでもマルチチュードの芸術でもテクノロジーの発展でも、何でも良い)との距離において計られるべきだと思うからだ。
牧野貴のフィルムは、例えばブラッケージの系譜にあるとの誤解を受けやすい。ブラッケージはどこまでも個人的な感情に拘泥したフィルムメーカーであり、センチメンタルな存在である。しかし、牧野貴は個人的な感情の吐露とは対極にあるフィルムを制作してきたと思う。もちろん作家の内面において個人的な感情は常に存在していたのかもしれないが、それは前面に押し出されてはいなかった。彼のフィルムは、現実にあるフォルムが不定形なフォルムとして変容させられ、観るもののなかで現実がまったく異なる何ものかとして立ち上がる、そこにこそ価値があった。さらに技術的試行を経て現実の変容が成されるので、構造映画のようなフィルム機構の前景化も同時に達成されていた。
だが本作は、作家の個人的感情を前面に押し出すこと、あるいは自我を前面に押し出すことで成立している。もちろん日記映画や自分探し映画のように、幼稚にも個人的な感情をただひとつの象徴として作品の中心に据えるようなマネは行っていない。あくまで表現形式は、今までのスタイルを踏襲している。しかし、本作には危うさもついて回る。
私にも明確な回答を出すことなど出来ないが、個人の感情や自我を作品の象徴的中心に据え、客観的視点のないまま吐露するのは冒頭に記述した価値観において誤りだと強く思う。しかし作家のなかに客観的視点、外部の視点を求める意識がある場合は、その限りではない。

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