SUTCLIFFE JUGEND & PRURIENT – End Of Autumn


(Troubleman Unlimited/2xLP)

Sutcliffe JugendとPrurient(Dominick Fernow)によるコラボレーション作品。ここに収められた四曲は「春の終わり」「夏の終わり」「秋の終わり」「冬の終わり」と題されており、各曲ともにLPの片面すべてを使っている。また、本作では歌詞として、死についての日本の僧の言葉が引用されている(日本に生まれながら、引用元を理解することが出来ない自分が嘆かわしい)。
I long for people
Then again I loathe them
End of autumn

厭世的な言葉である。秋の終わり、日常にぽっかりと開いた立ち入ることのできない空白としての死。それはアートワークにおける純白の牛骨の山にも表象されるものだ。空虚で、ありふれたもので、そこには何もない。この空白こそが日常に打ち込まれた楔であり、その楔は我々の仮初めの生を自覚させる。三島が死を生の中に持ち込むことを勧めたように。
80年代のノイズ音楽は死を反社会的な記号として利用し、その「ノイズ」性を文化的社会空間におけるノマド的な差異の源泉として使用していた。それは往々にして血まみれで陰惨な、露悪的な表象として立ち現れるものであった。しかし、本作でのSutcliffe Jugendのスタンスは、それとは異なる。振り返ってみればSutcliffe Jugendのサウンドにおける純白の殺意とは、生の連続の中で屹立する空白そのもの、全ての実存に対する彼岸そのものではなかったか(この空白を獲得するがために、Sutcliffe Jugendにおける死の表象は多くの場合、明確な指示対象を持たぬものであったのだと言えよう)。
本作においてSutcliffe Jugendは、それまで仄めかせていた空白(としての死)に、嘗てない程に接近している。サウンド面においてもSutcliffe Jugend特有の鋭利なノイズに加えて、鈍痛のようなノイズや駆動音が付加されている(Prurientの参加によってであろう)。それにより、いつもの暴力性が抑制され、全体的に重苦しい印象となっている。特に表題作である「秋の終わり」における、夕立前の曇り空のような虚無感とトムキンスの声が印象深い。今回のコラボレーションは、そのテーマを表出するという点において成功している。本作がSutcliffe Jugendの傑作のひとつに数えられることに疑いはない。

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牧野貴 – The Seasons


(Film-Video, 30min, 2008)

牧野貴の新作、「The Seasons」を観た。今回の音楽は盟友ジム・オルークが担当している。まずはギトギトした腐敗ハーシュノイズが蠢きながら、暗い画面の中、フィルムノイズが荒々しく運動する。そして初期のジム・オルークに顕著であった溺水的なドローンが浮かび上がってくる。そしてフィルムのイメージもいつものように、何らかの具体的被写体イメージの変容による、抽象化した、溶け出したイメージの混沌へと突入する。今回はフィルムの円環的な構造がテーマであり、「Elements of Nothing」のように、同一マテリアルの循環的使用が行われていると聞く。その変容の度合いは既にイメージの原型からかけ離れ、砂塵のような様相をとっている。中盤、ノイズとドローンが一旦おさまると同時に、イメージもオーロラのような流体的なものへと切り替わる。
そして、ここからがユニークなのだが、突然イメージの一方向への移動が開始され、円環的な構造が展開の中で明確な形をとって現れだす。林の中の木々が元々の被写体であるのだが、ここでのそのイメージは実に美しい。陽光と葉の緑、そして一定速度の運動。運動の方向もゆっくりと回転しながら変化してゆく。それと同時にこれはプリントの再撮影なのだという事を前景化させるように、フレームがズームアウトし、フィルムのふちまでを画面の中で見せはじめる。この手法は過去の構造映画では極めてスタンダードなものであるのだが、私はこれを抽象的イメージの神秘化(サイケデリックな抽象映画にありがちな思考停止)への抵抗の表れとして解釈する。
牧野貴の作品の個性である具体的な被写体のイメージの変容による抽象化は、鑑賞者にそのイメージの残骸から、新たなイメージを掬い上げさせるという側面を持っていた。この鑑賞者の思考は覚醒した自覚的な意識によって行われるものであり、サイケデリックなイメージへの没入(あるいは思考停止)とは異なるものだった。そこで今回の構造映画的な手法は、サイケデリックなイメージへの没入に対する目覚めの一撃としての意味を持っている(予感でしかないのだが、私の中で牧野貴とペーター・チェルカスキーの「映画」へのスタンスがだんだんと接近してきた感じもする)。彼の作品は様々なレベルにおいて、自覚的な意識のための映画なのである。
また実験音楽/ノイズ愛好者としては、かなり久しぶりにジム・オルークのハードなノイズとドローンを聴くことができたのも大きな喜びだった。