エクスペリメンタル・サウンドプログラム および関連イベント@赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#1
Tony Conrad & Jim O’Rourke, Stephen Prina, Incapacitants
2008/9/14
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#2
William Bennett, Marcus Schmickler, Luke Fowler & 角田俊也, 美川俊治
2008/9/15
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#3
Merzbow, Robin Fox
2008/9/20
横浜 赤レンガ倉庫

エクスペリメンタル・サウンドプログラム#4
Stephen O’Malley & Oren Ambarchi & Jim O’Rourke, POP(Zbigniew Karkowski & Peter Rehberg)
2008/9/21
横浜 赤レンガ倉庫

横浜トリエンナーレにおけるエクスペリメンタル・サウンドプログラム、およびいくつかの関連イベントを観た。横浜トリエンナーレについては改めて書こうと思うが、まずはエクスペリメンタル・サウンドプログラム、および関連イベントについてレヴューする。

Incapacitants:
今回のコンサートは座席が用意されているので、座った状態でインキャパを観ることに。なんだか妙な気分である。だが、椅子に腰掛けた観客を前にしても二人のアクションはいつも通り。冒頭からハーシュノイズが吹き荒れ、二人はどんどんトランス状態となり、奇怪な痙攣を伴いながら機材と格闘する。美川は鉄板に肘打ちを食らわせ、小堺は機材を手に恍惚として万歳。よい意味でいつも通りなので、あまり書くこともない(笑)。良質なフリージャズのようなハーシュノイズを30分程演奏し、ラストは小堺が機材もろとも転倒し終了。彼らの行為も含めた音楽は、今やその全てがハーシュノイズの伝統である。

Stephen Prina:
レッドクレイヨラ人脈のスティーヴン・プリナは、スーツ姿でエレアコを手に登場。カヴァー曲を含む良質なフォークソングを聴かせてくれた。程よくポップで、アメリカーナの空気を感じさせる楽曲群である。ギターだけでなく、ピアノを使う楽曲も多かった。やや渋めの声質と、上品で端正な演奏を堪能させてもらった。

Tony Conrad&Jim O’Rourke:
休憩時に知人の映像作家さんと雑談していると、ステージに目をやった彼が「ジムさんがセッティング手伝ってますよ」と言う。ステージに目をやると、トニー・コンラッドとジム・オルークが忙しそうにセッティング中。私も「本当ですね」と返す。「…共演するんじゃないですか」と彼。その予想は当たり、この日の演奏ではオルークがチェロにて参加。これが事件であることは、この辺りの音楽の愛好者にはお分かりいただけるだろう。「Early Minimalism」やGastr Del Sol with Tony Conradの7インチ等での共演の再来である(グラッブス抜きだが)。プリナを呼び戻して、彼がギターを演奏してくれれば殆どGastr Del Solになるな、と変な妄想をしながら開始を待つ。
使用楽器はコンラッドが改造されたヴァイオリン、オルークがチェロ。この二つの音はエフェクターを通して電気変調される。さらに事前に用意されたドローン音源も加えられていたようだ。またコンラッドのヴァイオリンは糸が取り付けられており、演奏の際に弦だけではなく、この糸も弓で弾いて使用する。さらに電気ミシンがコンラッドの傍らに用意され、このミシンの針の部分に取り付けられた糸も弓で弾いていた。あと舞台上の演出としては、二人の足下の床に電球が置かれ、それにより二人の大きな影が後方のスクリーンに投影されるようになっていた。
演奏の方は、紙幣を伸ばしてクリップで金具に留めて弓で弾くというパフォーマンスでスタート。奇妙な音とそのユーモラスな姿に対して笑いが起きる。が、続いてヴァイオリンとチェロのドローンが開始されると、もう観客は笑ってなどいられない。張りつめた緊張感の中で、オルークが中音~低音部のドローンをゆっくりと奏で、コンラッドが高音部のドローンを奏でることで、分厚い音塊が出現する。聴覚をヤスリで研ぐような、細かく刺々しく高密度な音の軋み。それがピークに達したあたりで、コンラッドは弦を押さえていた左手を、先述のミシン糸に持ち替えて弓で弾く。これが激しい破砕音となってドローンに加えられることで、激しく、それと同時に音響的な美しさも伴ったハーシュ・ドローンが完成する。
また、コンラッドは立ったり座ったりを繰り返しながら全身で演奏するが、オルークは座ったまま真剣な表情でストイックに演奏していた。私はそのオルークの真剣な表情から、コンラッドの音楽に対する真摯な敬意を確かに受け取った。無理して横浜まで観に来て良かった。
以下、終演後のコンラッドの姿。後方に立っているのがオルーク。

Luke Fowler&角田俊也:
彼らの演奏は音楽というよりも、純粋なサウンドアートのパフォーマンスである。ステージ後方に座るルーク・ファウラーの役割がいまいちよく分からなかったが、角田はステージ前方で、机の上に鉄パイプを置き、それをスライドさせ、最後に地面に落とすという行為を繰り返す。どうやらスライドさせている間、鉄パイプが何らかの接点に接触し通電することで、ノイズ音が発生するという仕組みのようだ。この一連の行為をパイプの本数だけ繰り返し(パイプの長さはだんだん短くなってゆく)、パフォーマンスは終了。角田の作家性から、これが現象の検証というコンセプトを持ったパフォーマンスであることは想像がつくが、一観客の視点からは深い理解には至れなかった。

Marcus Schmickler:
マーカス・シュミックラーはドイツの電子音楽作家であり、初めて観る(と思う)。今回はステージ上にはギターアンプが積み重ねられ、PAを介さず、アンプそのものを鳴らすという趣向である。シュミックラー自身は客席後方のコンソールの傍らに立ち、音源の送出とミキシングのチェックを行っていたようだ。これは所謂現代音楽系の電子音楽コンサートの典型的スタイルである。ステージ上のアンプには照明が当てられている。演奏が開始され、そのアンプから電子音によるノイズが飛び出てくる。音楽自体は暴風雨のような電子ノイズの羅列であったが、ハーシュノイズ的な印象はあまり受けなかった。よくは分からなかったのだが、確かに音の感触が体感的にPAとは異なっていたような気がする。

William Bennett:
私にとって、この日の目当ては、やはりWhitehouseの片割れことウィリアム・ベネットである。ソロなのでWhitehouseとは違う趣向があることを期待していた。機材のセッティングは近年のWhitehouseと同じくノートPCがメインで、それに加えて机の上に置かれた各種機材も使用していた。だが音の方は厚みのない典型的なデジタルシンセの音色による直線的なノイズで、やや迫力不足の感は否めなかったのであるが。
ベネットはひとしきり機材を操作し、ノイズを持続させた状態でステージ前方に移動し、シートを観ながらテクストを読み上げる。シャウトもかなり抑え気味。ベネットはこの調子で機材の操作と、ステージ前方でのシャウトを繰り返す。だんだん暖まってきたのか、図太いドラム音サンプルが機械的に反復されるあたりで、いつものケレン味あるアクション(華麗なターン)も飛び出すようになった。全体的にやや抑えた感じのパフォーマンスであったが、これは意図的なものであったと解釈したいと思う。

William Bennett&美川俊治:
そして、サウンドを持続させたままベネットはステージを降りる。これで終演かと思いきや、しばらくして誰かを引き連れてベネットはステージに戻ってきた。何とそれは美川俊治であった。かなり驚いた。この一連のイベントは、毎回こういうサプライズがあるのだろうか。だとすると全部観たくなる。
まずはベネットが美川を紹介する。その際の、何だか奥ゆかしい美川の反応に好感を持った。演奏の方は、ベネットは機材を操作して直線的なノイズを出し続け、アクションやシャウトはなかった。自らはバックに回って美川にハーシュノイズを担当してもらう意図だったのだろう。美川はあまり激しいノイズではなく、ハウリングによる高周波ノイズによってこれに応える。コンタクトマイク(?)を手にしての恍惚とした表情が印象的だった。全体的には思った程激しくはならず、やや抑えた感じで終了。まあ内容よりもこの二人の共演に立ち会えただけで収穫は大きかったと言える。

Robin Fox:
ロビン・フォックスの音楽は、池田亮司やカールステン・ニコライ系列のノイズ的音色を使用したクリック〜エレクトロニカであった。実に典型的なクリック~エレクトロニカの音楽的スタイルの範疇にあったので、音楽自体は特筆すべきものもないのだが、彼の面白さは、客席に向けられたレーザーが、音に完全に同期していたところにある(そのためのスモークも焚かれていた)。綿密に構成したと思われる視覚効果と音楽の組み合わせは巧みではあったが、慣れてしまえば、やはり典型的な音楽スタイルが物足りなく思えた。

Merzbow:
メルツバウを観るのは結構久しぶりである。アナログ時代から見続けて、デジタル環境に移行したばかりの頃の、ノートPCのみを使用したライブを観たのが最後だったので、もう5年振りくらいになるかと思う。ネットで最近のライブは観ていたのだが、アナログ機材が復活した環境でどのような演奏を聴かせてくれるのか、実際に確認したいと以前から思っていた。
現在の秋田昌美の使用機材は、ノートPCが2台と、昔使っていたスプリングを張った手製の発音器具、およびエフェクター類であった。ノートPCで奇怪な駆動音のようなループや単調なリズムを維持させ、肩からストラップで吊り下げた発音器具を掻き鳴らし、その音をエフェクターでハーシュノイズへと加工するという構成である。ノイズの音色の変化は主に足元のエフェクターのスイッチをオンオフすることで引き起こされるので、全体としては大胆な変化が少ない。そしてこの変化の少なさからくる均一な音が空間全体を埋め尽くす。それにより聴衆は巨大な壁のような大音量のノイズに酩酊するようにして浸ることができる。個人的にはこの日のような、アナログ機材を取り入れたメルツバウの方が好みだ。
また近年のメルツバウのノイズにおけるモチーフも、かつてのビザール文化の表象から、ハードコアなヴィーガン思想そのものへと転じており、その社会にアンチを唱える思想性において、秋田の活動は相変わらずノイズ的であると思えた。現代社会でヴィーガンであることは、実に反社会的であり強固な意志が必要であるのだから。

POP:
最終日。まずは、カルコフスキーとレーバーグによるユニット、POP(Product Of Power)のライブ。二人ともノートPCによる演奏である。カルコフスキーはアカデミックな現代音楽フィールドに出自を持つ電子音楽家ながら、こちら側に踏み込んで来たユニークな人物である。彼はノイズに酔い、身体を揺らしながらノートPCを操作するので、その素行の悪そうな風貌と相まって、観ていてニヤリとさせられる。対するレーバーグはどちらかというと寡黙な風貌で、黙々とノートPCを操作するだけなので好対照である。しかし音楽は広いレンジて刺々しい電子ノイズが激しく運動する、過剰なデジタルハーシュだった。彼らの音楽はパソコンを使用したものであってもノイズ特有の荒々しさ、極端さを過剰に持っている。この周辺の音楽にありがちな小さくまとまったデジタルノイズの羅列に陥ってはいない。とても清々しい、激しく運動する高密度なデジタルハーシュを20分程演奏して、最後は人声サンプルとパルスによる、練られた展開をもって終了。途中、モニタースピーカーから煙が上がるというハプニングもあったが、カルコフスキーはそんなことなど気にしない。

Stephen O’Malley & Oren Ambarchi & Jim O’Rourke:
今回のトリオの編成は、オルークがアナログシンセ(鍵盤付きEMS)や、金属のボウルに乗せられた小さなスピーカユニットと糸の先に結ばれたコンタクトマイクのフィードバックなどを使用し、オマリーとアンバーチはギターを演奏する。(中央にはドラムもセットされていたのだが、結局使われなかった。多分会場にいたBorisのアツオが叩く予定だったのではと思う。)
音楽の内容は、前半は静寂系の即興演奏のなかでオルークの物音やノイズが点描され、後半になってオマリーとアンバーチの二人によるドローンが主体になるという展開だった。結構期待していたのだが、終わってみれば、こう言っては何だが、例えばソニックユースのノイズインプロヴィゼーションのように、ロックバンドが実験音楽的なことをやってみた際に感じる弱さ、物足りなさを感じた。
結局、サンの面白さとは、ドゥーム/スラッジの発展として極端な音楽形式の試みを行いながらも、その試みがあくまで広義のロックバンドの文脈において異端として存在することで、明らかな違和を生み出していたところにあったのだと思う。それ故に、異端が広義のロックバンドの文脈から外れて実験音楽の文脈で、実験音楽のマナーに添って演奏を行ったところで、それは極めてありきたりで退屈な結果しか生まない。
それにしてもこれ程のメンバーが集まり、演奏して出て来た音が、今さら静寂系の即興演奏でした、ちょっと実験音楽の方法論をなぞってみましたというだけでは、あまりに不甲斐ないではないか。オルークの出す繊細なノイズ、アナログシンセによるパルスが音として弱いから、オマリーとアンバーチが演奏を合わせたのだとすれば、それは失敗だろう(オルークによる暴力的な弦楽器のドローンと、サンで演奏されるうようなドローンの衝突であれば面白いことになったのではないかと想像するのだが)。
実際のところ、後半でオマリーとアンバーチが徐々に大きな音量(それでも音量は全然物足りない)でドローンを演奏するようになり、それに対応するようにしてオルークが手持ち無沙汰になっていったのが、今回のトリオの噛み合わなさを表していた。(誤解のないように補足すると、私はサンの音楽は素晴らしいと思っている。)

追記:
Stephen O’Malley & Oren Ambarchi & Jim O’Rourkeのこの日の演奏ついては、どうやら致し方ない場所的な制約があり、演奏者の本意ではなかったそうなので納得した。ドラム入りでの演奏も観てみたかった。

加えて、私が観た関連イベントについて。9/14、9/15の分のみ。

Hassan Khan(9/14):
自身の映像作品上映にあわせた、エレクトロニカ~ノイズの演奏。

Philippe Parreno(9/14):
フィリップ・パレノが、もう一人の出品作家(変更があったので、名前を失念)と一緒にテーブルについて、二人でテキストを読み上げるというパフォーマンス。途中からパレノは読み上げを聴いている振りをしながら、腹話術で読み上げを行う。それにあわせてもう一人の出品作家が口パクをする。要するに声が入れ替わったように見える。さらに腹話術は続けられ、最後には二人して退屈そうに読み上げを聴いている振りをする。これで誰がテキストの読み上げを行っているのか分からない状況となる。話し言葉と発声者のインデックスが断ち切られるコンセプチュアルなパフォーマンスと見るべきか、それとも大道芸的なエンターテイメントとしてみるべきか。どちらにしろユーモラスで面白いパフォーマンスだった。

灰野敬二&Cameron Jamie(9/15):

キャメロン・ジェイミーの映像作品「JO」に、灰野敬二がライブで音をつけるという構成のイベントで、無料ということもあり、とにかく観客が多かった。映像の方は、前半がジャンヌ・ダルクに関連した宗教祭の記録映像、後半が何故かホットドックの早食い大会の記録映像という内容のもの。早食い大会の映像は再生方向が逆になっており、ホットドックを吐き出すようにして映像は進行する。現代の文化的・社会的な制度、そのサンプルとしての宗教祭と早食い大会。この両方に対して、作家は批判的な視点を持って制作していたと思われる。これは前半のジャンヌ・ダルクに扮した少女らと殉教という歴史と、そこへの政治家の介入が持つ欺瞞性への批判。および後半の大衆文化の醜悪さについての批判、皮肉として表れる。
しかし、たとえ意図としてはそうでも、私は前半の映像における甲冑をつけた少女の凛々しさと灰野の音楽は、とてもよく調和していると思えた。これは灰野の音楽のようにある種の神秘性を纏ったモチーフを扱う音楽が、聴き手の中において、容易に崇高性と結びついてしまうことへの危険性を示すものであったのかもしれない。
音楽の方について詳しく述べる。灰野はスクリーンの傍らに立ち、映像に合わせて演奏する形式をとっていた(一般的な意味での「映像に合わせる」とは勿論意味が異なる)。タイトルが映し出される前から、灰野のハイトーンな美しいヴォイスが会場を満たし、繊細な演奏がしばらく続く。やがて本編が始まり、音楽はギターと声を使用したインプロヴィゼーションによる、フリーキーな世界へとなだれ込む。ディストーションのかけられたギターのインプロヴィゼーションによって灰野は空間を蹂躙し、さらに空間に噛み付くかのように絶叫する。そしてサンプラーによるループによって、この暴虐の断片を循環させながら、そこに二重三重の暴虐を加える。最後にはほとんど声のみを使用して終演。音自体を取り出せば彼の音楽はノイズと言われかねないが、彼の音楽は身体性や彼の世界観と深く関わる。

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