オノ・ヨーコ レクチャー《Passages for Light/光の道》

ハマトリの最後を飾るは、オノ・ヨーコのレクチャー《Passages for Light/光の道》だそうです。
http://yokohamatriennale.jp/2008/ja/blog/2008/11/post-67.html
早速申し込んだ。抽選に当たったらもう一度横浜へいくつもりだ。単なるレクチャーではなくてハプニングの再演などの何かがあることを期待している。まあレクチャーでも別にいいのだが。

第13回アートフィルムフェスティバル

明日より愛知芸術文化センターにて「第13回アートフィルムフェスティバル」が開催される。
http://www.aac.pref.aichi.jp/frame.html?bunjyo/jishyu/2008/aff/index.html

大体観に行くことになると思う。今年の特集は「風景の映像」。またジェームス・ベニングの合計270分におよぶ殺人的に退屈な風景映画三部作につき合えるかと思うと、嬉しいような疲れるような…。その他にもメカスの355分にもおよぶ「セバスチャンの教育、あるいはエジプトへの回帰」など、狙ったかのように長時間の作品ばかり(分割上映されるので負担は少なそうだが)。風景の中から映画が立ち上がるのには、時間がかかるということか。また本特集では飯村隆彦の作品も選ばれているのだが、これはなかなか面白いセレクトだと思う。
今年のオリジナル映像作品は大山慶「Hand Soap」である。このあたりには越後谷さんのアニメーションへの強い関心がよく表れている。

Bill Morrison – Decasia: State of Decay


(Film, 67min, 2004)

各地のフィルムフェスにて賞を獲得した、ビル・モリソンによる長編実験映画「Decasia: State of Decay」。本作はフィルムの物質的性質を生かした、典型的なファウンドフッテージものである。この作品において作者は、引用されたフィルムに対してスクラッチや薬品等による加工変調を施している。シーンによってはかなり激しい加工変調が行われており、傷や泡のテクスチャは奇形的に歪みながら元々の具体性のあるイメージと溶け合う。それにより視線は具体性のあるイメージと、物質=フィルムの表面に発生した抽象的なテクスチャの間を行き来する。この意識の往復運動のなかで観客は映画を観ることを再認識し、映画のもつイメージの豊穣な奥行きに気がつくだろう。私はアナログ信者ではないが、こればかりはビデオのプロセスでは得ることの出来ない経験であると断言できる。フィルムを含め、物質的なアナログメディアの表面に刻まれたイメージを観ること。この経験は絵画の範疇に属するものだ。
また本作は67分というこの手の実験映画にしては長い時間の持続を有している。この持続の中で、フィルムに元々写されていた20世紀前半を表象するイメージが崩壊させられていくことは、観客にある種のカタルシスを与える。またマイケル・ゴードン作曲によるオーケストラの演奏も、ミニマルであり、時間の持続によって生じる緊張感を高めている。

針生一郎講演「はみだした女たち」@豊田市美術館

針生一郎講演「はみだした女たち」
2008/11/9
豊田市美術館

実は針生一郎その人を間近で見るのは初めて。私にとって針生一郎は、何といっても戦後の「美術批評」誌にて武井昭夫と交わした議論に象徴される、「政治と芸術の関係」を考える上で外せない極めて重要な人物である。
講演は開催中の「不協和音」展に出品している作家ついての話で、まず初めに彼女らが「女」「家庭」「結婚」「国」「ジャンル」といったものから、いかにしてはみだしてきたのか(=関係を組み替えてきたのか)について話した。そして続けて各作家とのエピソードについて話す、といったものであった。エピソードのほうはジョークを交えながらの単純に楽しめる内容であった。
これだけなら、まあ楽しい講演で終わったのだが、最後の質問の際に、針生の心に火がついた。質問の内容は失念したが、その質問に対する針生の回答は、各国のビエンナーレ、トリエンナーレについての見解から、針生の持つ政治性を強く感じさせる方向へと進んだ。まさに私が聞きたかったのは、針生のこういった側面である。関係の絶対性において文化を社会的に読むこと、すなわち文化を政治として把握すること。
私も質問してみたいことというか、ぶつけてみたい問いは山のようにあった。それは文化を政治として把握することと、芸術の自律性は対立しないのか。対立するとすれば、そのギャップは針生のなかでどのようにして埋められているのか。今の針生がこの辺りのことをどう考えているのか聞いてみたかった。いつか聞くことのできる機会があると願いたい。

みんなで育てるアニメーション@名古屋大学

みんなで育てるアニメーション
2008/11/1 – 2008/11/3
名古屋大学

名古屋大学で開催された「みんなで育てるアニメーション」を三日間観に行った。特に二日目のシンポジウムが、とても興味深い内容だったので、思うところを述べたい。
まずこの文中で使う言葉について整理しておく。

・「アニメーション」と記した場合、それは広島で上映されるような、所謂アートアニメーションを指す。
・「アニメ」と記した場合、それは日本のテレビアニメにおける、手塚治虫以降のストーリーマンガの映像化としてのアニメーションを指す。(杉井の発言による。実に的確な定義だと思う。)
・括弧無しでアニメーションと記した場合、それは広義のアニメーションを指す。
パネリストは古川タクに杉井ギサブローという、全くコンテクストの異なるアニメーションを代表する二人、そして笠原浩という広島市立大学の教員の方。テーマがアニメーション教育を主眼においたものであったので、この三名の方は、それぞれ大学の教育者として呼ばれたようだ。まずそれぞれが30分程、教育について、アニメーションについて話す。

まず笠原浩は普通にカリキュラムの解説について話し、作品を紹介する。
次の杉井ギサブローの話は初っ端から凄かった。他者の発言を個人の主観でまとめることは良くないが、あくまで私の解釈として記すと、彼はアニメーション教育への批判から話を始めた。プロの業界における「アニメ」の技術を学校で教えるのは(四年では)無理であり、一人前になるのに毎日現場で頑張って10年はかかる。なので学校では「アニメ」の技術よりも、もっと根本の考え方について教育するという話。古川さん達の「アニメーション」と自分たちの「アニメ」を分けて考えているという話。アニメーションの本質は動きであるという話。我々はリミテッドアニメの手法を生み出した。しかしその結果、日本の「アニメ」が動きに注目しなくなったのは残念という話をした。
そして古川タクは、まず自身と久里洋二の話からはじめ、技術教育についての具体的な話よりも、学生が必ずしも商業的な「アニメ」の道を選択する必要はないといったような話をした。
技術をめぐっての杉井の発言からは、業界における技術の研鑽に裏付けられたプロとしての誇りを強く感じた。このような「誇り」はプロの奢りなどではなく、肯定されるべき自然なものだと思う。それにしても私は常々思うのだが多くの「アニメーション」は、そして「アニメーション」に限らず近年の実験映画もインディペンデント映画も現代美術もメディアアートも、技術を安く見積もりすぎてはいないだろうか。もちろん技術力の高さは作品の価値とイコールではない。新しい技術を投入したからといって、それは芸術的価値とは直結しない。しかし、自己表現や芸術の観念に拘泥するあまり、技術を軽視してしまうことは愚かだ。これはPCによる制作環境が普及したことによって、誰もが手軽に作品を制作できるようになったことの功罪といってもいいだろう。
しかし、だからといって個人制作による「アニメーション」を技術的な意味でのアマチュアと定義することは出来ない。「アニメーション」においてもトップクラスの作家は高い技術力をしっかりと兼ね備えている。相原信洋や黒坂圭太、あるいは少しコンテクストは異なるが新海誠はどうだろう。彼らの持っている技術は、プロによる「アニメ」の技術に充分に拮抗する。要するに一律にアマチュア=技術力が低い、プロ=技術力が高いと言い切ることは出来ないということだ。アマチュアとプロの違いがあるとすれば、それは仕事として経済的対価を受け取っているかどうかということのみだ。
アニメーションをめぐる言説においては「アニメ」と「アニメーション」の表現スタイルの違い、技術力の高さ、アマチュアとプロの違いが混同されすぎていると思えるので明確にしておく。「アマチュア=技術力が低い=アートアニメーション的な表現スタイル」「プロ=技術力が高い=ストーリーマンガ的な表現スタイル」と考えるのは固定観念である。たとえ現状そうであったとしても、それは社会的条件が偶然そうであったというだけに過ぎない。
この日の登壇者の間で使われた「アマチュア」と「アニメーション」という言葉の背景については、各人によって揺らぎがみられた。杉井以外の登壇者にとっての「アマチュア」とは誰もが好きな物を自由に作れるようになった、自由に発表できるようになったというポジティヴな意味としてのものであった。杉井にとっての「アマチュア」は「プロ」という言葉の対比の中で技術的あるいは経済的な差異として、あるいは将来「アニメ」ではないアニメーションが生まれてくる可能性の場を指す切実な願いの言葉として使われていたように思う。
終盤での登壇者らの合意としてはテレビ放映されているようなプロの業界で作られる「アニメ」とは異なったオルタナティヴな選択肢として、PCによる制作環境の普及により「アマチュア」による「アニメーション」の制作と上映活動の裾野が広がることに可能性を求める、といったところであった。しかし各人の問題意識において、その言葉の背景には齟齬が感じられた。
個人的には杉井が、将来的に新たなアニメーションを生み出すことを「アマチュア」による「アニメーション」の場に期待していたのが意外であり、考えさせられた。杉井のような戦後日本「アニメ」の歴史とともに歩んできた監督がこのようなことを述べる場合、それは硬直化した「アニメ」の現状への批判意識からくるものであると言っていいだろう。このように杉井の話には自らの帰属する「アニメ」への厳しい批判意識がみられた。対して、「アニメーション」の側の人々の問題意識はやや楽観的すぎる気がした。
この日の杉井の真摯な言葉の数々は、あまりに多くのことを私に考えさせてくれたように思う。実に有意義なシンポジウムであった。
あと三日間を通して観て、上映作品の中に3DCGアニメーションが殆どないのが気になった。3DCGアニメーションは技術が複雑なため、そしてまともな環境を揃えるためには初期投資が高額となるため、ハードルが高いのかと思えた。