『薔薇の葬列』公開40周年 幻視の美学・松本俊夫映画回顧展

松本俊夫の映画回顧展が渋谷のイメフォで開催される。今回の上映の目玉は、何といっても「銀輪」が再上映されることだろう。過去にフィルムセンターで一度上映されたっきりで、川崎市民ミュージアムでの回顧展の際には上映が断念された本作が、再び映写機にかけられるのは誠に喜ばしい。「銀輪」の上映されるプログラムは1/28〜30の三日間のみなので、絶対に観て欲しい。(しかも同じプログラムでは「白い長い線の記録」までも再上映される。)
戦後のアヴァンギャルド芸術はここから始まったと言ってもいい、歴史的な作品である。言うなれば実験工房と松本俊夫の共闘の記録だ。実験工房のメンバーにはフィルムメーカーがいなかったが、その役割をグループの外から担っていたのが松本俊夫であったと私は考える。
また1/27にはジム・オルークと松本俊夫の対談もある。これもまた象徴的な組み合わせで興味深い。(ただ松本先生はジム・オルークのことをご存じなかったのだが…。)
ジム・オルークは海外版「薔薇の葬列」DVDの解説も書いているくらいに日本の劇映画に詳しいので、面白い話を期待できるだろう。
http://www.imageforum.co.jp/matsumotoretro/

raster-noton japan tour 2008 @ 名古屋 lounge vio

Alva Noto (with Anne-James Chaton), Byetone, SND, Pixel, Nibo, NHK, DJ TOMOHO
2008/12/20
名古屋 lounge vio

NHK:
まずは日本人二名によるNHKの演奏。ノートPCやエレクトロニクス類を二人掛かりで操作する。割と音響的でありながらもハードという、かつてのミルプラトー/フォースインクを思わせるようなサウンドだった。

Pixel:
続いてはデンマークのPixel。これが少々奇妙なパフォーマンスであった。
ステージ前方のテーブルの上には測定器が置かれており、その側には測定器がロール紙にデータを書き出す様子をステージ後方に大きくプロジェクションするための、ビデオカメラも設置されている。そして、そこに登場したPixelは、まず会場の女性客を手招きしマイクの前に立たせる。そしてその女性に日本語の某小説を朗読させ、自分は測定器のつまみをいじる。これらのパフォーマンスのバックではミニマルなトラックが流されており、そのトラックの波形を測定器が拾って書き出す。それが壁に大きく映し出される。簡単に述べるとこんなパフォーマンスだった。
正直、朗読との関係はよく分からない。しかしサウンドを超アナログなロール紙上の曲線に置き換えて、大きくプロジェクションするというアイデアは、超アナログなサウンド同期型のVJパフォーマンスとして解釈できないこともなく、なかなかパンクであった。

Nibo:
日本人一名によるユニットであるNibo。彼はノートPCを操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。そのサウンドは実にRaster-Notonらしい電子音響である。サウンドに同期して変化するProcessingっぽいシンプルな映像(画面中央に並ぶ小さな光点が、上下にブラーを掛けられたように振動するイメージ)も、極めて巧みであった。Niboの演奏は昔、何度か見たことがあるはずだが、その頃よりもリズムが明確になっていたように思う。

Byetone:
そして、メインアクトのひとりByetoneの演奏となる。彼もノートPCを操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。ただしその映像は、NiboやNotoのようにサウンドに同期して微妙に変化するような映像ではなく、速いテンポで切り替わるスタンダードなVJ的映像であった(ちなみに後半以降、この映像のなかでは秒数のカウントが常に画面中央に大きくレイヤーされていたのだが、これがなかなかユーモラスであり面白かった)。サウンドの方は、まさにRaster-Notonらしい電子音響であったが、緻密でありながらもかなりダンサブルな構成となっていた。

SND:
次はまさかRaster-Notonに合流するとは思わなかった、イギリスの二人組であるSND。これが電子音楽におけるミニマリズムを徹底したかのようなパフォーマンスで、驚かされた。彼らの場合、ミニマリズムといってもそれは一定の反復リズムによミニマルではなく、要素を徹底して削ぎ落としてゆく、コンセプチュアルな意味合いでのミニマリズムである。そのサウンドは、楽曲のパーツ、あるいはパズルのピースとしての電子音響の断片が、厳密な間隔をもって配置された無音によって分断されながら、少しずつ進行してゆくというもの。ABCD(無音)BCDE(無音)CDEF(無音)…といった調子である。しかもその分断されたピースを成すサウンドには、緻密な連続的変化が存在しているのだから凄い。全く踊れない、極めて偏執狂的な職人技の世界であった。

Alva Noto:
そして最後はカールステン・ニコライによるAlva Notoの演奏。今回はゲストとしてフランスの音響詩人Anne-James Chatonが加わる編成であった。勿論、カールステン・ニコライはノートPC(とタッチパネル式のデバイス)を操作して、サウンドと映像が同期したパフォーマンスを見せた。ちなみにその映像は、サウンドにあわせて痙攣する、無数の細い水平方向のラインの束というイメージであった。
正直なところカールステン・ニコライのデジタルミニマリズムは洗練の極みに達したところがあったので、ここからさらに大きな変化を見せることはないだろうと思っていた。なので今回、音響詩*1が導入されたのは新鮮な驚きだった。しかもそれが成功しているのだから凄い。ミニマルな電子音響の上部で、感情の起伏を欠いた物質的な音声が淡々と変調される。特に中盤の何十回も同じ発声とノイズが反復される辺りなどは、明らかに初期のサウンドアート的なNotoのサウンドへと回帰しているように思えた。だが一方で複雑に絡み合った電子音響は、極めてダンサブルなものでもあった。
サウンドのコンセプトも、音楽としての洗練も、映像の完成度も全て極めて高いレベルにある。やっぱりカールステン・ニコライは希有な作家であると再認識した。
会場の雰囲気もとても良く、合間に流れていた遅いBPMのクリックハウスも良いセンスで、とにかく楽しかった。また縁の不思議さを感じる個人的な出来事もあり、その意味でも印象深いイヴェントとなった。

*1:即物的な音響として音声をとらえ直した詩。代表的な作家としてはアンリ・ショパンなどが著名。電子的な変調がかけられ、ほとんどノイズ化した作品もみられる。

アパートメントハウス1776 ジョン・ケージ@愛知芸術文化センター

アルディッティ弦楽四重奏団, 白井剛
2008/12/3
愛知芸術文化センター

第一部は、クラーク「弦楽四重奏曲(2002-03)」とファーニホウ「ドゥム・トランシンセット 1-4」と西村朗「弦楽四重奏第4番(ヌルシンハ)」を演奏。どれもこれもハードコアな現代曲ばかりだが、特に西村の作品においてアルディッティ弦楽四重奏団の奏でる弦楽器の音は、まるで奇怪にうねる電子音のようで素晴らしいと思えた。

第二部は、ダンサーの白井剛も加わって,ケージ「44のハーモニー(ダンスヴァージョン)〜アパートメントハウス1776より」の演奏となった。白井は風船や映像のプロジェクションも取り入れながらダンスを行う。ここで演奏とダンスは(カニングハムとケージのように)完全な分裂には至っていない。抽象的な身振りもあるのだが、それだけではない、演劇性のある身振りと展開がその多くを占めていた。また演奏者もダンスの一部として関係するパートが存在した。(それにしても、すぐ側にダンサーがいるのに、よく集中力を保って演奏することが出来るものだと思った。アルディッティ弦楽四重奏団はヘリコプターに乗って演奏するくらいだから、このくらいは全く問題ないのだろう。)
ケージの音楽は、とても繊細でのどかな楽曲であった。記憶の中にあるメロディの断片を思い出しながら、ゆっくりとたどたどしく奏でてゆくような。

終演後、CD購入者は出演者のサインが貰えるということだったが、生憎持ち合わせがなく諦めかける。しかし知人を発見し金を借り、無事シュトックハウゼンの御尊顔に四人のサインを記してもらうことが出来た。

オノ・ヨーコ レクチャー《Passages for Light/光の道》@赤レンガ倉庫

2008/11/30
横浜 赤レンガ倉庫

横浜トリエンナーレ最終日、オノ・ヨーコのレクチャーに当選したので観に行ってきた。年の瀬も近づいてようやく運が向いてきたのか。今回のレクチャーには『光の道』というタイトルが付いていたのだが、結論から言うと、特にパフォーマンス含みという訳ではなかった。しかし単純にレクチャーという訳でもなかったのだが。
まず受付では『onochord』とポストカードが配られた。満員の会場に現れたオノ・ヨーコは、立ち振る舞いや観客の拍手などの反応から、やはり単なる現代美術作家以上のカリスマ性を持たされているというか、社会的な象徴として位置づけられているタイプの人物だなと思った。本人もその役割を引き受けようと自覚して振る舞っているように思う。
まずは近年の活動を紹介するDVDを皆で鑑賞。その後は観客と対話するように、かなり長い時間をとって質問を受けるという流れ。レクチャーというより、観客参加のトークと言えばいいのか。精神的な話や、パーソナルな話も多かったが、いくつか面白い話も聞けた。以下、走り書きのメモなので思い違いを含む可能性があることを断ったうえで、箇条書きにて記すと、

・セールスリストに「ライトハウス」のコンセプトが含まれていた。それを見たジョン・レノンに「これを作ってくれ」と言われたエピソードについて
・自分はコンセプチュアルアーティストである。だから現実には出来ないようなことを考える。しかし何十年も経って、それは「イマジン・ピース・タワー」として実現した
・「カットピース」を再演した理由について

といった内容だった。そしてトークを終えると、唐突に会場にアッパーなダンスミュージックが大音量で流れ出し、オノ・ヨーコは観客をステージにあげて一緒に踊りだす。そのまま拍手と歓声のなかレクチャーは終了。見終わって分かったことは、このレクチャーのタイトルである「光の道」とは、象徴としての「イマジン・ピース・タワー」を広めようとする旅路、その象徴を媒介として「愛と平和」のメッセージを広めようとする旅路だったのだということ。

さて、私はオノ・ヨーコの「現実には出来ないようなことを考える」という旨の言葉を、意味を持つものとして受け取った。50年代〜60年代のオノ・ヨーコの作品は、ハードコアなコンセプチュアルアートばかりであった。何らかのメッセージを伝えることよりも、形式としてのコンセプチュアルアートを試すことが優先されていたように思える。そこではコンセプチュアルアートを介して、人間の持っている想像力の広がりを試すことが意図されていた。まだ「愛と平和」だけではなかったのだ。しかし後年、人間の持つ想像力についての試みは「愛と平和」のメッセージと重ね合わされ、その意味合いを大衆化させてゆく。「愛と平和」というあまりに普遍的な概念を、人々の意識の中にイメージさせることが、主たる目的へと変化したのだと言える。それを批判することは簡単だ。しかし、人々が意識のなかにイメージするであろう概念にこそ作家が価値を認めたのだとすれば、その変化も一つの選択といえる。今回のレクチャーは、このようなことを考えるよい機会となった。

ハマトリ最終日


ハマトリ最終日、オノ・ヨーコのレクチャー(当選しました)と、見逃したままだったH-BOXの映像作品を見倒すために再び横浜へ行ってきた。写真はフィナーレでの、大巻伸嗣の「Memorial Rebirth」。このフィナーレでは大巻伸嗣と、総合ディレクター水沢勉の短い挨拶もあった。
私は合計5回横浜を訪れた訳だが、はっきり言っておきたい。とても面白かった。素晴らしい展覧会であった。
多くのスタッフとボランティアがこの展覧会を愛していること、多くの観客がそれぞれ何かを求めてトリエンナーレ会場を訪れたこと。「芸術」というひどく曖昧で多義的な言葉を、我々は各人それぞれのやり方で共有することが出来たのではないか。
三年後、またここ来ることができればと思う。文化を共有していることを確認するために。

「旅」について


何と、タージ・マハル旅行団の「「旅」について 」がDVDにて発売される。あわせて、タージ・マハル旅行団の「LIVE IN STOCKHOLM1971」、小杉武久の「キャッチ・ウェイヴ ’97」も発売。「「旅」について」は、先日ハマトリで観たばかりなのだが、想像以上にヒッピーそのものだったメンバーらの旅行生活の映像には衝撃を受けた。必見であると思う。だだっ広い荒野のなか、彼らのライトバンが走ってゆく映像には涙腺が緩む。