「Still in Cosmos」が25FPSにてグランプリ受賞


おめでとう、本当に。

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映画に(反)対して――ギー・ドゥボール特集

映画に(反)対して――ギー・ドゥボール特集
http://www.yidff.jp/2009/program/09p4.html
http://www.yidff.jp/news/09/ex090922.html#a2

・10月17日[土]
13:30 『ギー・ドゥボール、その芸術とその時代』
16:00 『サドのための絶叫』『かなり短い時間単位内での何人かの人物の通過について』『分離の批判』
講演:木下誠
・10月18日[日]
13:30 『映画 スペクタクルの社会に関してこれまでになされた毀誉褒貶相半ばする全評価に対する反駁』 講演:フィリップ・アズーリ
17:15 『われわれは夜に彷徨い歩こう、そしてすべてが火に焼き尽くされんことを』
シンポジウム:廣瀬純、藤原徹平、小田マサノリ、フィリップ・アズーリ

[会場] 東京日仏学院2F エスパス・イマージュ
[料金] 一般1,500円/日仏学院会員1,000円
(『ギー・ドゥボール、その芸術とその時代』のみ一般1,000円/会員500円)
[問い合わせ] phone: 03-5206-2500(東京日仏学院)

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山形国際ドキュメンタリー映画祭と東京日仏学院にてギー・ドゥボール特集が行なわれる。上映される作品は共通している。どちらかを観に行きたいと思う。

COUM Transmissions – The Sound Of Porridge Bubbling


(Dais Records/LP)

遂に明らかとなったCOUM Transmissionsによる1971年のアーカイヴ音源は、フリークアウトし過ぎた、即興的要素の強いサイケであった。不定形な演奏が垂れ流され、黒人ヴォーカリスト、レイ・ハーヴェイが艶かしくも強靭なヴォーカルを披露する(これがどこかCANでのマルコム・ムーニーを思わせる)。ジェネシス本人のライナーノートには、当時のフリークアウトなコミューン生活の様子や、この音源が結局お蔵入りになった経緯がエッセイ風に綴られている。60年代の空気のなかでジェネシスが音楽活動を開始したことがはっきりと確認できたのは収穫だが、ここからパフォーマンスアートグループとしての1976年の「売春」展、そしてTGにどうして繋がったのか、まだまだ興味は尽きない。メンバーとして、すでにコージーは加わっているのだが、明らかにここから「売春」展とTGまでの間には飛躍がある。
それにしても、ジェネシスは意外とキャリアが長く、プログレやサイケの時代に既に活動を開始していたのだが、もしもこの音源がリリースされていたら、TGは生まれなかったかもしれないと考えてみると、歴史の偶然と、その後の必然を感じずにはいられない。

レッドクロス上映会

先日、ある展覧会/上映会を観に行った。実験映画の上映でありがちな閉塞感の存在しない、極めて風通しの良い上映だった。おそらくそれは、自分や身内に対する意識よりも、芸術や文化全体に対する意識(態度)が優先されているからだと思う。

レッドクロス上映会
http://www.ayumi-g.com/ex09/0934.html
日時 9月11日(金)、12日(土)、13日(日) 19時〜、20時〜
会場 アユミギャラリー
料金 700円(売上金は、海外の作家の作品郵送費に回されます)

上映作品(上映順に)
Ben Russell 《TRYPPES♯6》
Johann Lurf 《12 Explosionen》
島田量平 《dorothy (ragged film#4)》
Ben Rivers 《Origin of the species》
Pierre Molinier《MES JAMBES》
田巻真寛 《climax》
牧野貴 《While we are here》

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忘れないうちに、各作品についてレヴューしたい。

Ben Russell 《TRYPPES♯6》
この作品は南米のマルーン(http://ja.wikipedia.org/wiki/マルーン)の村にて撮影されたという作品であり、ジャン・ルーシュが参照されている。まず奇怪な覆面を着用した男(?)たちが村を彷徨うように歩きながら、祭事の会場を目指す。カメラはワンカットの長回しで、その後を追跡する。歩いて行くうちに、祭りの太鼓のリズムが接近してくるのだが、このサウンドが空間性を異様に際立たせており、長回しの持続のなかで緊張を増幅させてゆく。そして空間が開け、異様な狂騒に包まれた祭事の場に一行は到達し、そのまま踊りに加わる。しばらくして途中で疲れたのか、覆面の一人がいったん祭りの場を離れるが、ひと休みの後、彼は再び踊りの狂騒のなかに身を投じる。やがて踊りは性的なモチーフを表すものへと変貌してゆく。魔術的な狂騒の場を舞台として、移動をともなう捩じれた長回しの持続によって空間の密度を変形させている。この密度の変化は、魔術的な神秘主義を巧妙に相対化させているようにも思う。

Johann Lurf 《12 Explosionen》
無人の夜の市街地にて、いきなり大音響とともに路上に設置された花火が爆発する。その様子をフィックスショットの切り替えで構成した作品。この爆発が空間の持っている社会的潜在性を引き起こすのかといえば、そんなことはなく(大騒ぎになったりはしない)、爆発の後、再び空間は静寂に戻る。音と光によって瞬間的に空間を異化させる試みであり、ハプニングというよりも、都市空間におけるアースワークといったような性質を持っている作品。シンプルなコンセプトゆえに強力。

Ben Rivers 《Origin of the species》
空ショットを多用しながら、山奥で隠遁生活を送るS氏の生活の風景を撮り、そこにS氏へのインタビュー音声が重ね合わされるという作品。このS氏は人類や生命の存在する意味を、数億年のスパンで思索する人物であり、典型的な世捨て人の傾向を持っている。フィクションなのかノンフィクションなのかは知らないが、このような設定と、ベン・リバースの触覚的なカメラが捉える苔や木々や葉の表面といった自然のテクスチャーはとてもよく似合う。恐らくこれは、ベン・リバースがS氏を人間として撮影していないということだ。相変わらずベン・リバースのフィルムは、被写体の持つ豊穣なテクスチャーを実に艶かしく引き出している。
個人的には、北の果てで暮らす自分の境遇を重ね合わせながら観た。

Pierre Molinier《MES JAMBES》
今回の上映では唯一の故人、歴史上のアーティストである。性倒錯的な作風で知られ、絵画、写真、人形などを制作するシュルレアリスト。今回上映された作品は、彼のプライベートな8mmフィルムであり、そのなかで60歳を越えたピエール・モリニエは退廃的でセクシュアルな女性下着を身に着け披露している。観客に観せることを意図していたのか、それとも全くの自己愛の結晶であるのか、どちらにせよその容姿はどう見ても美しい女性でしかない。あまりに濃厚な逸脱世界に目眩がした。素晴らしく貴重な体験であった。

島田量平 《dorothy (ragged film#4)》
田巻真寛 《climax》
牧野貴 《While we are here》
島田と田巻の作品は、積極的にフィルムというマテリアル性/物質性を前景化させることで、非イメージをスクリーンに出現させている。特に田巻のハードコアなアプローチは、ほとんどイメージを廃棄する段階にまで達している。フィルムのマテリアル性にこだわる手法は既に使い古されており、残された引き出しの数の少なさから言っても、若干苦しいところもあるのだが、この日観た作品からは、それを何とかして乗り越えようとする工夫がみられた。牧野の作品は、今回はちょっとした視点の変化や見せ方によって非イメージを出現させる方向が出ていた。要するに水面の光の乱反射が、イメージから非イメージに溶け出すあの方向性である。各作品を細かく見れば、もちろんそれぞれコンセプトは異なるのだが、キュレーター(牧野)の意図からして、大枠の方向としてこれらの作品は近似していたと言えるだろう。その意図とは、イメージと非イメージの狭間での意識の往復であろうと思う。

Sonambient

ハリー・ベルトイアのレコードを何枚かまとめて聴いたが、想像以上に凄まじかった。ベルトイアといえば、デザイナーズチェアの作者として有名だが、音響彫刻家としての活動も素晴らしい。その内容は静謐な金属音ドローンを、巧みな構成によって展開している傑作ばかり。作曲されたかのように、その構成は起伏に富んでおり、音色の豊かさと相まって、聴く者を全く飽きさせない。

Muslimgauze – No Human Rights For Arabs In Israel


(Sttalpllat/10EP)

写真はジャケットのアップ。二枚の手漉き紙の間にグリーンのクリアーヴィニールが挟まれているのだが、そのうちの一枚にはアラビア語の新聞が、もう一枚にはオランダ語(版元はオランダのレーベルである)の新聞が散りばめられている。恐らく紙を漉く際に散りばめたのだろう。この紙にエンボス加工を施して、文字のプリントされたビニールカバーで覆って、ジャケットにしている。なんとも手の込んだアートワークであるが、これが表面的なデザインなどではなく、余りにダイレクトなタイトルと相まって、社会的な批判性を獲得しているところが、実にMuslimgauzeらしい。内容は扇動的なアラビック・ブレイクス。

プリュスクパルフェ:ヴィデオ・アートの夕べ 「出光真子を迎えて」

昨日は横浜に下記の上映を観に行った。

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プリュスクパルフェ(Plus que parfait):ヴィデオ・アートの夕べ 「出光真子を迎えて」
講師:スティーヴン・サラザン
日本人ヴィデオ・アートのパイオニア的存在である出光真子を迎えます。家庭や文化の中における女性の役割や、ステイタスを常に追求し続けてきた出光の作品は、欧米でも高く評価されています。今回、作品の抜粋上映とトークを交えながら、これまでの軌跡を振り返ります。

おんなのさくひん What a Woman Made(1973年)

英雄ちゃん、ママよ HIDEO, It’s Me Mama(1983年)

主婦の一日Another Day of a Housewife(1977年)

やすしの結婚 The Marriage of YASUSHI(1986年)

洋二、どうしたの? Yoji, What’s Wrong With You ?(1987年)

清子の場合 Kiyoko’s Situation(1989年)

加恵、女の子でしょ! Kae, Act Like A Girl(1996年)

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多くの作品は観たことがあるが、いくつか未見のものもあったので収穫は多かった。トークのなかでブルース・コナーの名前が作家の口から出たのは意外だった。初期のフィルム作品からビデオ作品への移行の必然性が把握できたようにも思う。ビデオアートの脱構築的な効果は、多くのビデオ作家の場合、認識論的なものや、アクティビズム的なものや、身体論的なものであったが、彼女の場合のそれは、寓話的な役者の演技によって表される性差という社会制度への批判として立ち現れる。要するに「マコスタイル」と呼ばれているモニター内モニターの手法である。このスタイルは、あまり似たような例が見られない。また役者の演技も、意図的に所謂映画的なものから逸脱させられており、パフォーマンスに近い微細な不自然さを含むものになっているのが面白い。