レッドクロス上映会

先日、ある展覧会/上映会を観に行った。実験映画の上映でありがちな閉塞感の存在しない、極めて風通しの良い上映だった。おそらくそれは、自分や身内に対する意識よりも、芸術や文化全体に対する意識(態度)が優先されているからだと思う。

レッドクロス上映会
http://www.ayumi-g.com/ex09/0934.html
日時 9月11日(金)、12日(土)、13日(日) 19時〜、20時〜
会場 アユミギャラリー
料金 700円(売上金は、海外の作家の作品郵送費に回されます)

上映作品(上映順に)
Ben Russell 《TRYPPES♯6》
Johann Lurf 《12 Explosionen》
島田量平 《dorothy (ragged film#4)》
Ben Rivers 《Origin of the species》
Pierre Molinier《MES JAMBES》
田巻真寛 《climax》
牧野貴 《While we are here》

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忘れないうちに、各作品についてレヴューしたい。

Ben Russell 《TRYPPES♯6》
この作品は南米のマルーン(http://ja.wikipedia.org/wiki/マルーン)の村にて撮影されたという作品であり、ジャン・ルーシュが参照されている。まず奇怪な覆面を着用した男(?)たちが村を彷徨うように歩きながら、祭事の会場を目指す。カメラはワンカットの長回しで、その後を追跡する。歩いて行くうちに、祭りの太鼓のリズムが接近してくるのだが、このサウンドが空間性を異様に際立たせており、長回しの持続のなかで緊張を増幅させてゆく。そして空間が開け、異様な狂騒に包まれた祭事の場に一行は到達し、そのまま踊りに加わる。しばらくして途中で疲れたのか、覆面の一人がいったん祭りの場を離れるが、ひと休みの後、彼は再び踊りの狂騒のなかに身を投じる。やがて踊りは性的なモチーフを表すものへと変貌してゆく。魔術的な狂騒の場を舞台として、移動をともなう捩じれた長回しの持続によって空間の密度を変形させている。この密度の変化は、魔術的な神秘主義を巧妙に相対化させているようにも思う。

Johann Lurf 《12 Explosionen》
無人の夜の市街地にて、いきなり大音響とともに路上に設置された花火が爆発する。その様子をフィックスショットの切り替えで構成した作品。この爆発が空間の持っている社会的潜在性を引き起こすのかといえば、そんなことはなく(大騒ぎになったりはしない)、爆発の後、再び空間は静寂に戻る。音と光によって瞬間的に空間を異化させる試みであり、ハプニングというよりも、都市空間におけるアースワークといったような性質を持っている作品。シンプルなコンセプトゆえに強力。

Ben Rivers 《Origin of the species》
空ショットを多用しながら、山奥で隠遁生活を送るS氏の生活の風景を撮り、そこにS氏へのインタビュー音声が重ね合わされるという作品。このS氏は人類や生命の存在する意味を、数億年のスパンで思索する人物であり、典型的な世捨て人の傾向を持っている。フィクションなのかノンフィクションなのかは知らないが、このような設定と、ベン・リバースの触覚的なカメラが捉える苔や木々や葉の表面といった自然のテクスチャーはとてもよく似合う。恐らくこれは、ベン・リバースがS氏を人間として撮影していないということだ。相変わらずベン・リバースのフィルムは、被写体の持つ豊穣なテクスチャーを実に艶かしく引き出している。
個人的には、北の果てで暮らす自分の境遇を重ね合わせながら観た。

Pierre Molinier《MES JAMBES》
今回の上映では唯一の故人、歴史上のアーティストである。性倒錯的な作風で知られ、絵画、写真、人形などを制作するシュルレアリスト。今回上映された作品は、彼のプライベートな8mmフィルムであり、そのなかで60歳を越えたピエール・モリニエは退廃的でセクシュアルな女性下着を身に着け披露している。観客に観せることを意図していたのか、それとも全くの自己愛の結晶であるのか、どちらにせよその容姿はどう見ても美しい女性でしかない。あまりに濃厚な逸脱世界に目眩がした。素晴らしく貴重な体験であった。

島田量平 《dorothy (ragged film#4)》
田巻真寛 《climax》
牧野貴 《While we are here》
島田と田巻の作品は、積極的にフィルムというマテリアル性/物質性を前景化させることで、非イメージをスクリーンに出現させている。特に田巻のハードコアなアプローチは、ほとんどイメージを廃棄する段階にまで達している。フィルムのマテリアル性にこだわる手法は既に使い古されており、残された引き出しの数の少なさから言っても、若干苦しいところもあるのだが、この日観た作品からは、それを何とかして乗り越えようとする工夫がみられた。牧野の作品は、今回はちょっとした視点の変化や見せ方によって非イメージを出現させる方向が出ていた。要するに水面の光の乱反射が、イメージから非イメージに溶け出すあの方向性である。各作品を細かく見れば、もちろんそれぞれコンセプトは異なるのだが、キュレーター(牧野)の意図からして、大枠の方向としてこれらの作品は近似していたと言えるだろう。その意図とは、イメージと非イメージの狭間での意識の往復であろうと思う。

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