ヨコハマ国際映像祭についての素朴な感想

先週末は風邪気味の状態のまま、横浜へ10時間かけて行き、10時間かけて帰ってきた訳だが、いくつか素朴な感想を。
フォーラムについてはマノヴィッチが講演したフォーラム3について、後ほど(爆音と日仏学院ドゥボール特集についてレヴューした後で)いろいろと述べたいと思う。ひとつは北野圭介氏の講演のなかでの、実験映画の歴史に対する明白な誤謬について。
もうひとつは、マノヴィッチの統計的手法が芸術工学とか感性工学とか、その方面で散見されるタイプの研究と重なって見えて、疑問をもったことについて。
基調講演とフォーラム1については、多分別のところでレヴューします。
展示は駆け足でしか観られなかったので、改めて観に行く機会を設けたいと思うが、全体としては現代美術の領域により過ぎている気がした。それがいけないという訳ではないが、その一方で東京藝大馬車道校舎での上映プログラムが、やや魅力に欠けているように思えた。もっと現代美術寄りの劇映画や、実験映画/ビデオアートなどが取り上げられるかと想像していたのだが、上映プログラムの作品のリストを見る限り、映画・映像の歴史性や多様性に対する意識をもって編まれたプログラムではなかったのかもしれない。
(ただし正直に述べておくと、私はタイミングが合わなかったため、馬車道校舎での上映は何ひとつ観ることが出来ていない。なので、上記は全て私の偏見かもしれないことを言い添えておきたい。それにしてもタイミングが合えばいくつかは観たいと思っていたのだが、何故、土日祝日しか上映を行なわないのだろう。藝大側の都合だろうか。)
BankARTの展示は、作品内容はさておき、1Fを大きく使用したクリスチャン・マークレーの好待遇が不思議だった(そんなに重要な作品だとも思えないのだが)。お目当てであったマイケル・スノウも、数年前にイメフォで既に上映済みの「リヴィングルーム」と新作の小品のみで、良かったのだけど、どうにも物足りない。代わりにアルフレッド・ジャーのインスタレーション作品「サウンド・オブ・サイレンス」が強烈に印象深かった。これは観ることが出来て良かったと思う。

あとは、付随する大きな出来事として藤幡正樹の行動について(http://www.art-it.asia/u/ab_fujihatam/z7Vx65kGLhZrYbT2f1AM/)。公のレベルで、あるいは個人のレベルで、ディレクターとの間にどのような齟齬があったのかについては全く関心がない。そんなものは部外者には関係がない。しかし、ここから社会的な装置としてのフェスティバルの役割について、前向きな議論が行なわれるのであれば今後も注目したい。声明文を読んでも、現段階では問題点がいくつか混同されているような気がするので、このくらいのことしか言えない。

追記(2009/11/5 16:00):
この藤幡正樹の出品辞退の問題について、ディレクターである住友文彦のコメントが配信された(http://www.stickam.jp/video/179438051)。映像を観ながら、簡単にまとめてみた(下記は私のバイアスがかかっていることに注意して、出来ればリンク映像そのものを観て下さい)。

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・立場としては、行政の人間を含めた実行委員会から、ディレクターの業務を任命されているということ。
・今回のディレクターの業務が、キュレーションだけでなく、マネージメントにも一部関わるものであったこと。
・予算が約2億であること。5500万がキュレーションチーム(作家の制作費など)、3500万が会場施行費、9000万が事業費(これは、人件費等を除くと6500万)である。予算的には大きいものではなかったということ。
・そのために、外部の経験豊富な業者に委託するのではなく、若いスタッフ中心のアドミニストレーションになったということ。そのために経験不足な部分があったことは認める(しかし、それによるプラス面もあった)。また、展示レイアウトの変更に不具合があった部分は認める。それらの要因から、作家との間の信頼関係を結ぶことが出来なかったのであれば残念である。
・ボランティア(サポートクルー)について。市民ボランティアが参加するということは、市民と行政の捉え方において、違いがある。そのため、個人のレベルでは、それに見合った見返りを得ていないという意見もあるかと思う。
・フェスティバルは展覧会と違って、そこに広がりが求められる。よって内容的に総花的なものにならざるを得ない。しかし「いま世界では、こんな作品があるんですよ」という、啓蒙的なものにはしたくなかった。この展覧会で観客がいろいろな映像の使い方を知って、自分たちで声を上げることを期待する。それはラボスペースにおける市民の映像発信の取り組みにも現れている。
・コンセプトについて。映像はジャンルではなく道具であると考える。ジャンルであれば歴史的なコンテクストは重要視されるが、このフェスティバルでは道具(映像)をどう使うかという点を重要視している。現在、さまざまなジャンルにおいて映像は横断的に使用されている。このフェスティバルも横断性を掲げている。しかしこのフェスティバルは、多くのジャンルを並べることで、映画や美術の制度の問題を重視したかった訳ではない。そうではなく、作り手自身のなかで、映像で何が出来るのだろうかという創造的な意識(DEEP IMAGES)が、ジャンルに関係なく立ち上がってくるような、そんなフェスティバルを目指した。確かに映像は表層、フレームのなかにしか存在しない。しかし映像はその外側(社会性)と関係を持っている。ラボスペースでの活動がそのような社会的な深さを持ったものになることを希望する。
・今後もこの問題についてはトークの場を設けて、話し合って行きたい。

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こうして見てみて、「ラボスペースにそんな重要なコンセプトが込められていたのか」という感想をまず持った。成る程、このコンセプトには概ね同意できるし、今日において有効性のあるものだと思う。ただし、ラボスペースを含め、フェスティバルが狙い通りの社会的機能を果たすかどうかは、会期中に試される課題だろう。そして、このコンセプトの社会的な深さの部分に、藤幡正樹がマッチングしなかったことが、すべての原因であったということなのだろうと思う。これについてはリンク先の声明文の1(http://www.art-it.asia/u/ab_fujihatam/z7Vx65kGLhZrYbT2f1AM/)を参照のこと。ここで使われている「コンテクスト」という言葉は、単に展示場所の問題ではない意味を、図らずも含んでいるように思う。私はそこに、両者のすれ違いを感じ取った。
内部の運営的な部分での齟齬については本当にどうでもいい。結局、予算規模の話になってしまう。

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