Burzum – Belus


(Byelobog Productions/CD)

まず、本作の音楽について述べておくと、これはヴァーグが服役を終えて制作した、Burzumの7thアルバムであり、復帰作である。Burzumは4thアルバム「Filosofem」を最後に、バンドサウンドのブラックメタルを放棄し、5~6thアルバムではシンセサイザーによるアンビエントを演奏していた。これは刑務所内にギターを持ち込むことが出来ないためであるとされてきた。しかし、この制限は音楽的にはネガティヴな方向に働くどころか、Burzumの音楽におけるもう一つの重要な側面であったアンビエント路線を押し進める方向で作用したといえる。マーシャル・インダストリアル/ネオクラシカル/ネオフォークとも共振するようなモチーフを持つBurzumのアンビエントは、その音楽の異様さとともに記憶されてよい。しかし、本作にはシンセサイザーによるアンビエント作品は収録されていない。ここで演奏されているのは、Burzumらしい陰鬱さをもった、反復を中心としたプリミティヴなノイズ混じりのブラックメタルが中心である。「Belus’ Doed」「Glemselens Elv」「Kaimadalthas’ Nedstigning」「Keliohesten」。勿論どれも素晴らしい楽曲なのだが、Burzumの影響下にあるバンドがこれだけ増えてしまった現在からすると、これらは最早スタンダードですらあると感じられる。また「War」を思わせるスラッシュメタル的な「Sverddans」といった楽曲もある。しかし、その一方で3rdアルバムにおける「Tomhet」のようなアンビエント的要素を、シンセサイザーを使用せずに展開させるという試みもみられる。それはアナログ盤D-Sideにおける「Morgenroede」から「Belus’ Tilbakekomst」へと至る、一連の楽曲において聴くことができる。「Morgenroede」の引き延ばされた反復から、そのままギター・ドローンによって「Tomhet」を演奏したかのような「Belus’ Tilbakekomst (Konklusjon)」へと展開する。この一連の楽曲は、言葉通りの意味でアンビエント・ブラックメタルと呼ぶことができるだろう。
教会への放火、殺人、そして脱獄といった彼の犯罪は支持できるようなものではないし、現在はどうなのか知らないが、彼の民族主義への傾倒も、異なる文化を持つ私にとっては共有できる事柄ではない。ある種のブラックメタルのモチーフが、反キリストのスタンスからペーガニズムを経由して民族主義、国家社会主義へ至るという過程は、社会学的には興味深いものであるのかもしれないが。では、単に音楽としてのみBurzumの音楽を聴いているのかと問われると、そうでもない。初めてBurzumの音楽を聴いてから15年もの間、私がここまでこの音楽に惹き付けられてしまったのは何故か? 音楽の素晴らしさは前提として思い返してみると、それは彼があまりに過剰な行動によって自分自身を何ものかへと差し出しているかのように見えたから。自分自身を有用性に回収されない何ものかへと差し出し、投げ捨てているように見えたからではないかと思う。過去の私にとって、Burzumはそのように読み取れた。

『我々のなかのごく少数の者だけが、この社会の巨大な機構のなかで、自分たちの本当に子供じみた反応にこだわっていて、この地球上で自分たちが何をしているのか、どのようないたずらが自分たちに仕掛けられているのかと依然素朴に自問している。この人たちは、空や絵画の謎を解くために、星空の奥や画布の背後にまわってみたいと思っているのである。あるいは、ちょうど板塀の隙間を見つけて中を覗き込もうとしている子供たちのように、この世界の裂け目からその中を覗いてみようとしているのである。そのような世界の裂け目の一つが供犠という残酷な習慣なのだ。』
ジョルジュ・バタイユ「芸術、残虐の実践としての」/「純然たる幸福」酒井健:編訳より

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