[+]上映会レヴュー

Makino Takashi + Art Center Ongoing presents.
7 Experimental Films screening.
[+]
2010/09/19(sun),20(mon) 14:00 17:00 19:30~
at Art Center Ongoing

牧野貴による実験映画上映会である[+]が、本年度も開催された。しかも、今後も継続的に[+]としての上映活動を行ってゆくとのこと。私は現在の映像と芸術に対する疎外感を徐々に大きくさせながら、歴史を調査することに逃げ込んだところのある人間である。そんな人間にとっては、現在の国内においてこのようなタイプの上映会が存在すること自体、大げさに言うつもりはないが、奇跡のようなものだ。自意識にも身内に向かった意識にも絡めとられず、芸術・文化の全体性に対しての責任を果たすということが、どれほど困難なことか。
さて、今年は神楽坂から場所を変えて、吉祥寺のArt Center Ongoingで開催。「空」をテーマとしたプログラム構成となっている。以下、上映順にて。

Adele Horne [Quiero Ver] 2009 6min (US)
毎月13日にアメリカのモハーヴェ砂漠に集う人々の、ある行事をとらえた、一種のドキュメンタリー作品。彼らは、まず太陽をボラロイドカメラやビデオで好き勝手に撮影する。次にそのポラロイド写真や映像を互いに見せ合いながら、口々に「ここにマリア様の姿が見える、ここに聖霊が見える」と述べ、彼ら自身の意識によって投影された超越的存在のイメージについて楽しげに語り合う。そして作家は、この様子を彼らの外側から、メタ的なポジションによって見つめる。
この作品からは、有限な人間がその有限さゆえに、ある種の超越性を希求するという、宗教的構図を読み取ることができるだろう。しかし、この場に集った彼らからは、不思議と宗教的・カルト的な印象を受けない。それは何故かといえば、この場において超越的存在のイメージが、そこにいる人の数だけ、複数存在していることに起因する。彼らは自らの見出した超越的なものについて語るが、それは具体的には異なるイメージとして立ち表れている。皆の意識のなかで超越的なものは存在しているが、それは複数性を持たされたままに統一化されない、そのような状態に留めおかれている。この作品は、そのような人々の姿を介して、特定の宗教的枠組みを飛び越えた、普遍的な人間の性質について考察しているといってもいいだろう。

MakinoTakashi [Inter View] 2010 22min (JAPAN)
music by Tara Jane O’Neil & Brian Mumford
牧野の映画では、常に撮影された対象体のイメージが溶け出す。それは霧散するかしないかの極めて不安定な状態にある。そして、この溶け出したイメージの混沌から、あるイメージを掬い上げるのも、そのままイメージを霧散させるのも、映画を観ている観客の自由に委ねられる。そう考えると「Quiero Ver」で人々によって撮影されていた聖霊の写真と、牧野の映画は、その目的において共通性があるといえよう。両方とも個人が想像することが可能なものとしての、イメージの問題に関わる。そして、そこにおいてイメージがどのような姿を取るかは自由とされており、結果的にイメージは見た人の数だけ存在することになる。ひとつのスクリーンの前で、複数の人間が複数のイメージをそこ見出す。考えてみれば、芸術・文化とは単なる気晴らしや癒しなどではなく、バラバラにされた根無し草のようなひとりひとりの人間が、個人の有限性をこえて、共有できるものを媒介して全体性を獲得しようとする行為ではなかったか。(歴史も、国家も、宗教も、根底は同じだ。)牧野の映画とは、イメージと全体性についての一つの答えなのかもしれない。
映画について詳しく述べると、今回牧野が取った方法は、実験映画史的にいうならば、空をフレーム一面に撮影して、空のイメージを異化するという点において、Peter Gidalの「Clouds」との近似を指摘できる。牧野は本作で青空をフレーム一面に撮影し、そのイメージをさらに抽象化している。参照すべきものが何もない平坦な視界のなか、やがて青空を見ていたはずの観客は、スクリーン上の粒子の運動のなかでイメージの混沌に遭遇する。ライトグリーンをベースとしながら、その上で微細な運動を続けるブルーの粒子。(しかし、ごく稀にフレームを横切った海鳥の姿によって、意識は青空へと引き戻されたりもする。)そのような意識の振れを引き起こしながら、映画は混沌の度合いをミクロなレベルで高めてゆく。やがて草花、海鳥の群などのイメージが混ぜ合わされ、終盤においてイメージは沸点に達する。まさに観る人の数だけイメージが立ち表れる、そのような映画だった。牧野が次のフェイズに進んだことを知らしめる重要作品。
ちなみに本作の音楽は Tara Jane O’Neil と Brian Mumford による、溶岩のようなドローン・ノイズであり、イメージの混沌としての映像と相互的な関係を結んでいた。

Travis Wilkerson [National Archive V.1] 2001 15min (US)
music by Jim O’Rourke
これも重要作品。牧野の「Inter View」の青空は、Travis Wilkersonによる痛みの青空へと繋げられる。この作品はファウンドフッテージによって構成されており、ベトナム戦争にまつわるフィルムが引用される。そのフィルムとは、アメリカ空軍爆撃機の照準器に取り付けられたカメラによる記録映像である。Travisは爆撃機が急降下しながら地表の家屋や兵士を攻撃するフッテージを淡々と繋ぎ合わせ、その攻撃におけるターゲットの名称を墓碑銘のように挿入してゆく。発射による振動で照準マーカーがブレて、フィールドに着弾煙が上がる。誰かが居たはずの場所に。そしてこの映像に重ねられる音楽は、Jim O’Rourkeによるミニマル・ドローンの名盤である「Happy Days」。(この盤はJohn Faheyによるレーベル「Revenant」から1997年にリリースされており、John Fahey的なアメリカルーツ音楽と、Tony Conrad的なアメリカ実験音楽におけるミニマル・ドローンの併置が試みられている。)冒頭の穏やかなアコースティックギターによるフレーズの繰り返し、そして覆い被さるようにしてハーディガーディによるドローン・ノイズが余白を浸食してゆく…。Travisがこの音楽を使用したのは音楽的な理由のみではあるまい。これはあまりに明確な、そして強烈なアメリカ批判である。延々と繰り返される爆撃の記録映像をTravisが「幸せな日々」と呼ぶとき、Jimが音楽において「幸せな日々」と呼んだものは何であったのかを考えずにはいられない。それらは恐らく無関係ではない。
最後のショットで爆撃機は機首を上空へと持ち上げ、Michael Snowの「Central Region」のように、空を旋回する。非人間的で冷酷な照準器の眼(カメラ)は、その旋回のなかで最後に美しい雲海を映し出すのだが、その落差があまりにも痛々しい。そして、ドローン・ノイズも、痛みの空の映像も、突如断ち切られて映画は終わる。Travisは他にもキューバの映画監督Santiago Alvarezについての作品なども制作しているのだが、それに劣らず本作は極めて批評的・政治的な作品となっていた。
「Happy Days」は過去にレヴューしているのでリンクを貼っておく。
https://centralregionblog.wordpress.com/2007/07/27/jim-orourke-happy-days/

Johann Lurf [The quick brown fox jumps over the lazy dog] 2009 3min (Austria)
ファウンドフッテージ繋がりということで、TravisからJohann Lurfへ。この作品は、Johannが(6年間続けた)映写技師の仕事の傍らで拾い集めた商業映画の35mmフィルムの切れ端を再撮して繋げ合わせたものであり、恐ろしい速度で膨大な映画の断片が映し出される。ちなみにスプロケットホールやサントラも含めて再撮している。このフレームという窓を通して観客が見たであろう(6年分の)イリュージョンの数々は、爆発的な速度のなかで擦り切れ、イメージは均質化される。そして、この作品は映画という文化的装置の機能、すなわち集団としての観客をイリュージョンのなかに取り込む機能を明らかにするだろう。歴史的に構造映画には、このようなイリュージョンを解除する役割があるが、それを極めてパンキッシュな形でやってのけている痛快な作品である。

Ben Russell [Rock Me Amadeus] 2009 4min (US)
music by Falco
ウィーン・アクショニズムの代表的作家の一人、Otto Muehlによる「Kardinal」をオリジナルとする、Ben Russellのカヴァー。(Muehlについては、ネットを検索してもらえばその異様な遍歴を知ることはできると思うので、ここでは割愛する。)この作品についてはオリジナルもカヴァーも、どちらもネット上にて見られるので確認して欲しい。実験映画作家によるカラオケ映像の上映という、謎の企画のために制作された作品ということで、音楽はFalcoの「Rock Me Amadeus」のカラオケである。オリジナルと比較して分かることは、かなり細かいところまで再演しているということであろうか…かなり忠実である。ウィーン・アクショニズムのグロテスクさと危険性をユーモアによって異化してしまった怪作と言っては褒め過ぎか。

http://vimeo.com/8096763
Benによるカヴァー(カラオケヴァージョン)。Ben Russell – Rock Me Amadeus

http://www.ubu.com/film/muehl.html
Muehlによるオリジナル。上から六つめ(グロテスクなので注意)。Otto Muehl – Kardinal


そして、カラオケ映像の上映の様子。楽しそうに歌っている(笑)。karaoke video commisioned by PDX Fest , May 2009

Tamaki Shinkan [Africa Ⅰ] 2010 10min (JAPAN)
田巻の作品は、昨年と同じくイメージそのものを破棄しかねないレベルで、フィルムのマテリアル性を前景化させる。ゆっくりと歩くゾウの皮膚の皺を撮影した僅か4秒のフィルム素材を、ループと変則的な編集によって11分もの長さに引き延ばすのだが、そのなかで、イメージの質感は徐々に変化してゆく。スタートの段階からハイコントラストで白と黒に分かれていたイメージは、徐々に滲んでゆき、変則的な編集の効果もあって時間の経過とともに抽象性がその度合いを増す。そして、最終的にモノクロのパターンの蠢きと化した異様な運動は、対象体のイメージから乖離する。このようなフィルムのマテリアル性に拘るフィルムメーカーは、意識としては映像作家であると同時に造形作家に近く、彼らの作品は映画と絵画の中間地点にあると言ってよい。これもまた映画の開かれた可能性であることは確かだが、この方向は(昨年も同じことを書いたが)残りの引き出しの少ない、困難な道である。しかし、イメージそのものを破棄しかねないバランス感覚と変則的な編集は秀逸だと思うので、残りの引き出しを全て開けきってしまって欲しい。印象として付け加えるなら、このイメージを破棄しかねないスタンスに飯村隆彦の「視姦について」を思い出した。

Ben Rivers [I know where I’m going] 2009 30min (UK)
人里離れた山奥にて暮らす、奇妙な地質学者のもとを訪ね、撮影したとされるドキュメンタリー作品。この地質学者は世捨て人のように暮らしながら、人類の歴史などは一瞬のものに過ぎないと考え、例えば人類は数世紀後に絶滅して、やがて遥か未来の探索者が人類の痕跡を地層のなかから発見するだろうよ、と語る。彼は、彼が例えに出した未来の探索者のように人類を外側から眺め、終わりつつある人類を見捨てている。これだけならば、本作は奇妙な世捨て人をモチーフとしたドキュメンタリーということになるが、部分部分でSF映画のサウンドトラックをわざわざ流用しているあたりに、この地質学者の存在自体、作品の構造自体が虚構ではないかという疑念が湧く。(しかし、それは疑念のまま留めておこう。)
本作も彼らしいショットの美しさは冴えており、オープニングの雪に埋もれた廃車、雪の森を歩く地質学者など、終末的なイメージが作品全体を覆っている。地層の中から発見されるであろう人類の痕跡とおなじように、この地質学者も風景の一部として、雪に包まれた自然の中に埋もれてゆく。

眩しい空を見上げるような作品に始まって、墜落するかのように終末的な作品によって締められる、よく練られたプログラムだったと思う。特に「Quiero Ver」と「Inter View」を並べたのが良かった。
狼少年にならないように自戒をこめて述べるが、遠くない将来、ささやかな雑誌を作ろうと思っている。そのなかで、この[+]ような運動を形として残してゆきたいと思っている。

Advertisements