個人版リリース開始:カタログ+DVD「Vital Signals ヴァイタル・シグナル」


カタログ+DVD「Vital Signals ヴァイタル・シグナル 日本の初期ビデオアート」
発行:2010年
制作:Electronic Arts Intermix (EAI)
個人価格:8,400円(本体価格8.000円)
http://www.amky.org/japanese/store/index.html
http://amkynews.sblo.jp/article/43463788.html

ライブラリー版に続いて、個人版のリリースが開始されました。これで日本における初期ビデオアートの歴史に、誰もがアクセスできるようになった訳です。本当に良かったと思います。誰でもアクセスできるというのは、一定のコンテクストを形成するうえで、とても重要なことだと思います。恵比寿映像祭にあわせて写真美術館のショップにて、一足早く販売されています。モニターでディスプレイされているので、取りあえず見てみたいという方は店頭まで足を運んでみて下さい。何卒よろしくお願いします。
(いくつかミスがありましたので、近々正誤表を作成して公開したいと思います。)

カタログ:
・ごあいさつ(Lori Zippay/EAI、ディレクター)
・初期ビデオアートのメディアに対する批評性(阪本裕文)
・境界の狭間で:1970年代の日本のビデオ(Barbara London/ニューヨーク近代美術館メディア・パフォーマンス部門アソシエート・キュレーター)
・映像の映像:初期の日本のビデオ・アートに見られる画像中の画像(Glenn Phillips/ゲッティー・リサーチ・インスティテュート建築・現代美術部門、シニア・プロジェクト・スペシャリスト、コンサルティング・キュレーター)
・飯村隆彦インタビュー(阪本裕文)
・ビデオひろばについて
・作家履歴・作品説明
(B6変形,103ページ,日本語/英語併記)

DVD:
1.テクノロジーの言語
・CTG『コンピューター・ムービー No.2』 1969年/8分/白黒/サウンド/オリジナル:16mmフィルム
・山口勝弘『イメージモデュレーター』1969年(再制作)/45秒/カラー/サウンド/インスタレーションの記録映像
・山口勝弘『大井町附近』 1977年/1分30秒/カラー/サウンド/インスタレーションの記録映像
・松本俊夫『メタスタシス 新陳代謝』1971年/8分/カラー/サウンド
・安藤紘平『オー!マイ・マザー』1969年/14分/カラー/サウンド/オリジナル:16mmフィルム
・飯村隆彦『カメラ、モニター、フレーム』1976年/17分15秒/白黒/サウンド
・山本圭吾『Hand No.2』1976年/7分50秒/白黒/サイレント

2.オープン・テレビジョン
・松本俊夫『マグネティック・スクランブル』1968年/30秒 /白黒/サイレント/(映画《薔薇の葬列》より)
・ビデオアース東京『橋の下から』1974年/13分

3.ボディー・アクト
・出光真子『おんなのさくひん』 1973年/10分50秒/白黒/サウンド
・かわなかのぶひろ『キック・ザ・ワールド』1974年/15分/白黒/サウンド
・山口勝弘『Eat』1972年/1分30秒/白黒/サウンド
・今井祝雄『ビデオ・パフォーマンス1978~1983』1978-83年/15分35秒/カラー/サウンド
・小林はくどう『ラプス・コミュニケーション』1972年(1980年再制作)/16分/カラー/サウンド
・村岡三郎+河口龍夫+植松奎二『映像の映像-見ること』1973年/12分30秒(11分20秒抜粋)/白黒/サウンド
・和田守弘『認知構造・表述』1975年/20分/カラー/サウンド
(収録時間 162分)

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Group Ongaku – Music of Group Ongaku


(HEAR sound art library / CD)

60年代の反芸術パフォーマンスの流れを、芸術制度の外側から、あるいは社会の下部からの直接行動として読み直した大著「肉体のアナーキズム」において、著者である黒ダライ児は、60年代の流れを以下の二つの流れに分けているように思える。まずひとつに、“反芸術パフォーマンス/アングラブーム/万博破壊共闘派へと連なる運動”の系。もうひとつが“草月アートセンター/インターメディアとテクノロジー/大阪万博へと連なる運動”の系である。無論、この大著が焦点を合わせるのは基本的に前者――例えばゼロ次元であり、九州派であり、糸井貫二である。この視点は、60年代を多層的に読むうえで、極めて興味深い示唆を与えてくれるものだといえる。

この流れのなかに〈グループ音楽〉は、どのように収まるのだろうか。〈グループ音楽〉の母体となる動きは、ライナーノーツによると1958年11月に小杉武久と水野修孝が東京芸術大学学内において即興演奏を開始することからはじまっている。そこに塩見千枝子(允枝子)、刀根康尚らがメンバーとして加わり、集団即興演奏の試みを繰り返す。そして1960年9月の公演を機に名称を〈グループ音楽〉とする。翌年の9月には草月会館ホールで「即興音楽と音響オブジェのコンサート」を開催し、その後も草月の企画などでイヴェントや演奏活動を行った。このようにして見ると、〈グループ音楽〉のメンバーらは“草月アートセンター/インターメディアとテクノロジー/大阪万博に連なる運動”の系にいるかのようにも受け取れるが、決してそうではなかった。日大映研から生まれた共同体である〈VAN映画科学研究所〉は、60年代において幅広く前衛芸術家たちが交錯する場として機能したが、小杉と刀根はこの場を介して、様々な領域の人々との共同作業を果たしている。足立正生や飯村隆彦のフィルムへのサウンドトラックの提供。また、ヨシダ・ヨシエの呼びかけによる「敗戦記念晩餐会」(1962年)、九州派によって福岡で開催された「英雄たちの大集会」(1962年)、京都で開催された「鎖陰の儀」(1964年)といった合同パフォーマンスへの参加。その一方では、「読売アンデパンダン」(第十四回、1962年)への“出品”なども行っている。そのようにして捉えるならば、〈グループ音楽〉とは単なる音楽集団ではなく、反芸術やインターメディア、音楽などが混在する地点における、ひとつの集合体であったようにも思える。

このCDには1960年5月8日に水野宅で録音された「オートマティズム」と「オブジェ」、1961年9月15日の「即興音楽と音響オブジェのコンサート」における「メタプラズム・9−15」が収録されている。そこに聴き取れるものは、「オートマティズム」と「オブジェ」であれば極端にエフェクトされた断片的な具体音や人声であり、「メタプラズム・9−15」であればヴァイオリン、ピアノ、チェロ、サックス、ギター、テープ、ドラム等による集団即興演奏である。いずれも国内における戦後最初期の音楽的実験であり、内容としても多様なサウンド素材と、隙間の多い演奏が楽しめる高内容な作品であると言える。しかし、これを単なる音楽的実験のみに留めるのではなく、反芸術から路上へと連なって、芸術制度を外側から揺るがした動向のなかにおいて聴き取ることも、また必要ではないかと思える。

牧野貴+ジム・オルークDVD 発売記念イベント

出演:牧野貴、飯村隆彦
日時:2月18日(金)20:00スタート 21:30終了予定
入場:先着30名、予約可、無料
於:ディスクユニオン新宿本館8F特設会場
(ディスクユニオンにてDVDをお買い上げのお客様は先行予約が可能です。)
http://blog-shinjuku-alternative.diskunion.net/Date/20110206/

ネットショップもいいんだけど、自分としてはユニオンで、しかも新宿本館6Fで牧野貴+ジム・オルークDVDが販売されればいいな…と思ってたら現実になりました。しかも牧野貴と飯村隆彦の対談イベントまで。ユニオン仕様ということで、ジム・オルーク、小杉武久、刀根康尚といった実験的な音楽家と、実験的な映画作家がどのように関係を切り結んできたのかを中心に話を聞ければと思います。今まで多くのレコとの出会いを与えてくれたユニオンへの恩返しでもあります。

Shadows of Evil – Black Metal Disc Guide


ユニオンが刊行したShadows of Evil – Black Metal Disc Guideは、メタル雑誌ではフォローし切れないブラックメタルの多様性をかなりの部分までフォローしており、充実した内容だった。マイナーな国々まで幅広く目を配りながら、アンダーグラウンドなブラックメタルや、ペイガニズムを経由して民族主義へと思想性をスライドさせたNSBM、ヴァイキングメタル、シューゲイザーブラックまで。こうして俯瞰すると、ブラックメタルは音楽形式としも、一つの文化としても実に幅広い多様性を持ちながら、極端化されたものであると改めて感じる。

初期から活動するブラックメタルバンドには、アンダーグラウンドに属しながらも、メタルとしてメジャー化することをある程度までは拒否しないというような、メタル文化そのものに対する伝統的な信奉あるいは憧憬があったように思える。勿論ネガティヴな意味でいう訳ではないが、大掛かりなフェスティバルに出演する様なブラックメタルバンドからは、そういった印象を受けた。アルバムリリースを重ねるごとにサウンドプロダクションが高品質化してゆくという変化も、それの別側面といえる。しかし、その一方でアンダーグラウンドであることを徹底するようなスタンスがブラックメタルには存在していた。そもそもアンダーグラウンドという言葉を文化において使用する場合、それは言い換えれば社会的な最小単位としての個人、および個人が生活する場所、社会空間としての路上に属する文化を指すものであるといえる。それは単なるマニアック趣味などではなく、極めて社会的なものである。

上の写真は、ピーター・ベスト( http://www.peterbeste.com/home/ )の作品のなかでも、私が最も気に入っている写真である。彼の写真は、日常的な社会空間というフレームの中でブラックメタルのミュージシャンを捉えている点で面白いものだと思う。私がブラックメタルに関心を持つのは、音楽的な側面に加えて、このような社会的なフレームの中においてである。このような、アンダーグラウンドであることを徹底する傾向こそが、ブラックメタルを音楽的な面でも、社会的な面でも極端化させてきたのではないだろうか(その極北に存在するバンドといえば、やはりIldjarnであったと思う)。そのスタンスは、言うまでもなくパンク・ハードコア、あるいはノイズ・パワーエレクトロニクス等々の音楽と同質のものだと思う。Shadows of Evil – Black Metal Disc Guideからも漏れた、さらにマイナーなバンドや盤はまだまだ深みの中に存在する。それは、実は驚異的なことだ。

Aluk Todolo – Finsternis


(Utech Records / CD)

インドネシアのトラジャ族は、「アルクトドロ(Aluk to dolo)」と呼ばれる独自の信仰を有している。精霊崇拝と、豪奢な財を蕩尽する独特の生死観によって知られるこの信仰は、キリスト教の流入以降もトラジャ族の社会の中に根付いているとされる。

バンド名をそこから頂いた、このフランスのバンドは何とも奇妙な音楽をやっている。オカルト・ブラックメタルとも呼ばれるが、しかしながらブラックメタル的なある種の反社会的な象徴性をこのバンドから感じることは殆どない。むしろこれはSunn O))) 以降の文脈にある音楽と理解したほうが話は早いだろう。ドゥームメタル、ドローンアンビエントと呼ばれるような、重苦しさの中で聴き手の意識を混濁させるような、あのスタイルの音楽である(ちなみにヴォーカルは無し)。だからといって彼らは単純にドゥームメタル、ドローンアンビエントの範疇に留まっている訳ではなく、初期のAsh Ra Tempelを始めとしたジャーマンロックからの影響も顕著に聴き取ることが出来る。

本作は1st7インチと1stアルバムを経ての2ndアルバムであり、Neuのハンマービートの様に淡々と反復されるドラミングに刻まれて、ドローン化したベースとギターが長い時間をかけて蠢きながら変化してゆく。本作以前には、まだドラミングやドローンノイズにある種の激しさが存在していたのだが、本作ではその様な派手さは削ぎ落とされ、さらに深く沈降したような印象が強い。もはや各楽曲単位でどうこう言うような音楽ではなくなっており、アルバム一枚を通しての催眠的な反復の中で、擬似宗教儀式のような体験を聴き手に与えてくれる。

本作をリリースしたUtech Recordsはアートワーク・音楽的な指向性において一貫したスタンスを提示しているレーベルであり、こちらも興味深い。
http://utechrecords.com/ 
この後バンドはSaturnalia Temple、Nightbringer、Nihil Nocturneとのスプリットを、ノイズ&ブラックメタルレーベルであるThe Ajna Offensiveからリリースしている。

Germaine Dulac – La coquille et le clergyman


(Light Cone / DVD)

本作はジュルメーヌ・デュラック(Germaine Dulac)の『貝殻と僧侶/La coquille et le clergyman』 (1928)の新しいDVDバージョン(http://www.lightcone.org/fr/la-coquille-et-le-clergyman.html)であるが、どうしてわざわざDVDを購入し直したのかといえば、サイレントであったオリジナルに、新たなサウンドトラックが加えられているからなのだけど、これが興味深い。メニューからは三つのサウンドトラックを選択出来る。パスカル・コムラード(Pascal Comelade)、トマス・コナー(Thomas Köner)、Iris ter schiphorst。最後の音楽家は知らないが(現代音楽系のコンポーザーらしい)、前の二人が『貝殻と僧侶』に音楽を付けるとなれば聴きたくなっても仕方ない。

映画の方は、アルトーの脚本による、「最初のシュルレアリスム映画」とも呼ばれる古典的アヴァンギャルド映画。しかし、デュラックによって自分の脚本が内面的な夢のレベルへと矮小化されたと感じたアルトーは激怒し、上映会場に現れて暴言を吐き散らかしたとされている。内容の方は、ある男が、ある女と一緒にいた僧侶を嫉妬から殺害するというエピソードを基軸に、奇妙な出来事とイメージが溢れ出してゆくというもの。確かにアルトーが不満を持ったように、映画自体の安定性が脅かされることはなく、「夢」として説明付けることが可能な、ある種の整合性を持った映画といえなくもない。とはいえ、本作に先行する前衛的な短編作品で知られる、アヴァンギャルド映画作家としてのデュラックの作品が持つ革新性は、決して低いものではない。(デュラックの他作品のプレヴューも含めて以下で観ることができる。その幅は広い。 http://www.lightcone.org/fr/cineaste-99-germaine-dulac.html

問題の音楽の方についてであるが、パスカル・コムラードの音楽は、玩具箱をひっくり返したような、ローファイでポップな音楽的断片の羅列。最初は意外性があり面白くもあったが、だんだんとサントラが画面の説明になっているというか、音楽が映像に説明を加えているという関係が、分かりやすく透けて見えるように思えてきて、退屈してしまった。しかし、トマス・コナーの音楽の方は飽きなかった。トマス・コナーはMille Plateauxからのリリースや、Porter RicksとしてのChain Reactionからのリリースでも知られるが、メディアアーテストとしても『Nuuk』(2004, the Tiger Cub Award (best short film) during the International Filmfestival Rotterdam 2005)などのビデオ作品を制作しているマルチな作家である。そちら方面の活動をどう評価するかはさておき、彼はサイレント映画にサウンドトラックを付けるプロジェクトも行っており、これもその一環である。

彼の音楽は、基本的に砂塵のような電子音によるドローンなのだが、これがフィルムとの面白い組み合わせになっている。サイレント映画のサウンドトラックにありがちな、コミカルであったり、抒情的であったりする室内楽とは異なる、フィルムを貫く重苦しいドローンノイズ。サウンドトラックとフィルムが異物として作用し合い、それによって(シュル的にいうならば)現実ともう一つの現実の界面としてのフィルムは揺らぎ、痙攣する。それなりの音響とプロジェクションで観るならば、このDVDを観る者は現実が異化されてゆくような感覚に陥ることが出来るだろう。傑出したコラボレーション——とまでは行かなくとも、なかなか面白い試みには違いない。