第3回恵比寿映像祭:ある場所、ある時間 ジェームズ・ベニング 《ルール》

ジェームズ・ベニングは、固定ショットによって風景を撮影したフィルムでよく知られる、アメリカの代表的な実験映画作家である。彼が風景をフィルムに捉える際のその手法は、厳密なコンセプトにおいて一貫しており、一切の演出や作為といったものが介入しない、ある時間的な“深さ”を持った場所の記録となっている。国内では、イメフォや愛知文化芸術センターにおいて、カリフォルニアの自然・郊外・都市の風景を、各ポイントでフィルム1ロールずつ撮影し、それを厳密に繋げた三部作である「カリフォルニア・トリロジー」(1999−2002)などが既に紹介されている。

ルール/Ruhr(HD Video, 2009)
本プログラムでは彼の二時間にも及ぶ新作「ルール」が上映される。この新作は16mmフィルムではなく、新しい試みとしてHDビデオによって撮影されている。また、撮影場所はアメリカではなく、ドイツのルール地方である。このことから、制作条件の変化が作品に少なからず影響を及ぼすことが予想され、個人的には大きな関心を抱いていた。

まず前半部は以下のショットによって構成される。
・ショット1:トンネル内の道路/道路を往来する車、歩行者、自転車
・ショット2:工場/コンベアーのうえを流れていく資材
・ショット3:(空港近くの)林のなかから見上げられた空/数分おきに上空を通過する旅客機、揺れる木々
・ショット4:モスク内での礼拝/信徒たちの礼拝の様子
・ショット5:野外彫刻/彫刻に描かれたグラフティを消す作業員の様子
・ショット6:町の路地/犬を散歩させる住人、乗用車の車庫入れ、遠くを通過する電車

ここまでは従来の風景撮影のスタイルと大きな違いはない。固定ショットの持続時間は、ビデオの使用によって今までよりも長くなっているが、基本的なコンセプトは同義である。すなわち10〜20秒程度の凝視では見えてこないような、場所が持つ時間的な“深さ”を、映画的時間の持続のなかで浮かび上がらせるということ。そして、そのような“深さ”を観客に映画的経験として与えることである。例えばある駅の改札口は、一見すると何の変哲もないただの改札口に見えるかもしれないが、その場所にしばらく留まっていたとしたら何が見えてくるだろう。一定の間隔でホームからあふれてくる乗客、待ち合わせで退屈そうに立っている人、あるいは道に迷った通行人が何度もうろうろと目の前を横切っているかもしれない。そのような、ある程度長時間の持続によって見えてくる場所の性質。あらゆる場所は実に様々な関係性の絡み合いによって成り立っているのであり、長時間の持続によって、ある性質や関係性をそこに認めることが可能となる。(また、ベニングがHDビデオを使用したのも、そのような細かな出来事を余すところなく撮影するためであったといえるだろう。)

前半部のショットのなかでも、特に印象的だったのがショット3における、旅客機が通過した後に、遅れてやってくる風が揺らす木々の葉。そして、ショット4における低い位置に設置されたカメラのフレームが、立ち上がった信徒の背中によってすっぽり覆われてしまう箇所だった。これらは、いずれもある程度の時間的持続によってはじめて認めることができた、その場所(撮影ポイント)に固有の出来事であったといえるだろう。

そして、問題は後半部である。
・ショット7:ルール地方にある石炭工場の巨大な煙突/定期的に吹き出す煙、日没

この後半部のショットにおいてベニングは、長時間撮影が可能というビデオの特性を最大限活用して、巨大な煙突を一時間にわたって固定ショットで撮影するという極端な試みを行っている。前半部は6つのショットが、それぞれの撮影ポイントの時間的な“深さ”を数分間の持続によって浮かび上がらせていたのだが、この後半部では定期的に煙が吹き出すという出来事が繰り返されるだけである。吹き上がる煙に慣れてしまえば、単調な時間が持続してゆくかに見える。だが、やがて一時間の持続によって日が暮れてあたり一面が暗くなってゆくという変化がおこる——ここでベニングは前半部よりもさらに長い時間的スケールによって、この場所にまつわる諸々の社会的関係性を超えて、メタ的に、この地方をひとつの空間として俯瞰しようとしていたのだといえるだろう。(これは知人の指摘なのだが、この作品においてベニングは「ルール地方における石炭をめぐっての歴史を、あの巨大な煙突に表象させていた」ともいえる。鋭い指摘だと思う。だとすれば、ベニングがメタ的に俯瞰しようとしたものが何であったかも理解できる。http://ja.wikipedia.org/wiki/ルール地方

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第3回恵比寿映像祭:眼差しの系譜 ハルン・ファロッキ特集

寝過ごしたために途中入場。「毛主席語録」は見逃した…。

消せない火/The Inextinguishable Fire(16mm, 1969):
アナウンサーのようなスーツを着たファロッキ本人が、ベトナム戦争において使用されたナパーム弾についての原稿を読み上げ、その温度の高さを知らしめるためタバコの火を自分の手に押し当てるところからこのフィルムは始まる(ナパーム弾は、粘着性の油によって燃焼する焼夷弾の一種。それはタバコなどよりも遥かに高温…)。そして、ファロッキはニュース映画的〜再現劇な構成をとりながら、ナパーム弾開発にみられる、戦争と産業の関係性を明らかにしてゆく。そこでは(個人としての)技術者の責任が問われることになるが、ダウ社はナパーム弾開発に反対する技術者に対処するため開発の分業化を計り、技術者個人が「自分が何の開発に携わっているのか」を見えにくくさせる。そのような、いわば技術の分節化によって、あるものは兵器となり、あるものは人間にとって役立つ道具となる。そして会社は「ダウ社は兵器以外にも、人々の役に立つ農薬等も作っている」と弁明する。後年と比較しても、ずいぶん直接的に社会的批判が込められたフィルムではあるが、技術と政治性についての視点はこの時点から明確である。

キーワード・イメージ——ヴィレム・フルッサーとの対話/Keywords-Keyimages. A conversation with Vilém Flusser(Video, 1986):
カフェにおいて、フルッサーとファロッキがタブロイド紙の文字と写真の関係について対談する。TV番組として撮影されたもの。

比較/In Comparison(16mm, 2009):
建設ブロック(日干しレンガ)が各々の社会で、どのような過程を経て生産され、建築労働に結びついているかを比較し、考察するというフィルム。社会構造を分析するかのような観察的眼差しによって、建設にまつわる事柄はそれぞれの国の地域性・社会性の比較へと至る。まず冒頭に登場するアフリカのある村のケースでは、村民らが皆で村の診療所を建てている。女性は黙々と日干しレンガを作り、男性はそれを積み上げる。その相互扶助的な共同体の作業と対比されるようにして、インド都市部でのビル建築や、旧式設備のレンガ工場、ヨーロッパにおける機械化・近代化された建築ブロック工場の様子などが映し出される。ナレーション等は一切排されており、ダイレクトシネマ的な眼差しによって、人々の労働が淡々と撮影されているために、観客それぞれが生産と建築労働についての多層的な意味を映像のなかから掬い上げてゆくことになる。

アイロニーでポストモダン以降の社会状況を描き出す作家・作品よりかは、こういったスタンスで社会と取り組む作家・作品の方が個人的には面白いと思うし、国内ではこの手のものが取り上げられること自体多くない。なので写美がインスタレーションを含めて、ファロッキの作品をまとまった形で国内に紹介してくれたことについては高く評価したい。

今年のイメフォ

今年の東京でのイメフォは観に行けないのだが、いくつか気になるプログラムもあったので、詳しく調べてみた。私が気になったのはジェネPのドキュメンタリー…ではなくて、以下の三つ。観に行ける人は楽しんできて下さい。

L:ルミナス・アトラクションズ
これはかなり興味深いプログラム。ニコラ・プロヴォスト、ペーター・チェルカススキーなど、よく知られた作家の新しい作品が並んでいる。インガー・リーゼ・ハンセンの作品はアナーバーのDVDで持っているけど、これもなかなか面白いアイデアの作品。
カール・レミューの作品は抜粋ならばネットで観られるが、これは実際に大きなスクリーンで観たかった。ちなみに音楽はフランシスコ・ロペス。
http://www.nfb.ca/film/mamori_extrait_1/
あと気がついたのは、このプログラムの作品は全部35mmなんだな。実験映画が普通に35mmで作られているという海の向こうの現実…。

O:ポーランド・アニメーション傑作選
非商業アニメーション全般については教科書的なレベルの作家くらいしか知らないのだが、実験映画と交錯するような実験的・抽象的アニメーションなら話は別で俄然興味がわく。このプログラムには50年代〜70年代に作られたそのような傾向の実験的アニメーションが含まれている。アンジェイ・パヴウォフスキ、ヨゼフ・ロバコフスキなど。しかし所謂非商業アニメーション好きな観客からしてみれば、この手の実験的・抽象的アニメーションは若干キツいものがあるんじゃないかとも思うのだが、イメフォの「アニメーション」と銘打ったプログラムには、時々そういう強引さを感じたりもする。去年のロバート・ブリアとか。

Q:ナサニエル・ドースキー特集
これは単純な理由で、有名な作家なのに今まで観たことがなかったので観たい(DVDにはなっていない)。実際にロッテルダムでまとめて観た知人の話によると評価は保留といった感じもしないではないが、観ないことには話は始まらないので何とかして観る機会を作りたいと思う。

『アンフォルム』と実験映画

先日読んだ、ボワ+クラウスの『アンフォルム』内の、「パルス」の項にて実験映画への言及があったことについてのメモ。クラウスは「カメラ!(モトゥール)」というタイトルのエッセイにて、マルセル・デュシャンの『アネミック・シネマ』、リチャード・セラの『鉛をつかむ手』、ペーター・クーベルカの『アルヌルフ・ライナー』、ポール・シャリッツの『T, O, U, C, H, I, N, G』等について論じている。その論は、事実と作品の積み重ねによる実験映画史的な視点に基づくものではなく、この本(カタログ)を貫いている、バタイユを経由した「芸術的階級の下降」というアイデアに基づいている。

実験映画史的にいうならば、『T, O, U, C, H, I, N, G』、『アルヌルフ・ライナー』やトニー・コンラッドの『フリッカー』といったフィルムは、「構造映画」と名称される、実験映画のなかでも特にコンセプチュアルな傾向の代表的作品である。それはカメラや映写機といった映画メディアのシステム・構造を前景化し、人間の視覚的制度に対して揺さぶりをかけるという、極めて自己批評的な試みであった(ややこしくなるが、シャリッツ、クーベルカ、トニコンのこれらの作品は、サブジャンル名称として「明滅映画」とも呼ばれる)。また、『鉛をつかむ手』は、(フィルム作品ではあるが)身体的パフォーマンスにビデオを援用することでモダニズムからの離脱を試みるという、当時の造形作家系のビデオアートによくみられたバックグラウンドを持っている。

しかし、この『アンフォルム』の狙いはそこにはない。ここにはバタイユの“異質学”(スカトロジー的思考)をモダニズム芸術の低級への読み替え(操作)において使用するという、特異な――そして挑発的な言説が満ちている(あとがきによると、この挑発の背景には「アブジェクト・アート」に対する批判的動機があったという)。このアイデアによると、その中心的なキーは四つある。それは「水平性」「低級唯物論」「パルス」「エントロピー」である。ここでは意図的に(モダニズム的な意味での)歴史的コンテクストは無視されている。何故ならここでの目的は、モダニズム的価値の付与を否定し、あらゆる意味で芸術的階級の下降(操作)を試みることにあるのだから。(ところで誤解を受ける前に述べておくと、勿論バタイユの“異質学”の目的とは、例えば糞便そのものに価値を見出すようなフェティシズムの対極にある。)

以下は自分用読書メモ。適当な読み方なので注意を。『アンフォルム』は、できればアイデア元であるバタイユの芸術・文化論を参照しながら読んでみて下さい。面白いです。

水平性
・垂直性/水平性
・絵画において“垂直的に立ち上がる昇華されたイメージ”がもたらすヒエラルキー的諸関係→水平化:階級を地べたに落とす(形象の無効化)、ポロックの読み替え

低級唯物論
・フロイトの使用法
A 無意識の探求、転換遊び(シュルレアリスム)→均質性へ至る
B 精神分析によって引き起こされる変質、脱神秘化(バタイユ)→異質性へ至る

・バタイユ的目的:階級を下降させる→テーマ・意味・形象の廃棄
・まったく他であるものとしての“異質学”(スカトロジー的思考):低級な侵犯、「神が聖なるものであるのは、糞が聖なるものであるのと同じ根拠によるにすぎない」

パルス
・モダニズム的視覚における時間性の排除(純粋視覚の無時間性)→身体性(パルス)を導入する(モダニズム的無時間性への攻撃)

エントロピー
・バタイユにおける蕩尽、濫費にあたる?:取り返しのつかない浪費として

上記の通り、「カメラ!(モトゥール)」というエッセイの基本的なコンセプトは、モダニズム的な純粋視覚の無時間性を、身体性によって「不純にする」ことにある訳だが、それはまず『アネミック・シネマ』の回転する円盤によって生じる横滑り的な反復運動(パルス)への言及から始まる。次にその延長線上において、筆者は戦後アメリカ芸術における純粋視覚への疑義・検討としてブルース・ナウマンの『リップ・シンク』や、セラの『鉛をつかむ手』といった身体的パフォーマンス映像をピックアップする。この二つの映像は、ともにバラバラになった身体の単純運動が繰り返されるなかで、不安定に揺らぐ横滑り的な時間感覚が生じる作品でもある。次に筆者は実験映画の言及へと移り、シャリッツやクーベルカの明滅映画について、その本質的問題は「見ることの身体的次元」や「イメージ自体の安定性の解体」にこそあったと指摘する。そして最後に『鉛をつかむ手』への言及に戻って、文章は閉じられる。

確かにシャリッツの明滅映画やセラの身体的パフォーマンス映像を純粋視覚への批判として使用するのであれば、このような読み方も可能である。しかし、劇映画の反対側へ向かう映画運動として、ある意味モダニズム的に実験映画、あるいは構造映画を捉えるならば、シャリッツの明滅映画に対する評価は逆転する――要するに一般的な劇映画と比較するならば、明滅映画こそ純粋視覚へと接近しているとも言える訳で、その辺りに一連の「操作」のアクロバット的な性格を見て取ることができる。ただし、このアクロバット的な危うさは、階級を下降させる「操作」の意義をいささかも減じさせるものではない。むしろその、階級を一気に下降させ、無価値化させようとする危うい綱渡りにこそ、私は面白さを感じている。

いまさらブルーレイを試す

主に金欠で、ずっとブルーレイ視聴環境がなかったのだけど、ようやく環境が整っていろいろと試すことが出来るようになった(ちなみにテレビモニターとBDプレイヤー一体型の国内向け民生機です)。
DVDやVHSならば、今までは海外電気製品店で買ったマルチDVDプレイヤーとマルチVHSデッキ+ブラウン管マスモニで規格の違いを無視して、どんなソフトもガンガン観ることが出来たのだが、BDとなると、どのメーカーのハイビジョンテレビ仕様書にもPAL圏の規格である1080/50i,25pが映せるのかどうかちゃんと書いてないし、メーカーの窓口に問い合わせてもいまいちはっきりしない答えばかり。ハイビジョンになってNTSC圏とPAL圏のフレームサイズは同じ1080になったが、フレームレートが(ハイビジョンであっても)30fps/25fpsと異なるので、国内向け民生機でPAL圏のBDを観ることは、多分無理だろうと想像していた。(でも24fpsなら製造圏にかかわらず、視聴可能だろうとは思っていた。)そんな訳でさっそく試してみた。

以下は、当然のごとく表示可能。
・NTSC DVD
・BD 30fps
・BD 24fps

そして、意外なことに以下も表示可能。
・BD 25fps

さらに、外部からのアナログ入力で以下も表示可能。
・PAL DVD(もちろんPAL VHSも表示可能)※コンバータ内蔵プレイヤー

何ということだろう、モデルにもよるのだろうが、ウチに限っていえばブラウン管マスモニが粗大ゴミになった(笑)。マルチDVDプレーヤーとマルチVHSデッキを残しておけば、私が持っている海外のBD/DVD/VHSは全て視聴可能ということです。これでパソコンの小さいモニターで我慢しながらBDを視聴しなくても済むようになった訳で、素晴らしい。(注:私が持っているような類いのBD/DVDにリージョンがかかっていることはまずないので、リージョンの話は勘案していません…。)

Experimental film screening project in Japan [+]

Experimental film screening project in Japan [+]
http://plusscreening.org/

[+](プラス)は実験映画という名称で呼ばれるような新しい映画の興隆のために、非営利の組織として尽力します。(ここでの「実験映画」とは、劇映画・ドキュメンタリー・アニメーションといった、あらゆる既成のカテゴリーに収まらないような映画・映像を指すものとします。)

[+]は実験映画を中心とする映画作品の上映の場を自ら創り出して行くとともに、日本国内で今まで観られる機会の少なかった海外の良質な作品及び歴史的作品の上映を行い、積極的にその紹介に努めます。

[+]は特定の上映会場を置かず、その都度、作品の魅力が十分に発揮できるパブリックな場所を探して上映を行うことで、実験映画になじみの薄い観客がアクセスしやすい、開かれた上映会を目指します。

[+]は上映活動と連動して雑誌を出版し、作品への論評、研究活動を進めて行きます。

2011年1月11日
[+] 代表 牧野 貴

[+]上映会のオフィシャルサイトが公開されました。今後、[+]上映会は組織として運営されてゆきます。よろしくお願いします。

あらゆる芸術・文化についての運動は、結果的に主体となる作家個人の意識や、身内レベルの意識にとどまってしまう場合が多々ある。それが誤りであるとは決して思わないが、その芸術運動が、より開かれたかたちでコンテクストを形成してゆくような運動となるためには、個人や身内についての意識よりも、芸術・文化についての社会的な意識の持ち方が問われてくるはずだと思う(そのような理由から、私は一部を除く国内の現状に対しては、あまり関心を持てずにいた)。この運動は、ある個人やグループが自分たちの名前や存在を社会にアピールする為のものではなく、実験映画と呼ばれる新しい映画の可能性が、国内における芸術的・文化的状況のなかで、どのようなコンテクストを形成し得るのかという問題に取り組もうとするものだと言える。代表者の言葉を借りると、この運動は例えるならば、クラスで「そうじ係」や「生き物係」があるように、「“実験映画”という名で呼ばれるような新しい映画を世界から集めて、みんなに観せる係」なのだそうだ。極めて社会性のある言葉(笑)だと思うし、ならば私も大した力はないものの、全面的に協力してゆくつもりでいます。

Ken Jacobs: 3 features and a short

ケン・ジェイコブスの3Dメガネ付きDVDアンソロジーがリリースされたそうだ。EAIから購入できます。
Ken Jacobs: 3 features and a short
http://www.eai.org/titleOrderingFees.htm?id=14793#terms

しかしながら、おそらく美術館・ライブラリー向けの$1,000という価格設定に心が折れる。自費で購入するのは借金しなきゃ到底無理、職場で購入してもらうのも恐らく難しいだろうということで、これはどこかの図書館・美術館さんに購入して頂きたいところ。閲覧させてもらいに行きます。