覚え書き

世代間格差や非正規差別によって不均衡に捩じれてしまっていた国内の社会が、今回の災害を契機として、ナショナリズムとはまた違った形で共同体を意識するようになり、あらゆる不均衡を解消する公共的な社会の方向へ再編して行くのではないかという予感を、私も震災後一週間くらいまでは感じていた。そのような予感も災害時特有の相互扶助的な空気が有るうちはまだ信じることが出来たのだが、早くもそれは霧散し、押し戻されつつあるように思う。そして(表面的に)戻ってくるのはあの日常だ。利己的で、若年層や非正規を排除する、そこそこ安定した中高年層にとっては望ましい日常。今後予想される経済的停滞のなかで、その日常から排除された者への過酷さは、その度合いを増してゆくのではないかという気がする。(被災地の学生や失業者は、今後も維持されるであろうこの日常のなかで、どれほどの不利益を被ってゆくことになるのか。)今回の一連の危機のなかで、社会を覆っている日常という皮膜を目の当たりにして、私はかなり意気消沈した。

その一方で自分の話になるが、私は今回の災害のなかで、「芸術と文化のためなら自らのすべてを差し出せる」と考えていた過去の自分が、いかに甘かったかを思い知った。一連の危機は、自分が全面的に依っていたもの――芸術や文化の普遍的価値――をほとんど粉砕してくれた。これは「芸術や文化は無力であり実社会においては有用性がない。だが、かわりにそれは精神的な豊かさをもたらしてくれる」というようなレベルの話ではない。これはどこまでも私の内面的問題に過ぎない。それは芸術と文化が、ある危機に瀕して何かを担保してくれるようなものではなかったという事実によって引き起こされた。共同体の危機や、個人の危機において、芸術や文化は何ものをも担保し得ない。それはどこまでも、ひたすら無能だ。社会的基盤が揺るがされ、日常の皮膜が破られた時、芸術や文化が、(現実的有用性がないのは当たり前としても)共同体と自分の存在を担保する拠り所にすらならないという事実は、正直なところ衝撃的だった。芸術と文化は、盤石な社会的基盤のうえでのみ成立する社会的ゲームに過ぎない――勿論そんなことは自明であったのだろうが、もしかしたら自分は、本当にそれを考えたことはなかったのかもしれない。

危機と不均衡を覆いつくす日常という皮膜のなかで、社会的ゲームとして芸術や文化の楽しみを享受すること。そんなことを続けるのは、もう到底無理だ。そうなってくると、今後も自分が芸術や文化に接し続けようとするならば、自分自身のスタンスを微妙にシフトさせなければならないだろうと思っている。正直いまはどんな形でそれが可能なのか皆目見当もつかないが、これは自分がどのような形で、無価値になってしまった芸術や文化を、再度信じ直すことが出来るかという試みになる。

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