『アンフォルム』と実験映画

先日読んだ、ボワ+クラウスの『アンフォルム』内の、「パルス」の項にて実験映画への言及があったことについてのメモ。クラウスは「カメラ!(モトゥール)」というタイトルのエッセイにて、マルセル・デュシャンの『アネミック・シネマ』、リチャード・セラの『鉛をつかむ手』、ペーター・クーベルカの『アルヌルフ・ライナー』、ポール・シャリッツの『T, O, U, C, H, I, N, G』等について論じている。その論は、事実と作品の積み重ねによる実験映画史的な視点に基づくものではなく、この本(カタログ)を貫いている、バタイユを経由した「芸術的階級の下降」というアイデアに基づいている。

実験映画史的にいうならば、『T, O, U, C, H, I, N, G』、『アルヌルフ・ライナー』やトニー・コンラッドの『フリッカー』といったフィルムは、「構造映画」と名称される、実験映画のなかでも特にコンセプチュアルな傾向の代表的作品である。それはカメラや映写機といった映画メディアのシステム・構造を前景化し、人間の視覚的制度に対して揺さぶりをかけるという、極めて自己批評的な試みであった(ややこしくなるが、シャリッツ、クーベルカ、トニコンのこれらの作品は、サブジャンル名称として「明滅映画」とも呼ばれる)。また、『鉛をつかむ手』は、(フィルム作品ではあるが)身体的パフォーマンスにビデオを援用することでモダニズムからの離脱を試みるという、当時の造形作家系のビデオアートによくみられたバックグラウンドを持っている。

しかし、この『アンフォルム』の狙いはそこにはない。ここにはバタイユの“異質学”(スカトロジー的思考)をモダニズム芸術の低級への読み替え(操作)において使用するという、特異な――そして挑発的な言説が満ちている(あとがきによると、この挑発の背景には「アブジェクト・アート」に対する批判的動機があったという)。このアイデアによると、その中心的なキーは四つある。それは「水平性」「低級唯物論」「パルス」「エントロピー」である。ここでは意図的に(モダニズム的な意味での)歴史的コンテクストは無視されている。何故ならここでの目的は、モダニズム的価値の付与を否定し、あらゆる意味で芸術的階級の下降(操作)を試みることにあるのだから。(ところで誤解を受ける前に述べておくと、勿論バタイユの“異質学”の目的とは、例えば糞便そのものに価値を見出すようなフェティシズムの対極にある。)

以下は自分用読書メモ。適当な読み方なので注意を。『アンフォルム』は、できればアイデア元であるバタイユの芸術・文化論を参照しながら読んでみて下さい。面白いです。

水平性
・垂直性/水平性
・絵画において“垂直的に立ち上がる昇華されたイメージ”がもたらすヒエラルキー的諸関係→水平化:階級を地べたに落とす(形象の無効化)、ポロックの読み替え

低級唯物論
・フロイトの使用法
A 無意識の探求、転換遊び(シュルレアリスム)→均質性へ至る
B 精神分析によって引き起こされる変質、脱神秘化(バタイユ)→異質性へ至る

・バタイユ的目的:階級を下降させる→テーマ・意味・形象の廃棄
・まったく他であるものとしての“異質学”(スカトロジー的思考):低級な侵犯、「神が聖なるものであるのは、糞が聖なるものであるのと同じ根拠によるにすぎない」

パルス
・モダニズム的視覚における時間性の排除(純粋視覚の無時間性)→身体性(パルス)を導入する(モダニズム的無時間性への攻撃)

エントロピー
・バタイユにおける蕩尽、濫費にあたる?:取り返しのつかない浪費として

上記の通り、「カメラ!(モトゥール)」というエッセイの基本的なコンセプトは、モダニズム的な純粋視覚の無時間性を、身体性によって「不純にする」ことにある訳だが、それはまず『アネミック・シネマ』の回転する円盤によって生じる横滑り的な反復運動(パルス)への言及から始まる。次にその延長線上において、筆者は戦後アメリカ芸術における純粋視覚への疑義・検討としてブルース・ナウマンの『リップ・シンク』や、セラの『鉛をつかむ手』といった身体的パフォーマンス映像をピックアップする。この二つの映像は、ともにバラバラになった身体の単純運動が繰り返されるなかで、不安定に揺らぐ横滑り的な時間感覚が生じる作品でもある。次に筆者は実験映画の言及へと移り、シャリッツやクーベルカの明滅映画について、その本質的問題は「見ることの身体的次元」や「イメージ自体の安定性の解体」にこそあったと指摘する。そして最後に『鉛をつかむ手』への言及に戻って、文章は閉じられる。

確かにシャリッツの明滅映画やセラの身体的パフォーマンス映像を純粋視覚への批判として使用するのであれば、このような読み方も可能である。しかし、劇映画の反対側へ向かう映画運動として、ある意味モダニズム的に実験映画、あるいは構造映画を捉えるならば、シャリッツの明滅映画に対する評価は逆転する――要するに一般的な劇映画と比較するならば、明滅映画こそ純粋視覚へと接近しているとも言える訳で、その辺りに一連の「操作」のアクロバット的な性格を見て取ることができる。ただし、このアクロバット的な危うさは、階級を下降させる「操作」の意義をいささかも減じさせるものではない。むしろその、階級を一気に下降させ、無価値化させようとする危うい綱渡りにこそ、私は面白さを感じている。

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