「+25FPS」(の予習)

ベン・ラッセルの新作の舞台となっているのは、アメリカのバッドランズ国立公園のようだが、その付近に関する興味深い記事を見つけたので貼ってみる。
「町丸ごと6千万円で売り出し? 刑務所付き サウスダコタ」(CNN)
http://www.cnn.co.jp/fringe/30003518.html

現実感のない凄いところだな…。

バッドランズ国立公園は、過去にインディアンによるゴーストダンスという儀式の場所として使われていたとか、これも興味深いエピソード。
バッドランズ国立公園(Wiki)

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「+25FPS」(の予習)

Slow Action, Ben Rivers from Kate MacGarry on Vimeo.

ベン・リバースの「Slow Action」を含む過去作品の抜粋が観られます。ベン・リバースのフィルムには、(フェイクを含めて)廃墟・辺境・奇妙な人々がたびたび登場するが、観ていると個人の内面における現実感や世界像の認識が、奇妙に歪められてゆくような感覚に襲われる。しかも、その奇妙な映画は手間隙掛けた自家現像によって骨董品めいた疑似的アウラを纏っている。まるで骨董品市で偶然拾った出所不明の16mmプリントをスクリーンに映してみたら、そこには奇妙な別世界が撮られていた…という感じ。


Trees of Syntax, Leaves of Axis

斎藤大地のフィルム上映と、マルコム・ゴールドスタインの共演もネットで観られたので、これも貼っておきます。どういう経緯でマルコム・ゴールドスタインと組むことになったのかは謎だが、インプロによるノイズ的な音の感触とフィルムのイメージが、強烈な組み合わせになっている。

予習の後はアップリンクで…。

Satanic Warmaster Live



ブラックメタルのレコやCDを幾つかのショップで買い込んで浸り込む。恐らくそういう人は少なからずおられることだと思うが、3月以降どうも音楽の聴き方が変わってきて、自分の場合はアカデミックなもの、マイナーなものを問わず実験的傾向を持った音楽を聴く回数がそれなりに減ってしまった(聴くのを完全にやめたりはしないが)。そして、今まで以上にタンテやCDプレーヤーを占拠するのはブラックメタルとノイズ/パワーエレクトロニクス関係の盤で、あとは気分転換としてダブを聴く程度。要するに個人と現実社会のあいだの齟齬や分断が生み出したような音楽を欲してしまう。その音楽において、実存を価値の外側へ投じるような姿勢を内包していれば尚良い。こういう音楽を聴くと、とても落ち着いた気分になれるね。

上段はペイントなしのSW、下段はつい先日のSW。特に上段のライブが、いろんな意味で堪らない。

Der Blutharsch And The Infinite Church Of The Leading Hand + Aluk Todolo – Untitled


(WKN, LP)

Der BlutharschのレーベルからリリースされたDer Blutharsch And The Infinite Church Of The Leading Hand + Aluk Todoloという名義のレコードであるが、スプリット盤かと思いきや、完全なコラボレーション作品だったのには意表を突かれた。Blutharschのレコードはいつもそうなのだが、曲名もクレジット表記も全くないので、両バンドの役割が不明という状態。しかし、音楽的な特徴が明確に表れているので、一聴してみれば分かる人にはすぐ分かる。Aluk Todoloによるドゥームメタル/ドローンアンビエントとジャーマンロックを掛け合わせたような、重々しく反復するリズムと、蠢くようなギターノイズは、時としてGuruGuruのUFOを連想させる。そして、そこに覆い被さる旋律やヴォーカル(ただしヴォーカル入りは一曲のみ。それ以外はインスト曲)は明らかにBlutharschのそれ。しかも初期のBlutharschを思い起こさせる無国籍的な国歌や民謡のような旋律が、かなり強調されている。近年のダークポップなBlutharschのラインを維持しながらも、初期のBlutharschらしさも戻ってきている。重々しいリズムのあるBlutharschも良いし、ヴォーカル入りのAluk Todoloも良いな…と、それぞれのバンドの意外な側面を知ることができた。

しかし気になるのだが、どうやってこのコラボレーションが成立したのだろうか。Aluk TodoloはSunn O)))の流行に乗り遅れたようなタイミングで登場したうえに、Utech RecordsやAjna Offensiveのようなクセの強いレーベルからレコードをリリースしたためか、所謂ドゥームメタル/ドローンアンビエントのシーンとは切り離されているような印象がある。AJNA Offensiveはノイズ界隈のリリースも行っていた特異なレーベルなので、恐らくその辺りからBlutharschのようなネオフォーク〜ダークポップに繋がる切っ掛けがあったのだろう。ちなみにマスタリングはWerkraumのAxel Frankが担当している。このコラボレーションは大当たりだと思うので、今後も継続を熱烈に希望したい。

Genocide Organ live Beyond Hypocrisy Mannheim 7er Club 14.05.2K11


Genocide Organ with Grey Wolves

利潤システムをキープするための入り組んだ分断線。その分断線はいままで表層的に平滑化された社会においては、無いものとされてきた。このような、個人の内部レベルで入り組んだ分断線は連帯や共感を困難にさせる。これによって生じる向かう先の定まらない否定の意思と憎悪こそが、自分自身をある種のノイズ/パワーエレクトロニクスやブラックメタルに向かわせる動機かもね。

歴史の使用法2

私が疑問を感じる歴史の使用法についてであるが、まず歴史を伝統性において使用する、「歴史の絶対化」という使用法への反発がある。これは分かりやすいだろう。
歴史とは過去の出来事の蓄積であり、現在はその関係性の帰結な訳だが、まずいのは過去との関係性を絶対視して、例えば教師と生徒の関係で何か伝統を継承したかのように振る舞うことだと思える。それに対して、そういった意味で使用されるような歴史を切断し、過去との否定的関係を結んできたのがアヴァンギャルドの(反)歴史だったように思う。
(その一方で、私は図書館的な意味での歴史のアーカイヴは必要だと思っている。これを言い出すとまるで伝統主義者みたいに誤解されることもあるのだが、これは要するに複数のコンテクストを多角的に錯綜させて、新しいコンテクストを把握できるような場所の設定と、そのためのリソース提供が必要だと認めているに過ぎない。文化的な層の厚さとは、このようなものを指すのだと思う。)

だから、「閉鎖的な関係で歴史を強要されるのが鬱陶しい」という見解には同感なのだが、それが一足飛びに「もう歴史はなくていい」という見解に飛躍することには懸念を覚える。もちろん、そのような解放へと飛躍する焦燥感のような感情にも一定の理解を寄せることはできる。
(ところで、実験映画という呼び名は、歴史的コンテクストや制度から解放された映画が生まれ来ることを担保するような呼び名である。多分、実験映画という呼び名に近い解放感を与える呼び名としては、音楽であれば「実験音楽」や「フリージャズ/フリーインプロヴィゼーション」辺りになるのではないかと思う。単に「フリー」という言葉のイメージだが…。)

私が疑問を感じる歴史の使用法は、もう一つある。それはポストモダン以降のコンテクストなき状況を開き直って肯定化し、商品化してみせるような、「歴史の無効化」という使用法への反発である。
これにはハイカルチャーとサブカルチャーの差異について、各々のコンテクストを解体させる効用もあり、その点では評価できる側面もある。しかし、それは結果的に緊張感ある複数のコンテクストの錯綜もなく、新たなコンテクストを把握することもなく、ただ商品を陳列するようにして項目(作品・作者)が並べ立てられていくようなフラットな文化的環境を生み出す。これは「メディア芸術」的なものを目にしたときの、何でもありの閉塞感とよく似ている。これについては今更言うこともない。

歴史の使用法1

歴史の使い方について、この頃考えることが多いので、ちょっと自分用にノート。

先日、花田清輝が終戦して間もない頃に関わっていた『綜合文化』という雑誌を読んでいたのだが、そのなかで、「リアリズムをめぐって」という座談会にて佐々木基一と岩上順一が、緊張感のある対立を見せていたのが気になった。過去のリアリズムをめぐる歴史をどうするのかという点で、この対立は緊張感を増すが、これを同席していた加藤周一は次のように整理する。

「いくら過去のものを否定して仕事をしようとしても結果としては、過去のものに支配される。ということを岩上さんが強調された。図式的な見方だが、岩上さんは問題をいわば結果的に見ている、過去の考え方を全的に否定してものを考えようとしても、結果としては過去に規定されるということは、佐々木君といえども知っている。ただ佐々木君は、どういう風に今仕事をすすめるかというと、一応全部否定しようと思わなければ充分な過去の批判も出来ないと考える。つまり未来的というか、意志的な立場から問題を見ている。どっちの面を強調するかに過ぎないので、さっきから同じことを繰返しているが、両方の面があると思う。」

終戦して間もない復興期において、佐々木のような若手芸術家を突き動かしたアヴァンギャルドの精神は、既存の現実像ではなく、そういったものを断ち切ったところから(転形期における)新しい現実像をつかみ取ろうとしており、その姿勢はある種の時代的な焦燥によって突き動かされていたといえる。しかし、その一方では過去の事象との関係から発展的な展開を試みるという姿勢もある。この両者の対立は、結局は歴史を現在においてどう使用するかという姿勢の違いであるといえる。

この問題は、なかなか普遍的な問題であり、「アヴァンギャルド」や「実験的」といった言葉で呼称されるような、革新的であろうとする姿勢を持ったすべての芸術・文化運動に、必ずついて回る問題だと思う。全部を否定して革新を試みるのも、過去のものの延長線上に発展的展開を試みるのも、どちらもメリットとデメリットを孕んでいる。そうなると玉虫色に「まあまあ、ここはひとつ…」と折衷案を提示するのが正解ということになりそうだが、実はそんなことはない。むしろある状況下において、どちらを強調して振る舞うべきかというような戦略的思考が求められるところだ。その意味で、戦後の復興期における佐々木の姿勢(要するに花田を中心に形成された運動の方向性)は尖鋭的であった。

この問題を現在の国内に敷衍してみると、個人的に疑問を持っている「歴史の使用法」は二つ存在していることになる。