歴史の使用法1

歴史の使い方について、この頃考えることが多いので、ちょっと自分用にノート。

先日、花田清輝が終戦して間もない頃に関わっていた『綜合文化』という雑誌を読んでいたのだが、そのなかで、「リアリズムをめぐって」という座談会にて佐々木基一と岩上順一が、緊張感のある対立を見せていたのが気になった。過去のリアリズムをめぐる歴史をどうするのかという点で、この対立は緊張感を増すが、これを同席していた加藤周一は次のように整理する。

「いくら過去のものを否定して仕事をしようとしても結果としては、過去のものに支配される。ということを岩上さんが強調された。図式的な見方だが、岩上さんは問題をいわば結果的に見ている、過去の考え方を全的に否定してものを考えようとしても、結果としては過去に規定されるということは、佐々木君といえども知っている。ただ佐々木君は、どういう風に今仕事をすすめるかというと、一応全部否定しようと思わなければ充分な過去の批判も出来ないと考える。つまり未来的というか、意志的な立場から問題を見ている。どっちの面を強調するかに過ぎないので、さっきから同じことを繰返しているが、両方の面があると思う。」

終戦して間もない復興期において、佐々木のような若手芸術家を突き動かしたアヴァンギャルドの精神は、既存の現実像ではなく、そういったものを断ち切ったところから(転形期における)新しい現実像をつかみ取ろうとしており、その姿勢はある種の時代的な焦燥によって突き動かされていたといえる。しかし、その一方では過去の事象との関係から発展的な展開を試みるという姿勢もある。この両者の対立は、結局は歴史を現在においてどう使用するかという姿勢の違いであるといえる。

この問題は、なかなか普遍的な問題であり、「アヴァンギャルド」や「実験的」といった言葉で呼称されるような、革新的であろうとする姿勢を持ったすべての芸術・文化運動に、必ずついて回る問題だと思う。全部を否定して革新を試みるのも、過去のものの延長線上に発展的展開を試みるのも、どちらもメリットとデメリットを孕んでいる。そうなると玉虫色に「まあまあ、ここはひとつ…」と折衷案を提示するのが正解ということになりそうだが、実はそんなことはない。むしろある状況下において、どちらを強調して振る舞うべきかというような戦略的思考が求められるところだ。その意味で、戦後の復興期における佐々木の姿勢(要するに花田を中心に形成された運動の方向性)は尖鋭的であった。

この問題を現在の国内に敷衍してみると、個人的に疑問を持っている「歴史の使用法」は二つ存在していることになる。

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