歴史の使用法2

私が疑問を感じる歴史の使用法についてであるが、まず歴史を伝統性において使用する、「歴史の絶対化」という使用法への反発がある。これは分かりやすいだろう。
歴史とは過去の出来事の蓄積であり、現在はその関係性の帰結な訳だが、まずいのは過去との関係性を絶対視して、例えば教師と生徒の関係で何か伝統を継承したかのように振る舞うことだと思える。それに対して、そういった意味で使用されるような歴史を切断し、過去との否定的関係を結んできたのがアヴァンギャルドの(反)歴史だったように思う。
(その一方で、私は図書館的な意味での歴史のアーカイヴは必要だと思っている。これを言い出すとまるで伝統主義者みたいに誤解されることもあるのだが、これは要するに複数のコンテクストを多角的に錯綜させて、新しいコンテクストを把握できるような場所の設定と、そのためのリソース提供が必要だと認めているに過ぎない。文化的な層の厚さとは、このようなものを指すのだと思う。)

だから、「閉鎖的な関係で歴史を強要されるのが鬱陶しい」という見解には同感なのだが、それが一足飛びに「もう歴史はなくていい」という見解に飛躍することには懸念を覚える。もちろん、そのような解放へと飛躍する焦燥感のような感情にも一定の理解を寄せることはできる。
(ところで、実験映画という呼び名は、歴史的コンテクストや制度から解放された映画が生まれ来ることを担保するような呼び名である。多分、実験映画という呼び名に近い解放感を与える呼び名としては、音楽であれば「実験音楽」や「フリージャズ/フリーインプロヴィゼーション」辺りになるのではないかと思う。単に「フリー」という言葉のイメージだが…。)

私が疑問を感じる歴史の使用法は、もう一つある。それはポストモダン以降のコンテクストなき状況を開き直って肯定化し、商品化してみせるような、「歴史の無効化」という使用法への反発である。
これにはハイカルチャーとサブカルチャーの差異について、各々のコンテクストを解体させる効用もあり、その点では評価できる側面もある。しかし、それは結果的に緊張感ある複数のコンテクストの錯綜もなく、新たなコンテクストを把握することもなく、ただ商品を陳列するようにして項目(作品・作者)が並べ立てられていくようなフラットな文化的環境を生み出す。これは「メディア芸術」的なものを目にしたときの、何でもありの閉塞感とよく似ている。これについては今更言うこともない。

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