「+25FPS」(の予習)

「+25FPS」の上映作品試写にスカイプで参加するが、スカイプのフレーム落ちまくりの悪環境でも各作品の面白さは充分に分かった。[+]プログラムのほうは、やっぱりプログラマー(牧野)の基準がはっきりしていて、このプログラム自体が一つの作品だと思えた。彼のスタンスは、“劇映画やドキュメンタリーといった既存の概念ではフォローできない、映画のまだ表れていない可能性を求める”というのがまず先にある。その結果として集められた作品が、たまたま実験映画の文脈にある作品ばかりだったという感じだ。別に「実験映画とは何か?」なんていう、誰かが決めた綱領がある訳じゃないが、実験映画には初期の段階から、そういった既存の映画制度外から超越的なものを表出させようとするスタンスがあったことは否定しがたい事実だと思う。このプログラムは実験映画の概念のなかにある、そういったスタンスを拡大して私たちに見せてくれている。(私小説的なものが実験映画と同一化される傾向は、勿論否定されるものではないが、アプローチの異なる点は切り分けてもよいだろう。)
だから、素直な感想として、同じ日に上映する25FPSプログラムと[+]プログラムを比べてみると、その違いの大きさを実感した。25FPSプログラムも実験映画やメディアアートの文脈にあるものなどアプローチの幅は広いといえるが、それらはある意味、各アプローチにおいて典型化されたものとして映った。
[+]プログラムにみられる“映画のまだ表れていない可能性を求める”というスタンスは、必然的に開かれた性格を持つものであり、このような映画/映像に触れたことのない観客にも楽しんでもらえるものとなっている筈だ。蓮実以降の劇映画好きのシネフィルも、キッチュなカルト映画ジャンキーも、90年代以降の現代美術文脈の映像しか観ていない国内美術評論家も、オタク文化ではない方のアニメーションの人たちも、オープンな心持ちで楽しんでもらえれば幸いです。
アップリンク関係のサイトで、良い感じの紹介記事が出てます。
日本人は新しい映画に飢えている! クロアチアの25FPSと[+]のコラボ企画による世界で最もエキサイティングな実験映画上映会

しかし、この開かれた性格というのは基本的にポジティブものなのだが、国内における実験映画の文脈が殆どないという現状では、それがネガティブにはたらく懸念もある。例えば閉塞感ある現状への否認から「もう既存の歴史や文脈は不要である」というような考え方がもし広まってしまった場合、国内において実験映画の文脈はいつまでたっても広く形成されないままだろう。私自身も歴史を典型化して継承・反復する必然性は感じないが、その一方で歴史そのものを記録として残して、アクセス可能な状態においておくことは必須だと思うのだ。その辺が自分の役割なのかもしれないが、荷が勝ち過ぎている気がするね。予算も権限もないぞ。

Advertisements