GENERATOR

GENERATOR (2011, color 20min 8mm 16mm 35mm to HDCAM)
Images by Makino Takashi

牧野貴 – Generator を観た。観ながら、このタイトルから想起される出来事と、それ以降の社会の変化を想う。ぎりぎりのところで映画(芸術)が社会と拮抗しようとする、そのようなフィルム。震災・原発事故以前から取り組まれていた作品だが、出来事の推移のなかで、作品は大きくその意味を変化させた。ジム・オルークの音楽も、近作では聴けなかったような、抑制された室内楽的なものとなっている。今年の愛知芸術文化センターのアートフィルムフェスティバルで公開されます。
http://www.aac.pref.aichi.jp/bunjyo/jishyu/index.html

このトレイラーでは、解像度の問題から作品本来の微細なイメージをつかむことが出来ませんが、そこは是非とも上映に立ち会って観てみて下さい。

サウンドとイメージの関係についてのメモ

休日なので昼寝をしすぎて、深夜になっても眠くならずネットを巡回する。するとスティーヴ・ライヒのコンサートの配信があるという情報を見つけたので、これはちょうど良いとばかりに視聴する。そして、怠け過ぎた週末を反省してしまうような緊張感あるコンサートの模様を楽しんだ。そのコンサートは、ビデオプロジェクションによるシアター的要素を含んだダンス+ミニマルミュージックという定番的な上演形態だったのだが、ここで頭をよぎったことは、演奏する身体のイメージ、あるいはダンスする身体のイメージとサウンドの関係についてだった。それを演目ごとに適当にまとめると、以下のようになる。(ただし、後方のスクリーンにプロジェクションされていたビデオ映像は補助的な演出にすぎなかったので、ここでは勘案しない。)

1:『ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(ただし、演奏者の存在がサウンドの必然性を担保しているため、分離が非徹底的である)』
・ここでの中心的イメージは、演奏に合わせて踊るダンサーの身体そのものであり、演奏者の身体はスクリーンの脇に追いやられ、ほとんど照明に照らされることはない。
・しかし、この場においてサウンドを発しているのは、紛れも無くスクリーンの影に潜む演奏者の身体である。演奏者の身体はサウンドに根拠付けられるイメージとして機能している。
・サウンドはこのような関係において、半ば独立しながらも演奏者の存在と結び付けられて、シアターの中心に位置するダンサーの身体的イメージと必然的関係を持たないままに併置される。

2:『ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(テープ音楽のため、演奏者が存在しておらず、分離が徹底的である)』
・ここでの中心的イメージは、演奏に合わせて踊るダンサーの身体そのものであり、上記のような演奏者の存在もないため、サウンドは根拠付けられたイメージを持たないまま完全に独立している。
・ここでサウンドと身体的イメージは、必然性や根拠から完璧に解放され、自由な組み合わせを取り得る。潜在するサウンドとイメージの可能性。
・しかし、それは“映画においてサウンドがどんなイメージにでも良く合ってしまう”という状態と等しい。例えばここで上映されたテープ音楽が「It’s Gonna Rain」でなくとも、ダンサーの身体的イメージは別のテープ音楽のサウンドと良く合ったかもしれない。

3:『演奏者の身体的イメージとサウンドの同期(最も安定したイメージとサウンドの関係)』
・ここでの中心的イメージは、楽曲を演奏するカルテットの身体的イメージであり、サウンドは演奏者の身振りと必然的に結びつく。
・そのイメージとサウンドの関係は、極めて安定した形において統一される。当たり前の話だが。

こんなことを何故書いたかといえば、それは京都における+上映会のトークに関係してくる。(私はこのトークにスカイプで参加していたのだが、機材トラブルで会場の声を聞き取れず、結果的に殆ど話に絡めなかったのだけど。)

このトークの数日前、事前に行われた川崎さんとの打ち合わせでは、ミシェル・シオンの言説が話題に上がっていた。ただしシオンは、その言説において劇映画を中心的に取り扱っており、その「映画のなかの現実におけるフレーム内の音/フレーム外の音、それに対するオフの音」という図式は実験映画にそのまま適用できるものではない。単純に述べてしまえば、シオンはある種の劇映画におけるサウンドの柔軟な使用方法が、トーキーの統一性とリアリズムを指向する動きに抵抗する、反リアリズム的なサウンドとイメージの出会いの可能性を開くものになるとして擁護していた。しかし、その一方で実験映画は、シオンによって劇映画的・説話的な存在の場を持たないものとして大雑把に括られ、音の所在の関係において可能性を拡げることが出来ない、抽象的なレベルでの関係付けしかできないものとして冷たくあしらわれている。

それを一歩押し進めるかたちで、実験映画におけるサウンドとイメージの関係についての問題提起が、川崎さんの方からあった。それは劇映画よりもさらに極端なかたちでサウンドとイメージの関係が分節化されている実験映画において、サウンドとイメージが解体的・分離的に併置されながらも、そこに「あらゆる音が、映像にいとも簡単に寄り添ってしまう悲劇性」がみられることを指摘するものだった。もちろんこれは否定的な意味を込めた指摘ではなく、そのようなサウンドとイメージの解体的・分離的な関係から読み取ることのできる両義性を考察せよという指摘である(誤読だったらすみません)。このような川崎さんの指摘とは、実験映画におけるイメージとサウンドの関係を非固定的な性質のものとして捉え、そこにリアルタイム性や偶発性を見出すという視点を提起している。それはまた、実験映画におけるサウンドについて述べながらも、電子音楽の歴史研究に取り組んでいる川崎さんご本人が、実はリアルタイム性や偶発性を持つような音楽に強く惹き付けられている事実を逆に照らし出すものだった。

非固定的なイメージとサウンドの関係においてリアルタイム性や偶発性を見出すという視点は実に興味深いが、コンセプチュアルな実験映画については、この視点がそぐわない場合もある。なので実験映画一般についてというよりも、牧野の映画に限って私の考えを大まかに述べるならば、牧野のそれは明確な形象を与えられないイメージであり、それぞれの観客の注視が同一の対象へ向かわない、よって全員が視覚的に同じものを観ていない。また同じ人間においても、観るたびに異なるものを観る事態を招く。これは観察者の一回限りの経験においては、リアルタイム性や偶発性と同様の現象をもたらす。そして、このようなイメージと非統一的に並行するサウンドは、聴覚的にも同様の現象を引き起こすのではないだろうか、といったところである。

ここで、この取り留めのないメモは整理されないままに、最初のライヒのコンサート映像の話に戻る。ある種の実験映画における非固定的なイメージとサウンドの関係とは、サウンドの根拠を欠いた解体・分離された様相を見せており、それは先述の『2:ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(テープ音楽のため、演奏者が存在しておらず、分離が徹底的である)』に似ている、と述べてみるのはこじつけだろうか? 実のところ、私がこのコンサートの映像で(ダンスについては無知なので、その善し悪しとは別に)最も異様な面白さを感じたのは、「It’s Gonna Rain」に並行して一人で踊るダンサーの身体だった。これはダンスの伴奏などとは意味が異なる。それは本来別々な作品が、別々のままに併置されている異様さであった。そこではダンサーの身体的イメージとサウンドが、非統一的・非同期的に重ね合わされ、様々な関係性が潜在させられる。そして、この思い込みがこじつけでないならば、『1:ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(ただし、演奏者の存在がサウンドの必然性を担保しているため、分離が非徹底的である)』と『3:演奏者の身体的イメージとサウンドの同期』のようなサウンドとイメージの関係にあたるものは、古典的な意味での演劇・劇映画であろう。

そうなってくると私が気にかかるのは、近年散見されるような、音楽家からのアプローチによる「古典的なサイレント映画の上映に合わせた同時演奏」をどのように理解するかということである。確かにリアルタイム性や偶発性を徹底するのならば、その最良の上映形態とは、映画上映にあわせた同時演奏である。しかし、演奏者の存在がシアターにおいて担保されている限り、それは古典的な意味での演劇・劇映画におけるサウンドとイメージの関係に留め置かれる。映画上映との同時演奏によってリアルタイム性や偶発性を徹底すると、他方でその上映は、トーキーの統一性と似た機能を果たす演奏者の存在によって、演劇・劇映画に後退するのである。スクリーンの上で出会うサウンドとイメージだけでなく、演奏者の存在までを含めて、一つのメディアとして捉えるならば、であるが。このようなサウンドとイメージの関係もまた両義的なものだと言えるだろう。

[+]京都


開催が迫ったので再エントリー。今年の[+]京都が明日より開催されます。今回の会場はソーシャルキッチンと同志社大学寒梅館クローバーホール。合計四日間のイベントですが、内容は全て異なります。(少しでも学生の方が気楽に来られるように、全プログラム学生料金が設定されています。また、同志社でのプログラムは同志社大学学生・教職員は無料です。)
http://plusscreening.org/?category_name=news

まずソーシャルキッチン(10月8日−10日)ですが、こちらは東京と同じく牧野が選んだ[+]プログラムが連日上映されます(『光の絵巻』のみ『In your star』に差し替え)。それに加えて、8日には牧野と後藤章治さん(映像作家)のトークが行われます。そして9日には牧野によるヨーロッパツアー報告のトークが行われます。さらにこの日の[+]プログラムの前には、『plus-X フィルムライブ』と題して、田巻真寛&牧野貴のユニットによるフィルムライブ(無料)が行われます。田巻がフィルムを、牧野がサウンドを担当するという、挑戦的な試みになる模様。ユニット名からもフィルム文化への偏愛を感じ取ることが出来るが、同種のフィルムパフォーマンスに見られるような「フィルムによる手工芸」的な限界の外に出ることが出来たのかどうか、立ち会って確認してみて下さい。下記はそのリハーサルの様子。

plus X live in Kyoto 2011 (1st rehearsal, excerpt) from plusscreening on Vimeo.

そして、10日は『日本の電子音楽』著者であり、『黛敏郎の電子音楽 全曲上演会』の企画者でもある川崎弘二さんをお招きして、牧野+川崎+阪本によるトークを行います(私はスカイプ越しに、ですが)。最初はのんびりと音楽について話そうと考えていたのですが、[+]プログラムを前もって観た川崎さんから実験映画における音楽についての鋭い指摘を含むアイデアスケッチが提示され、これはこちらも全力でかからねば、もう京都を歩けなくなるな…との危機感を覚えました。その指摘は狭義の実験映画のみを対象とした言説からは絶対出てこないようなものばかり。それによって牧野も俄然乗り気となり、このトークがどこに着地するのか全く見えないまま阪本の危機感は募るばかりという状況です。これはむしろ実験的な音楽に強い関心を持つ人たちにこそ聴いてもらいたい内容なので、京都の現代音楽/電子音楽/実験音楽/ノイズ愛好家の方々は、特によろしくお願いします。トークのテーマは二つ。「テーマ1:実験映画と音楽/牧野作品の音楽制作のプロセス」、「テーマ2:アーカイヴについて」です。また、この日の[+]プログラムの前には、東京と同じく25FPSプログラムも上映されます。

10月8日-10日 @ Social Kitchen
10月8日(土)
・[+]プログラム 2011@ Social Kitchen
 17:30開場 18:00開演
 上映後トーク:牧野貴×後藤章治(映像作家)
 料金:1000円(学生500円)+1ドリンクオーダー

10月9日(日)
・[plus-X フィルムライブ] by 田巻真寛 & 牧野貴 @ Social Kitchen
 15:00開場 15:30開演
 料金:無料 (1ドリンクのご注文をお願いします)
・[+]プログラム 2011@ Social Kitchen
 17:30開場 18:00開演
 上映後トーク:牧野貴ヨーロッパツアー報告
 料金:1000円(学生500円)+1ドリンクオーダー

10月10日(月・祝)
・The Best of 25FPSプログラム @ Social Kitchen
 15:00開場 15:30開演
 料金:1000円(学生500円)+1ドリンクオーダー
 “The Best of 25FPS Program”の全ての配収は東日本大震災の義援金として寄付いたします。

・[+]プログラム 2011 @ Social Kitchen
 17:30開場 18:00開演
 上映後トーク:牧野貴×川崎弘二(「日本の電子音楽」編著者) 司会:阪本裕文(映像研究)
 料金:1000円(学生500円)+1ドリンクオーダー

Social Kitchen
京都市上京区相国寺北門前町699
TEL 075-201-1430
http://hanareproject.net/

そして、同志社大学寒梅館クローバーホールでは、クロアチアの国際実験映画祭25FPSにてグランプリ/審査員特別賞/映画批評家特別賞を獲った、牧野貴+石田尚志による『光の絵巻』の関西プレミア上映が行われます。『光の絵巻』は石田の描線と、牧野による映像変容のプロセスによって、今までの両者の作品とはまた異なる映像が生成された作品です。音楽もこの二人による演奏で、石田のピアノ即興演奏と、牧野のFaust – It’s a Rainy Day, Sunshine Girlを想起させるドラムによって構成されています。さまざまな意味で異色の作品ですが、未見の方は是非。あわせて牧野作品と石田作品の過去作品上映プログラムと、牧野+石田によるトークも行われます。こちらもよろしくお願いします。

10月11日 @ 同志社大学寒梅館クローバーホール
10月11日(火)
 牧野貴・石田尚志スペシャルプログラム @ 同志社大学寒梅館クローバーホール
 16:30開場 17:00開演 (20:00終演予定)

17:00 牧野作品上映
 [The Seasons] 2008年/30分
 [still in cosmos] 2009年/17分

18:00 石田作品上映
 [フーガの技法] 2001年/19分
 [海の絵画] 2007年/12分
 [浜の絵] 2011年/14分

19:00 共作[光の絵巻]関西プレミア上映+対談
 [光の絵巻] 牧野貴・石田尚志/2011年/16分(サウンド版)
 ※デジタル上映
 料金:500円 ※同志社大学学生・教職員は無料(同志社内諸学校含む)

同志社大学寒梅館クローバーホール
京都市上京区烏丸通上立売下る御所八幡町103
TEL 075-201-1430 (同志社大学今出川校地学生支援課)
http://www.doshisha.ac.jp/students/support2/kaprog/clover/
主催 同志社大学今出川校地学生支援課 共催 牧野貴+石田尚志、[+]

メタボリズム展パブリックプログラムに山口勝弘

ガタッ
http://www.mori.art.museum/contents/metabolism/public/index.html#pp01d

第5回「空間から環境へ:同時代のインターメディアな活動と万博」
メタボリズムが全盛を極めた1960年代は、美術、音楽などさまざまな芸術ジャンルが従来の領域を超えて活動したインターメディアな時代でもあり、なかでも「環境(エンバイロメント)」の概念は彼らの活動をつなぐ重要なキーワードのひとつでであり、それは1966年の「空間から環境へ展」を経て、1970年の大阪万博で結晶化されたといえます。本シンポジウムでは、まさにその渦中にいたクリエイターを中心に、当時の「環境」の背景や多角的な解釈、メタボリズムの概念との親和性、70年万博における広がりを検証し、そこから半世紀後の現代に生きる私たちがどのような精神を継承できるのかを議論します。
出演: 浅田 彰(京都造形芸術大学院長)、井口壽乃(埼玉大学教授)、磯崎 新(建築家)、一柳 慧(作曲家、ピアニスト)、山口勝弘(美術家)
モデレーター: 片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)

日時: 2011年12月18日(日)14:00-16:00
会場: アカデミーヒルズ49[森タワー49階]
定員: 150名(要予約)
料金(税込): 一般2,000円、MAMCメンバー無料
主催: 森美術館、アカデミーヒルズ
お申し込み: 2011年11月7日(月)11:00よりお申し込み開始
* 手話通訳をご希望の方は12月12日(月)までにppevent-mam@mori.co.jpへご連絡ください。

磯崎新、一柳慧、山口勝弘の三人の話は、思い出話に花が咲く感じになるのだろうか。井口さんには山口勝弘の発言を助ける役割を期待。で、そこに浅田彰がどう絡むのだろう、といった感じだ。建築については浅田孝と絡めながらで想像がつくけど、そこから一柳・山口の領域をどのように整理してみせるのか、とても気になる。ところで、一柳・山口という組み合わせは万博三井館を想定したものかと。