サウンドとイメージの関係についてのメモ

休日なので昼寝をしすぎて、深夜になっても眠くならずネットを巡回する。するとスティーヴ・ライヒのコンサートの配信があるという情報を見つけたので、これはちょうど良いとばかりに視聴する。そして、怠け過ぎた週末を反省してしまうような緊張感あるコンサートの模様を楽しんだ。そのコンサートは、ビデオプロジェクションによるシアター的要素を含んだダンス+ミニマルミュージックという定番的な上演形態だったのだが、ここで頭をよぎったことは、演奏する身体のイメージ、あるいはダンスする身体のイメージとサウンドの関係についてだった。それを演目ごとに適当にまとめると、以下のようになる。(ただし、後方のスクリーンにプロジェクションされていたビデオ映像は補助的な演出にすぎなかったので、ここでは勘案しない。)

1:『ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(ただし、演奏者の存在がサウンドの必然性を担保しているため、分離が非徹底的である)』
・ここでの中心的イメージは、演奏に合わせて踊るダンサーの身体そのものであり、演奏者の身体はスクリーンの脇に追いやられ、ほとんど照明に照らされることはない。
・しかし、この場においてサウンドを発しているのは、紛れも無くスクリーンの影に潜む演奏者の身体である。演奏者の身体はサウンドに根拠付けられるイメージとして機能している。
・サウンドはこのような関係において、半ば独立しながらも演奏者の存在と結び付けられて、シアターの中心に位置するダンサーの身体的イメージと必然的関係を持たないままに併置される。

2:『ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(テープ音楽のため、演奏者が存在しておらず、分離が徹底的である)』
・ここでの中心的イメージは、演奏に合わせて踊るダンサーの身体そのものであり、上記のような演奏者の存在もないため、サウンドは根拠付けられたイメージを持たないまま完全に独立している。
・ここでサウンドと身体的イメージは、必然性や根拠から完璧に解放され、自由な組み合わせを取り得る。潜在するサウンドとイメージの可能性。
・しかし、それは“映画においてサウンドがどんなイメージにでも良く合ってしまう”という状態と等しい。例えばここで上映されたテープ音楽が「It’s Gonna Rain」でなくとも、ダンサーの身体的イメージは別のテープ音楽のサウンドと良く合ったかもしれない。

3:『演奏者の身体的イメージとサウンドの同期(最も安定したイメージとサウンドの関係)』
・ここでの中心的イメージは、楽曲を演奏するカルテットの身体的イメージであり、サウンドは演奏者の身振りと必然的に結びつく。
・そのイメージとサウンドの関係は、極めて安定した形において統一される。当たり前の話だが。

こんなことを何故書いたかといえば、それは京都における+上映会のトークに関係してくる。(私はこのトークにスカイプで参加していたのだが、機材トラブルで会場の声を聞き取れず、結果的に殆ど話に絡めなかったのだけど。)

このトークの数日前、事前に行われた川崎さんとの打ち合わせでは、ミシェル・シオンの言説が話題に上がっていた。ただしシオンは、その言説において劇映画を中心的に取り扱っており、その「映画のなかの現実におけるフレーム内の音/フレーム外の音、それに対するオフの音」という図式は実験映画にそのまま適用できるものではない。単純に述べてしまえば、シオンはある種の劇映画におけるサウンドの柔軟な使用方法が、トーキーの統一性とリアリズムを指向する動きに抵抗する、反リアリズム的なサウンドとイメージの出会いの可能性を開くものになるとして擁護していた。しかし、その一方で実験映画は、シオンによって劇映画的・説話的な存在の場を持たないものとして大雑把に括られ、音の所在の関係において可能性を拡げることが出来ない、抽象的なレベルでの関係付けしかできないものとして冷たくあしらわれている。

それを一歩押し進めるかたちで、実験映画におけるサウンドとイメージの関係についての問題提起が、川崎さんの方からあった。それは劇映画よりもさらに極端なかたちでサウンドとイメージの関係が分節化されている実験映画において、サウンドとイメージが解体的・分離的に併置されながらも、そこに「あらゆる音が、映像にいとも簡単に寄り添ってしまう悲劇性」がみられることを指摘するものだった。もちろんこれは否定的な意味を込めた指摘ではなく、そのようなサウンドとイメージの解体的・分離的な関係から読み取ることのできる両義性を考察せよという指摘である(誤読だったらすみません)。このような川崎さんの指摘とは、実験映画におけるイメージとサウンドの関係を非固定的な性質のものとして捉え、そこにリアルタイム性や偶発性を見出すという視点を提起している。それはまた、実験映画におけるサウンドについて述べながらも、電子音楽の歴史研究に取り組んでいる川崎さんご本人が、実はリアルタイム性や偶発性を持つような音楽に強く惹き付けられている事実を逆に照らし出すものだった。

非固定的なイメージとサウンドの関係においてリアルタイム性や偶発性を見出すという視点は実に興味深いが、コンセプチュアルな実験映画については、この視点がそぐわない場合もある。なので実験映画一般についてというよりも、牧野の映画に限って私の考えを大まかに述べるならば、牧野のそれは明確な形象を与えられないイメージであり、それぞれの観客の注視が同一の対象へ向かわない、よって全員が視覚的に同じものを観ていない。また同じ人間においても、観るたびに異なるものを観る事態を招く。これは観察者の一回限りの経験においては、リアルタイム性や偶発性と同様の現象をもたらす。そして、このようなイメージと非統一的に並行するサウンドは、聴覚的にも同様の現象を引き起こすのではないだろうか、といったところである。

ここで、この取り留めのないメモは整理されないままに、最初のライヒのコンサート映像の話に戻る。ある種の実験映画における非固定的なイメージとサウンドの関係とは、サウンドの根拠を欠いた解体・分離された様相を見せており、それは先述の『2:ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(テープ音楽のため、演奏者が存在しておらず、分離が徹底的である)』に似ている、と述べてみるのはこじつけだろうか? 実のところ、私がこのコンサートの映像で(ダンスについては無知なので、その善し悪しとは別に)最も異様な面白さを感じたのは、「It’s Gonna Rain」に並行して一人で踊るダンサーの身体だった。これはダンスの伴奏などとは意味が異なる。それは本来別々な作品が、別々のままに併置されている異様さであった。そこではダンサーの身体的イメージとサウンドが、非統一的・非同期的に重ね合わされ、様々な関係性が潜在させられる。そして、この思い込みがこじつけでないならば、『1:ダンサーの身体的イメージとサウンドの併置(ただし、演奏者の存在がサウンドの必然性を担保しているため、分離が非徹底的である)』と『3:演奏者の身体的イメージとサウンドの同期』のようなサウンドとイメージの関係にあたるものは、古典的な意味での演劇・劇映画であろう。

そうなってくると私が気にかかるのは、近年散見されるような、音楽家からのアプローチによる「古典的なサイレント映画の上映に合わせた同時演奏」をどのように理解するかということである。確かにリアルタイム性や偶発性を徹底するのならば、その最良の上映形態とは、映画上映にあわせた同時演奏である。しかし、演奏者の存在がシアターにおいて担保されている限り、それは古典的な意味での演劇・劇映画におけるサウンドとイメージの関係に留め置かれる。映画上映との同時演奏によってリアルタイム性や偶発性を徹底すると、他方でその上映は、トーキーの統一性と似た機能を果たす演奏者の存在によって、演劇・劇映画に後退するのである。スクリーンの上で出会うサウンドとイメージだけでなく、演奏者の存在までを含めて、一つのメディアとして捉えるならば、であるが。このようなサウンドとイメージの関係もまた両義的なものだと言えるだろう。

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