Performed by plus-X

Film live performance 2011 in Kyoto from plusscreening on Vimeo.

「+京都」におけるplus-X(フィルム:田巻真寛、サウンド:牧野貴)のフィルム・ライブパフォーマンスの映像が公開された。ここでは、あらかじめ準備されたフィルムをループで上映し、上映と同時にそのエマルジョンを薬剤で剥がすことによってイメージを変容させている。サウンドについてはスクリーンに貼付けられたセンサーによって光を拾って、それをノイズに変換して演奏している。実際に観た訳ではないので、詳しく述べることはできないが、ここで試みられているのは、サウンドとイメージが渾然一体となった、リアルタイムでの映画の生成であると思える。

「このような試みは過去にも存在していた」との指摘を述べる人もいるかもしれないが、そんなことは作家も重々踏まえている訳で、ここで成すべきことは、この試みのなかにどのような未知の映画の表れを見出し、新しい意味を付与できるのかということに尽きる。それを前提として述べるならば、リアルタイムでの映画の生成といえば、スタン・ヴァンダービークや松本俊夫のマルチプロジェクションによるエクスパンデッドシネマを(戦後の実験映画史な意味での)先駆とすることができよう。その後、数多くの作家がこの試みに連なることになり、日本の場合は60年代のハプニングとセットになって映画の一回性が極端化していったといえる。そして、近年であればブルース・マクルーアやベン・ラッセル+ジョー・グリムなどが、リアルタイムでの映画の生成を試みているといった印象だ。(これはフィルムについての話であり、ビデオアートとなると、そもそもリアルタイム性が重要なコンセプトであったといえる。しかしそれは多くの場合、身体や行為の延長としての再帰的な側面が強調されており、映画的な、象徴化されたスクリーン上のイメージとは異なる性格を持っていた。)

このような、今までのリアルタイムでの映画の生成を追求する傾向に対して、今回のplus-Xの試みにおいて特徴的な側面を掬い上げるならば、それは「サウンドとイメージが渾然一体となった状態で、両者の新たな関係性を探査する試み」ということになるだろうか。サウンドのインプロでもなく、イメージのインプロでもなく、この二つが等価に対立しているという関係での、渾然一体となったインプロとして。しかもこの試みは、敢えて不確定なプロセスを組み込むことで、そのインプロが予測不能な方向へ転げだす可能性を常に孕んでいる。これをどこまで極端化して突き詰めることができるのか、それがこのユニットの目的となるだろう。

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