らんぶるにて

初めてジム・オルークの音楽を聴いたのは、ファウストの「Rien」だった。最初は彼の名前すら知らず、当時復活したばかりだったファウストの音源目当てで私はこの盤を購入したのだが、ファウストのライヴ録音をマテリアルとして分解し、緻密に再構成したその音楽はとても印象深く、現在まで継続して彼の仕事を追い続ける切っ掛けとなった。その後、自分はそれなりに聴く音楽をさまざまに変化させてきたが、それでもジム・オルークとガスター・デル・ソルだけは、当時の彼に関連する他の音楽家やバンドとは別のものとして、継続して聴いてきた。そのような他の音楽家やバンドとジム・オルークを比べて、どこが違うのかと問われれば、なかなか明確にいえないが、最初から終わっていた音楽の実験に対して——音楽の新しさに対して、諦観のようなものを抱えながら耐える姿勢のようなものを、どこか感じたからかもしれない。音楽の実験性——音楽の新しさや可能性を探ることがどれほど不可能であるか。これは始めから「実験音楽やります、実験映画やります」と言ってしまえるような人とは共有できない事柄だと思う。もちろん「実験的」な様式を備えた商品をつくることはいくらでも可能だろうが。このような思い込みを抱えながら、ジム・オルークと牧野貴の共同作業についての話を、二時間以上聞いたのが昨日のこと。それは、ジム・オルークと牧野貴が通底して持っている、実験性を求めるストイックな姿勢と、ストイックに固まるだけではないある種の柔軟さの確認でもあった。

このインタビューの模様は、来年の刊行を目指している、ささやかな私家版の雑誌に収める予定です。

余談だが、意外に(というか、やっぱり)ジム・オルークは実験映画にかなり詳しかった。なかでも、日本の大御所映像作家の16mmプリントを持っているという発言には驚いた。国内の映画評論家や音楽評論家は、劇映画とジム・オルークは結びつけても、実験映画とジム・オルークは結びつけようとしない。しかし、ジム・オルークのなかで劇映画と実験映画は、等しく「映画」であった。これは嬉しい発見だった。

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