篠原眞電子音楽演奏会

2012/1/8
東京 門仲天井ホール

年の初めに「篠原眞電子音楽演奏会」に足を運んでみた。この日の演目は『To Rain and Wind B for 21-string koto and electronics』を除いて、全てテープ作品の上演であった。ここではテープ作品に限って述べてみたい。演奏者が存在しており、箏の演奏にリアルタイムで電気的変調を加える『To Rain and Wind B』について述べることは、自分には少々手に余るので割愛する。

まず、演目は『Visions I』と『Memoires』によって始まった訳だが、これらはいずれもケーニッヒが所長を勤めていたユトレヒトのソノロジー研究所において制作されたテープ作品である。無人のステージ上には、マルチチャンネルのスピーカーのみが並ぶ。その薄暗い空間で、テープ作品が上演される。『Visions I』は素材となる電子音を作成・変調して構成した、初期の電子音楽らしい作品であり、ノイズ的な激しい箇所もあって平板な構成に終始することはない。篠原眞のインタヴューを読んでいると、GRMでミュージック・コンクレートを学んだ経歴が、彼の電子音楽の作品に、大きな影響を与えたようにみえる。この作家において狭義の電子音楽作品は『Visions I』くらいなもので、他の多くの作品では、何らかの形で具体音による構成が行われている。

『Memoires』は、『Visions I』の素材電子音のレイヤーに、新たに日常空間で採取された具体音のレイヤーを加えて、統合的に構築を行った作品である。その緻密な電子音と具体音の配置は、前作と比べても圧倒的に面白く、この作家にとって(電子音楽の作品に限っていえば)具体音の構築こそが主な関心事であったことが伺える。この2作品の上演はスタッフの丁寧な準備によって最良の再生環境が整えられていたために、いずれもCDで聴くより生々しい印象を受けた。

『Personnage』は、人体から発される具体音を素材として、電気的変調を加えて構成したテープ作品であるが、こちらはパントマイムによる、舞台上での視覚的イメージを併行させる形式での上演だった。この上演を実際に観て思ったことは、当然な話だが、演劇性をとても強く感じるということだった。念のために付け加えると、個人的には全く未知の領域であるパントマイムの演技を間近で観られたこともあって、上演そのものは大いに楽しんだのであるが。ただ、この日のコンサートに限らない一般論なのだが、音楽の上演に視覚的イメージを伴わせるケースにおいて、音楽家が演劇的演出を意図すること――それは舞台芸術に付き纏うある種の束縛を呼び込むケースが多いのではないか、とも思った(視覚的イメージの併用は『City Visit』についても同じなのだが、こちらは恐らく別の問題が絡んでくる)。

『Broadcasting』はNHK電子音楽スタジオで制作されたテープ作品で、ある一日のラジオ放送のサウンドそのものを素材として、かなり積極的に電気的変調を加えたものである。ザラザラした質感を持ったサウンドが、断片的にコラージュされてゆく。本作を偏愛するノイズ愛好家の方々もいることだろう。この作品について、作家は電気的変調による素材の主観化と説明したが、この対極にあるのは『City Visit』であると言えよう――それは作家の言葉によれば「事実性の尊重」である。

という訳で、この日最後の演目である『City Visit』となる。本作はマンハッタンで採取されたサウンドを素材としたテープ作品だが、今回はマンハッタンのスライド写真の上映と同時並行して、第一部・第二部を続けて上演するという形がとられた(スライド上映なしでも上演可能らしい)。本作でのスライド上映について、作家は補助的なコメント以上の役割はないと解説するが、コメントであるとの説明を差し引いても、奇妙な構造を持った作品であると思った。ある場所において採取されたサウンドの編集ということなら、このプロセスにおける「事実性」とは映画のフィルム編集に近い性質を持つものであるといえる(この作品では、サウンドに電気的変調は加えられていない=もとの空間を聴覚的にイメージすることが可能である)。

実際のところ、本作でのスライド上映は極めて映画的な、スクリーンにおける象徴的役割を与えられている。しかしそれは、音楽との間に絶対的な関係を持つものではない。ここで聴かれるサウンドは、スライドの場所を絶対的に指示するものではない(言い換えるならば、正確な再現を指向するものではない)。それよりも本作は、スライド上映(視覚的イメージ)と音楽のあいだに、不安定な関係を結ばせることを試みている。現実と非現実の狭間といっても良いだろう。微細な日常空間のサウンドが一つの大きな房のように重ね合わされ、推移する。それはフィルム編集におけるディゾルブのようであり、都市の風景を、聴覚的に異化する。本作は現実の空間を、聴覚上の空間として異化するものであったといえる(その場合、採取されたサウンドの構成と配置こそが異化のプロセスである)。その異化を明確化するための役割を、スライド上映による視覚的イメージが果たしていたといえよう。となると、音楽的な甘美さにおいて本作を受容するのではなく、その異化を知覚することこそが、この作品が持つ可能性であるように思えてくる。 このような知覚とは、スクリーン上において視覚的イメージと音を、統合され同期されたものとして、もっともらしく再現しようと偽る「映画」の構造とは対極的なものである。

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