恵比寿映像祭「四稜鏡(プリズム) スクリーンの四辺に光満つ」

恵比寿映像祭にて、ジム・オルークのプログラムを観た。包み隠さず本心をいえば、このプログラムこそが本年度の最重要プログラムであり、他のプログラムはおまけに過ぎないとすら思う。その高純度な四本の実験映画について述べる前に、カタログに掲載されているオルークのテクストについて触れたい。オルークは、このテクストにおいて「具体映画」(コンクレート・シネマ)という概念を提出している。これを単純に「具体的な」映画として解釈すると、本質はぼやけてしまうだろう。勿論、実験映画の歴史的な試みのなかにはマイケル・スノウに代表される構造映画や、イギリスの構造的=物質主義的映画(テクスト内では「唯物主義」映画と翻訳されている)が存在している。しかし、オルークの関心はもっとプライベートな経験に基づいている。それは、ある映画を一緒に観に行った友人が直接的/身体的に気分を悪くしてしまったという他愛のないエピソードであるが、ここからオルークは、知覚のコントロールによって具体的な影響を直接的・身体的に与えるような映画を提起する。要するに観客が急に体調を崩したり、観客同士で見解の対立から喧嘩が始まるような映画である。映像という光の運動によって、そのような経験を観客に与えることは可能か。まさに「映像のフィジカル」という全体テーマに合致した視点である。本プログラムに含まれたフィルムとは、そのような作品ばかりである。


・ウォルター・デ・マリア《ハードコア》
Walter DE MARIA, Hardcore/1969年/29分
デ・マリアは著名な現代美術家であり、ランドアート作品でよく知られる。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの前身となるバンドに、トニー・コンラッドと共に参加したことでも知られる。オリジナルは16mmフィルムであるが、HDにテレシネしての上映。元々は実験映像を流すTVプログラムのなかで放送されたものだという(デ・マリアだけでなく、他にも三名の作家による映像作品が放送されたらしい)。カラー作品であり、サウンドはデ・マリア自身による『Drums And Nature』(Discogsを参照)から、「Ocean Music」が使用されている(これは波の音のフィールドレコーディングに、デ・マリアによるシンプルなドラミングが重ねられるという楽曲である)。
映画について説明する。まずは干涸びた荒野を撮影するカメラが、水平方向にゆっくりと回転を続ける。そこに『Ocean Music』のフィールドレコーディングとドラミングが加わることによって、運動とサウンドは連携し、やがて映画は奇妙な空間性を生み出し始める。これだけだと本作は厳密なコンセプトを実現した構造映画ということになってしまいそうだが、本作にはそういった真面目な実験性を脱臼するような仕掛けも施されている。それが周回運動の合間に一瞬だけカットインされるガンマンのショットである。私のメモが正しければ、それは4回あった。

1:ガンマンの足下(ブーツと干涸びた土)
2:拳銃のチェックを行い、ホルスターにしまう
3:ライフルに弾を込める
4:睨み合う二人のガンマンの表情のアップ

このような極めて短いショットがカメラの運動にカットインされる。やがて映画の進行に応じて、サウンドの音量もどんどん大きくなってゆき、緊張感は増大する。やがて、終盤でサウンドがフェードアウトしてゆき、唐突に二人のガンマンの激しい銃撃戦が始まる。そしてラストに謎の中国人少女がフィックスで映し出されて映画は終了する。これはスノウの作品に見られる奇妙な劇映画的要素と同じものであり、作品全体を支配する実験映画の文脈を強引に解体するような劇映画的演出であるといえる。作品の大部分で厳密な構造を持続させつつも、それを最後で強引に解体する。これはまさにジム・オルークの楽曲における、ドローンやミニマルの循環と切断そのものではないだろうか。


・ビバリー・グラント&トニー・コンラッド《ストレイト・アンド・ナロウ》
Tony CONRAD, Straight and Narrow/1970/10分
オルークとも関わりの深い実験映画作家であるトニー・コンラッド(以下、トニコンと呼ぶ)のフィルモグラフィーからは、代表作である『フリッカー』(1966)ではなく、もう一段激しい明滅を引き起こす『ストレイト・アンド・ナロウ』がセレクトされた。これは、縞模様ラインの明滅による激しいフリッカーによって観客の眼を攻撃する作品で、その激しさは、『フリッカー』以上である。眼に焼き付くような激しい明滅は人間の視覚を拡張し、生理的な現象を知覚させる(私の場合は、血流のような渦が見えた――気がした)。音楽はジョン・ケール+テリー・ライリーの『Church of Anthrax』(Discogsを参照)の『Ides of March』であり、明るいミニマルミュージックである。細分化された部分の繰返し構造とは、ミニマルミュージックの基本的な形式であるが、それは明滅との相乗効果を引き起こす。振り返れば、『フリッカー』は、イメージが白コマと黒コマの緻密な明滅であるのに対して、サウンドトラックの方は映写機のような持続的な機械音であった。それと比較するならば本作のサウンドトラックは、イメージの緻密な構造と形式的な類似を見せており、ラインの明滅を駆使したフレーム内での緻密な編集と相まって、手法的にある種の洗練に達した作品であるといえるだろう。それにしても、単なるランプ光がフィルムを通過して、スクリーンに投影されただけだというのに、映画というメディアは、何という大きな作用を人間の知覚に与え得るのだろうか。


・アーニー・ゲア《サイド/ウォーク/シャトル》
Ernie GEHR, Side/Walk/Shuttle/1991/41分
アーニー・ゲアは、代表作である『セレーン・ヴェロシティ』(1970)でよく知られる。今回セレクトされたのは『サイド/ウォーク/シャトル』であるが、この作品は昇降するエレベーターのなかから、街の風景を撮影する、ただそれのみを40分間繰返すという作品である。ただし、カメラは横向けにされたり、逆さまにされたりして、不安定なアングルで風景を捉えている。昇っては降り、降りては昇りを単調に片道約90秒ずつ繰返す。これによって、観客は奇妙な浮遊感のなかに置かれる。しかも、よくよく道を行く人々や乗用車を観察すると、エレベーターが降りる時にはそれらは正しい方向に運動しているのだが、エレベーターが昇る時には多くのショットで、フィルムの逆回転によって人々や乗用車が逆方向に運動していることに気が付く。このようなシンプルな仕掛けによって、観客は運動の安定性を混乱させられることになる。空間と運動を混乱させるような作品という点で、『セレーン・ヴェロシティ』と近似する作品であったといえるだろう。これは、観客に楽しい酩酊感を与えるためのものというよりも、人間の知覚がいかに脆弱であるのかを検証するためのものである。サウンドは、街のフィールドレコーディングであった。

・カーク・トーガス《知覚の政治学》
Kirk TOUGAS, Politics of Perception/1973/33分
トーガスはドキュメンタリー作品などでも知られる幅の広い作家だが、以前よりジム・オルークがこの作品の素晴らしさを説いていたので気になっていた。
この作品については配給元のサイトでプレヴュー視聴できます。どうぞ。http://lightcone.org/en/film-1470-the-politics-of-perception.html

この映画は、ごく短い「1:序章」と、とても長い「2:経験」という二つの章に分けられている。前者はコンセプトが字幕で表示されるのみ。そのコンセプトとは、シチュアシオニズム的な立脚点において、社会における「生産/流通/消費」の欺瞞性に意義を申し立てることである。次に、後者ではアクション映画の予告編がファウンドフッテージとしてループされる。そして、ループの繰り返し回数が増えるのにともなって、予告編は徐々に劣化・ノイズ化してゆき、最終的には映写機のまばゆいランプ光の状態に至る。この一連の変化によって映画は「序章」で示されたコンセプトを実践し、観客に映画の欺瞞性が露呈するまでを経験させる。フィルムの物質性を明らかにするという点では構造映画的であり、ジョージ・ランドウの作品に似たところもあるが、この作品が孕む政治性とは、イギリスの構造的=物質主義的映画や、ギー・ドゥボールの方に近い。(過去に牧野貴の『World』オールナイトプログラムにおいて国内上映された、オルーク自身の実験映画『Not Yet』も同じ構造を持っている。)

以上、オルークが「具体映画」という概念のもとに提示した四本の実験映画について述べた。どれもオルークがいう通り、映画を介した知覚のコントロールによって具体的な影響を観客に与えるような映画であったといえるだろう。ただし、デ・マリアとトーガスの作品は映画の文法であったり、社会的コンテクストの混乱を目的としており、トニコンとゲアは視覚的な混乱を目的としているのだが。

余談だが、個人的にはジム・オルークの音楽制作の際の考え方と、このプログラムの関連が気になったので、質疑の際に「このプログラムでは構造映画的な作品が集められていたが、特に繰り返しの要素が強調されていたように思う。一つめの映画は回転、二つめの映画は小さな単位でのミニマルな構成、三つ目の映画は昇降、四つめの映画はループであった。そのような意識はあった?」と聞いてみた。すると、「いやあんまり…でも繰り返しは大好き。」みたいな答えが返ってきた…。しかし、ジム・オルークの初期の仕事に顕著なミニマリズムへの関心は、このプログラムにおいて観た映画の構造と共通性を持っているように思えてならない。特に、デ・マリアの映画を観て私が真っ先に思い出したのは、Gastr Del Solの『Our Exquisite Replica Of “Eternity”』であった。実験映画的な持続を、劇映画的演出によって解体すること。それを音楽でやるとああなる。

この日は実験映画の上映会では集まらないような幅広い層の観客が集っていたように思うので、今後、状況が変われば良いなと思う。実験映画は気楽に観てストレートに楽しめるものだと思うんだけどなー。

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