Burzum – Umskiptar

(Byelobog Productions / CD, LP)

ヴァーグは仮出所後、コンスタントに作品をリリースしているが、本作『Umskiptar』はBurzumの10枚目のアルバムとなる。この前作『From the Depths of Darkness』は初期楽曲の再レコーデング・アルバムであったが、そこで聴かれる演奏は、綺麗に整理された典型的なブラックメタルであった。そこに初期のBurzumが持っていた、聴衆の耳を喰いちぎるようなノイズ性は存在しなかった。私はそれを聴いて、否定的な意味で述べるのではないが、恐らくヴァーグは、今後の活動において典型化されたブラックメタルを演奏してゆくつもりなのだろうと勝手に解釈していた。『From the Depths of Darkness』での再演奏は、そう思わせるに充分な程に、ローファイな制作環境がもたらすノイズ性を排除したものであった。しかし、本作はそんな私の勝手な解釈を超えて、また違った形で典型化されたブラックメタルを逸脱する方向へと向かっている。その逸脱は、アルバム中盤以降に顕著なForsetiやChangesのような民謡的なヴォーカルや、Blood AxisやWaldteufelのような演奏によって為されている。ここに聴かれるものは、ネオフォークやネオクラシカル、マーシャル・インダストリアルといった広義のノイズ・インダストリアル周辺の音楽との共振である。(Blood Axisのマイケル・モニハンがブラックメタルについての書籍『Lords of Chaos』の著者であることは、改めて指摘するまでもないだろう。)

ただし、それらの音楽と本作におけるBurzumの共振は、音楽の表面的な手法のレベルに留まるものでない。この共振は、音楽の外側にあるもの――ある種の社会性への着目にまで及んでいると考えるべきだろう。そもそも社会的な音楽という点では、文化としてのブラックメタルは、教会に火を放っていた当初の段階からそうであった訳だが、かつてのヴァーグは、それを右傾化した民族主義的なものとして極端化させていった。しかし仮出所後の活動を見ていると、ヴァーグは態度を穏健化させ、それを個人的な思索のレベルで追求することに切り替えたかに見える。そして、ネオフォークやネオクラシカルといった音楽の多くは、程度の差はあれど、歴史的・神話的なもの、すなわち民族的モチーフを基盤としている。今回のこれらの音楽との共振とは、音楽的な手法のレベルではなく、本質的にはこのようなモチーフの取り扱いにおいて把握すべきものであり、改めてヴァーグの思索の基盤を示すものであるといえよう。

本作は、古ノルド語で記された北欧神話についての歌謡集である、古エッダ「巫女の予言」をモチーフとしている。そのため、ヴァーグのヴォーカルは普通の声による、語りに似たものとなっている。(アイスランド語、ノルウェー語と、古ノルド語の関係はここを参照。)

まず、不穏な空間の中で儀式的なドラムが打ち鳴らされる、導入部である「Blóðstokkinn」からアルバムはスタートする。続く「Jóln」では、一転して反復主体のプリミティヴなブラックメタルを演奏する。それは『Filosofem』の時期のBurzumを思わせる楽曲である――歌い方を除けば。その後は、「Alfadanz」「Hit helga Tré」「Æra」と題された楽曲が続き、スローなリフによるブラックメタルが演奏される。それは一応はブラックメタルの体裁を取っているものの、ヴァーグの語りに似たヴォーカルに合わせた、朗読の伴奏という側面が強調されている。続いてノイズ混じりのギターに語り声が乗る「Heiðr」と題された小曲を挟んで、本アルバムは更に深みへ沈み込んでゆく。

七曲目の「Valgaldr」は、「Dunkelheit」を連想させる極めてスローな反復のなかで、ゆったりとした民謡のようなヴォーカルが重なる楽曲であり、8曲目の「Galgviðr」は、情念的なギターと民謡のようなヴォーカルが交互に現れ、絡み合いながら進行する楽曲。9曲目の「Surtr Sunnan」は、「Gebrechlichkeit I, II」を思わせるギターの繰り返しに、朴訥とした語りが乗る楽曲。ここまで来ると、アルバムの前半に垣間見えていた朗読の伴奏という側面は、完全に音楽の目的そのものとなる。そして10曲目の、10分間にわたる詠唱のような語りとコーラスに、爪弾かれるギターがひっそりと寄り添い続ける「Gullaldr」によって、音楽は深みの底に至る。Burzumのブートレグ『Ragnarok (A New Beginning)』の最終曲で、シンセサイザーによるアンビエントに、アサトル創設者であるSveinbjörn Beinteinssonの詠唱を重ねた「Havamal」という楽曲があるが、ヴァーグが本作で試みたものは、これと同様のものであったといえる。ここで音楽は、激しく聴衆を煽動する音楽から遠く離れ、まるでヴァーグの思索の過程を音楽よって顕すようにして沈降してゆく。そしてアルバムは「Níðhöggr」と題された、導入部と同じくマーシャル・インダストリアルを思わせる不穏な楽曲によって閉じられる。

芸術というものが商品ではなく、精神的な思索の表出であるとすれば、本作ほどそれにふさわしい表れもないだろう。それがある種の危うさを孕むものであったり、一見して低く見えるものであったとしても。

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篠原眞の電子音楽上演会

今年始めに東京で行われた、篠原眞電子音楽上演会が京都でも開かれるそうだ。演目も少し変わって、「Passage for stereo amplified bass flute 〈移り行き〉」が加えられている。さらに、今回も川崎弘二編著による研究本として「篠原眞の電子音楽」が出版・配布されるという。日本の電子音楽における恒例行事として、今後も継続を期待してます。

前日には「電子音楽作品の上演についての実践的考察−黛敏郎作品のマスタリングを例として−」と題された能美亮士(講師)、川崎弘二(司会)によるレクチャーも行われるそうです。

篠原眞の電子音楽上演会
2012年5月31日(木)
開始:19:00
開場:18:30
会場:京都芸術センター講堂
http://koji.music.coocan.jp/JCMR.html

Visions I〈幻影 I〉(1965, 4ch)
Mémoires〈追憶〉(1966, 4ch)
Personnage〈人物〉(1968-73, 3ch)
Broadcasting〈ラジオ放送〉(1974, 2ch)
Passage for stereo amplified bass flute 〈移り行き〉(1980/86)
City Visit〈都市訪問〉(1971-79, 4ch)

音響:能美亮士、東岳志
フルート:江戸聖一郎
*書籍「篠原眞の電子音楽」(川崎弘二編著)を配布予定

「空間から環境へ:同時代のインターメディアな活動と万博」採録

森美術館で開催された「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」の関連シンポジウムである、「空間から環境へ:同時代のインターメディアな活動と万博」の採録が公開された。戦後アヴァンギャルド芸術に関心を持つ者にとっては、何といっても山口勝弘の降臨が目玉だろう。他の出演者は磯崎新、一柳慧などであり、これを整理するのが浅田彰。彼は建築を中心とした話題で、磯崎とは今までにもよく対談しているように思うが、大阪万博以前の戦後アヴァンギャルド芸術それ自体への言及はそれほどなかったようにも思うので、なかなか興味深い試みだといえる。

「メタボリズムの未来都市展:戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」
シンポジウム「空間から環境へ:同時代のインターメディアな活動と万博」
2011年12月18日
出演: 浅田 彰(京都造形芸術大学大学院長)、井口壽乃(埼玉大学教授)、磯崎 新(建築家)、一柳 慧(作曲家、ピアニスト)、山口勝弘(美術家) モデレーター: 片岡真実(森美術館チーフ・キュレーター)

第1回 「空間から環境へ展」とは
第2回 日常の意識を拡張する
第3回 建築、都市デザイン、政治から見た「環境」
第4回 大阪万博:テクノロジーと芸術の融合を試みた環境
第5回 新しい時代に向けたヴィジョンとしての環境

シンポジウム全体の論調は、当時の建築と芸術に表れた「環境」という概念を包括的に検討する良い内容であったと思う。個人的な欲を言えば、どうして大阪万博以後(1970年代中頃以降)の芸術・文化において「環境」という概念が注目されなくなっていったのかについてもスマートに整理して欲しかった。40年前に試みられた全感覚を包み込むインタラクティヴな環境を作る夢が、現在のテクノロジーによって、ようやく実現しつつある——という感じの無難なまとめに終わったのは、ちょっと物足りない。

国内ゴダール受容についての小論、について

堀潤之さんによる国内ゴダール受容についての小論。
http://d.hatena.ne.jp/tricheur/20120504
堀潤之「映画は音楽のように――日本におけるジャン=リュック・ゴダール作品の受容についてのささやかな覚書」(PDF)

結構大胆なことが書かれている気がするが、国内のゴダール受容について感じていた、もやもやした印象が整理されたように思う。ゴダールについては何かを語れる程の力もないが、『季刊フィルム』における国内ゴダール受容は、確かに現在とは全く異なるものであったと思う。それは作品の持つ社会的批評性において、同時期のアンダーグラウンド映画の社会的立ち位置の延長線上に捉えられていた。ちょうどジガ・ヴェルトフ集団のBDも出ることだし、その辺考えながら観てみたい。

イメージフォーラムフェスティバル2012 Mプロ:ビヨンド・タッチ 不可触の領域

ケネディ大統領暗殺事件の「ザプルーダー・フィルム」からユニット名を取った、ザプルーダーの作品集。全て3Dメガネ(アナグリフ方式)を着用して視聴する。

・ザプルーダー『デーモン』
Zapruder, Daimon
SD, 49min, 2007
バタイユの伝記だと思っていた本作だが、実際にはバタイユの生涯に触れる内容ではなく、バタイユの言説から想起されたイメージをつないだ作品であった。それは禁止を侵犯し、存在の外部へ到達する間道としてのエロティシズムにまつわるイメージである。湖畔にピクニックに来た一家の様子(芝生のうえに敷いたマットに横たわる父親と、彼に性行為を行う母親)。チェアに身を沈めタバコを吹かす男の眼前にあるステージでストリップを行う奇妙な女たち(一人は卵を産む鳥頭の女、一人は浮かび上がり上空へ昇ってゆく女、一人は巨大化して男の目の高さで性器を晒す女)。屠殺される豚。炭酸水の注がれたグラスに取り付けられる避妊具。墓地。儀式を行うカルトの司祭。羊の皮剥ぎ。排泄等々。そして、それらと対称的な、平穏な木漏れ日の風景や草花――これらのイメージを連結することで、この映画はバタイユの言説から想起されたエロティシズムを表そうとしている。ただし、そこにはイレイザーヘッド的な分かりやすい悪夢の表現という傾向も透けて見えており、若干興ざめする部分もあった。

しかし、しばらくすると本作で最も重要なのはこれらのイメージではないように思えてきた。この映画に重要なポイントがあるとすれば、それは、3Dをバタイユ的な〈物質への下降〉に向かう糸口として使用しているところにあるのではないか。先述の耽美趣味的なイメージは殆ど目くらましであり、それらに目を奪われてしまうことなく、眼前に立体視された物質を、触るように注視してみる。映画においてスクリーンのなかに投影されるイメージは、どんなものであれ、映写されるとすぐに卑俗な現実からは切り離され、スクリーンの向こうに聖別された非現実的な象徴となる。しかし本作はバタイユから想起されたイメージを介しながら、聖別されたスクリーンの向こうに鎮座する神秘化したイメージを手繰り寄せ、卑俗な物質の側(観客席の側)に無理矢理引きずり出すために3Dを使用しているといえる。それによって観客は聖なる映画的イメージを、汚れた手で無作法に触るようにして見つめることになる。そう考えると、映画内の分かりやすいバタイユのイメージなんてどうでも良くなってくる。本作の意義は卑俗な〈物質への下降〉として3D上映を捉えること。それによって映画的イメージの神秘化を転倒させること。そこに尽きるのではないだろうか。パートカラー。サウンドは、屋外のシーンではフィールドの環境音、閉じたセットのシーンでは不穏なドローンとノイズ、加えて随所でテーマ曲。

・ザプルーダー『催眠犬』
Zapruder, The Hypnotist Dog
SD, 20min, 2011
マイケル・スノウ的な、いかにも取って付けたかのような安っぽい屋内セットのなかで、オスカーという名の犬と飼い主の男が登場する。男は自分のオスカーが不思議な力を持っており、人の頭の中を読めることを説明する。そしてちょっと、その能力を試そうということになり、男は撮影クルーのサウンドマンを被験者としてフレーム内に呼び寄せ、ソファーに座らせる。ここで、このわざとらしい状況自体がメタ化された撮影現場であったことが明かされる訳だが、その虚構性は更に続くわざとらしい出来事(スタッフの失神)と、飼い主の虚言めいた言葉によって強調されてゆく。この意図された薄っぺらい映画内の世界をどう捉えるべきかと考えると、映画の虚構性——映画の神秘性と読み替えても良いだろう——を戯画化し、脱臼させようとしているのだといえる。3Dはその戯画化のための、虚構性を解体するツールである。そう考えるならば、なかなか毒気の利いた作品であると思う。カラー。サウンドは登場人物のセリフのみ。

・ザプルーダー『スイート』
Zapruder, Suite
SD, 4min, 2011
体育館において、黙々と卓球のゲームが行われる。フィックスされたカメラは微動だにせずその様子を捉えるが、やがて二人の女がフレームインし、卓球台の奥にある倉庫の扉を開ける。そこには、わざとらしい屋内のセットが組まれており、二人の女は卓球が続く向こう側で掃除を始める。お互いに全く無関係に続けられる、卓球と掃除。やがて180度反対側にカメラの位置が切り替わり、今度は手前の掃除の側から、向こう側に卓球の様子が捉えられる。ここで3Dは、映画内において併置的に構成されたセットの虚構性を強調し、映画的な空間性を脱臼するために使用される。カラー。サウンドは同録音のみ。

The New Blockaders, Consumer Electronics Live



Broken Flag Fest 2012

このTNBのライブは、生々しい物音の感触がそのまま出ていてかなり素晴らしい。8分辺りからの軋むようなノイズが重なり合う展開に、惚れ惚れしながら耳を傾ける。Consumer Electronicsについて述べるならば、ベネットのCut Handsに対して、こちらの方がWhitehouseのパワーエレクトロニクス路線を引き継いだ感じだ。

追記:
TNBのライブ、フルセットでも上がってた。繰り返しになるが、これはほんと素晴らしい。

イメージフォーラムフェスティバル2012 X1プロ:ブレイキング・グラウンド1

・カロエ・ゴルト『サブローザ』
Karoe Goldt, Subrosa
SD, 3min, 2004
何らかの映像から取り出された一本の走査線が、縦方向に引き延ばされてスクリーン一面にグラデーションの色面を形成する。この走査線による色彩の運動はオーロラのような変化を見せる。この作家のビデオ作品は、静謐な印象を与えるシンプルでミニマルな仕掛けの作品が多い(http://www.alles-goldt.de/B200.html)。
その後、活動を継続させているのかどうかは知らないが、2012年の現在の地点より改めて彼女の作品を観ると、ラップトップが普及し始めて、エレクトロニカやMax/MSP/JitterによるVJ的な映像パフォーマンスが隆盛をみせた、2000年頃のモードを強く感じさせるものだった。2010年にOvalが活動を再開させたときにも感じたが、こういったスタイルには、今やある種の懐かしさみたいなものを感じる。時代が一回転してしまったということか。カラー。サウンドはエレクトロニカ。

・ヴァリー・エクスポート『ボディ・ポリティクス』
Valie Export, Body Politics
SD, 3min, 1974
並んで設置された短い二本のエスカレーターにおいて、二人の人物が一本の紐を持ったまま昇降する。そこで、その動作を様々な組み合わせのバリエーションによって検証するという作品。1:一人はエスカレーターの上に留まって、もう一人が降りる。2:一人はエスカレーターの下に留まって、もう一人が上がる。3:二人で別々のエスカレーターを同時に降りる(一人はエスカレーターと逆の方向になるので駆け下りることになる)。4:二人で別々のエスカレーターを同時に昇る(一人はエスカレーターと逆の方向になるので駆け上がることになる)。5:昇りのエスカレーターに並んで立って一緒に昇る。
ヴァリー・エクスポートにとどまらず、初期ビデオアートにおいて顕著であった身体的な制度の検証をコンセプトとした作品だといえる。モノクロ。サウンドは、その場の同録音。

・グスタフ・ドイチェ『映画である』
Gustav Deutsch, Film ist. 1 Movement and Time
16mm, 16min, 2002
indexよりDVDがリリースされているので、内容についての説明は割愛。日本国内でも紹介済みの、ドイチェのファウンドフッテージ作品。様々なフィルムの断片を寄せ集めて、壮大な「映画についての映画」を物語る。

・ゲルハルト・エルトル『シェーンベルグ』
Gerhard Ertl, Schoenberg
16mm, 3min, 1990
荒々しく手ぶれするカメラによって捉えられた地面や撮影者の影、そしてズームによる山脈の岩肌といったイメージが繋ぎ合わされていく。
ファウンドフッテージなのかもしれないが、インフォメーションが不足していてよく分からない。恐らくは、地面のテクスチャや、ブレによって生じた抽象性を、作者なりに緻密に構成したというところか。モノクロ。サウンドは民族音楽的なフレーズのループ。

・トーマス・ドラーシャン『イエス?ウィ?ヤー?』
Thomas Draschan, Yes? Oui? Ya?
16mm, 4min, 2002
これもドイチェと同じく、ファウンドフッテージ作品であるが、引用されているフィルムが、レトロかつキッチュなアメリカのホームドラマやコマーシャルフィルムばかり。そこに、タイトルの「Yes? Oui? Ya?」という言葉がインサートされる。
比較的分かりやすい、軽い作品なので、気楽に楽しめる。カラー。サウンドは安っぽいイージーリスニング。

・ジークフリート・A・フルハウフ『ミラー・メカニクス』
Seigfried A Fruhauf, Mirror Mechanics
35mm, 7min, 2005
+25FPSでも国内紹介済みのフルハウフであるが、indexよりDVDがリリースされており、内容についての説明は割愛…としたいところだが、フィルムで観るとかなり印象が変わったので詳しく述べる。この作品のフォーマットは35mmシネスコであるが、タイトルに含意されているように、イメージはフレームの真ん中を境界にして合わせ鏡のように反転されている。なので、サイズ的には16mmスタンダードを二面マルチで見ているような感じだ。引用されているフィルムは何かの映画から抜き出されたであろう水を浴びる女性のイメージで、それが明度反転やズラしを駆使したチェルカススキー的なオプチカル処理によって、サスペンス的緊張感を高めながら進行する。最高潮に達した緊張感は、エンディングにおいて水から上がって、こちらに歩いて来た女性が、(合わせ鏡のような反転によって)互いを見つめ合うような構図になって収束する。
極めて洗練されたファウンドフッテージ作品であり、まるでストーリーの存在する映画のように見事に構築されている。モノクロ。サウンドは金属的で重いノイズ。

・ペーター・クーベルカ『アーヌルフ・ライナー』
Peter Kubelka, Arnulf Rainer
35mm, 6min, 1960
本作は白コマと黒コマのみで構成されたフリッカー映画であり、この作品の出現によって映画の知覚は拡大されたといっていい。今回のオーストリア特集で最も楽しみだったのが、この作品の上映だった。もちろん何度もスクリーンで観たことがある作品なのだが、どうしてそんなに期待していたかといえば、今回の上映は16mmフィルムではなく、35mmフィルムでの上映だったからである。
という訳で実際に観てみてどうだったかというと…それはもう期待以上。35mm映写によってスクリーンに向けられた光の量は増大しており、フリッカーによる明暗の差も極端なものとなっていた。同じフリッカー映画でもクーベルカの映画は、トニー・コンラッドなどの映画と比較して、原始的な凶暴さを秘めている訳だが、それは暗闇の中から白コマが立ち上がる際の不意打ちによるところが大きい。白コマと黒コマの明滅が予想を外すようなタイミングで配置されているため、眼球がまともに光に晒されるのである。激しく断続的なハーシュノイズが大音量で鳴るなかで、暗闇のなかから突然現れる白コマの形状が網膜に焼き付く(しかも、その残像はかなりしつこく残る)。ここまで明暗の差が極端だと、観客に生じる経験は「映画を観る」というレベルのそれではなく、「光を体感する」というレベルになってくる。フレーム内で明滅が行われているのではなく、スクリーンと上映空間そのものが、拡大された知覚のためのアトラクションと化すのである。安全に椅子に座って映画を眺めることなどはできない。この作品が持っている凶暴性を、35mmの光量で観ることによってようやく実感することができたように思う。

・モウクル・ブラックアウト『ヴィーナスの誕生』
Moucle Blackout, Birth of Venus
35mm, 5min, 1970-72
タイトルの通り、冒頭の「ヴィーナスの誕生」の引用から映画は始まる。続いて性器を含むヌード写真や草むらに横たわる豚の死体写真などがマテリアルとして使用される。それらの身体のイメージは合わせ鏡のようにして左右で反転させられ、半ば抽象化した状態のままコラージュされる。他にも踊る女のフッテージなどが組み込まれている。
本作のコンセプトは、セックスと死体のイメージによって、シンボルとしての女性が象徴するものを表した――というところか。モノクロ。サウンドもまた当時のフラワーロックを使用したコラージュであり、これは時代背景そのままで分かりやすい。

・トーマス・コーシル『サンセット大通り』
Thomas Korschil, Sunset Boulevard
16mm, 8min, 1996
これもまた+VIENNEにおけるヨハン・ルーフのセレクトによって国内紹介済みの作家。本作品は望遠レンズの固定ショットによって車道を走り抜ける車の運転手の様子を大量に撮影してひたすら繋いだ、構造映画と呼ぶことのできる作品である。しかも、どの車も大体同じ位置・同じスピードでカメラの前を通り抜けるために、微妙にディテールの異なる“車と運転手”が次々と出現することになる。しかも各カットが数秒で切り替わるため、視覚的にも段々と錯乱が生じて、膨大な数の無個性な“車と運転手”が無限に走り続ける視覚的空間と化す。本作品が目指したものはアニー・ゲールと同質の試みであるといえるだろう。カラー。サイレント。(ここでプレヴューを観ることができます。)

・ヨーゼフ・ダベアニヒ『ヴィスラ』
Josef Dabernig, Wisla
16mm, 8min, 1996
アナウンスと歓声の響く無人のフットボールスタジアムでカメラが周回運動を行う。やがて、二人の背広姿の男がスタジアムにやってきてベンチに座る。どうやらこの二人はコーチという設定らしく、無人のピッチに向かってしきりに指示を送るが、結局試合には負けてしまう。最後に何やら偉い立場の人からねぎらいの握手を受けて終わり。何というか…肩の力を抜いて観られるユーモラスな作品。モノクロ。

・ペーター・チェルカススキー『光と音の機械へのインストラクション』
Peter Tscherkassky, Instructions for a Light and Sound Machine
35mm, 17min, 2005
チェルカススキーは国内でもよく知られた作家であり、ファウンドフッテージをマテリアルとして、フリッカーを多用したオプチカル処理によって完成度の高い作品を多数制作している。本作のフォーマットは35mmシネスコであり、引用される映画は「夕陽のガンマン」である。まずは望遠鏡を覗くシークエンスから映画は始まり、激しいフリッカーを伴う銃撃戦のシークエンス、取っ組み合いの格闘から、縛り首のシークエンスへと続く。そしてイメージとサウンドは一旦静まり、墓場のなかを逃走する男のシークエンスにおいて映画は徐々に乱調の度合いを増してゆく。
彼の映画を観ていていつも感じるのは、まるで映画というメディアの潜在的な能力を全て引き出そうとするかのような姿勢である。クラシック映画をマテリアルとして引用しながら、それをズラし作り替え、映画によって可能な知覚的経験を具現化させようとする。これもまた「映画についての映画」である。ただし「映画についての映画」であるとはいえ、映画を文化論的なコンテクストにおいて多義的に読解する方向性とは違って、徹底して映画、すなわち「光と音の機械」が観客に与える知覚的経験に拘っているところが特徴的であろう。本作を35mmシネスコで観るという出来事は、モニター上での視聴とは全く異なった、映画というメディアに固有の強固な経験を生じさせるものである。モノクロ。サウンドは銃声を織り交ぜたコラージュ的なノイズ。