イメージフォーラムフェスティバル2012 X1プロ:ブレイキング・グラウンド1

・カロエ・ゴルト『サブローザ』
Karoe Goldt, Subrosa
SD, 3min, 2004
何らかの映像から取り出された一本の走査線が、縦方向に引き延ばされてスクリーン一面にグラデーションの色面を形成する。この走査線による色彩の運動はオーロラのような変化を見せる。この作家のビデオ作品は、静謐な印象を与えるシンプルでミニマルな仕掛けの作品が多い(http://www.alles-goldt.de/B200.html)。
その後、活動を継続させているのかどうかは知らないが、2012年の現在の地点より改めて彼女の作品を観ると、ラップトップが普及し始めて、エレクトロニカやMax/MSP/JitterによるVJ的な映像パフォーマンスが隆盛をみせた、2000年頃のモードを強く感じさせるものだった。2010年にOvalが活動を再開させたときにも感じたが、こういったスタイルには、今やある種の懐かしさみたいなものを感じる。時代が一回転してしまったということか。カラー。サウンドはエレクトロニカ。

・ヴァリー・エクスポート『ボディ・ポリティクス』
Valie Export, Body Politics
SD, 3min, 1974
並んで設置された短い二本のエスカレーターにおいて、二人の人物が一本の紐を持ったまま昇降する。そこで、その動作を様々な組み合わせのバリエーションによって検証するという作品。1:一人はエスカレーターの上に留まって、もう一人が降りる。2:一人はエスカレーターの下に留まって、もう一人が上がる。3:二人で別々のエスカレーターを同時に降りる(一人はエスカレーターと逆の方向になるので駆け下りることになる)。4:二人で別々のエスカレーターを同時に昇る(一人はエスカレーターと逆の方向になるので駆け上がることになる)。5:昇りのエスカレーターに並んで立って一緒に昇る。
ヴァリー・エクスポートにとどまらず、初期ビデオアートにおいて顕著であった身体的な制度の検証をコンセプトとした作品だといえる。モノクロ。サウンドは、その場の同録音。

・グスタフ・ドイチェ『映画である』
Gustav Deutsch, Film ist. 1 Movement and Time
16mm, 16min, 2002
indexよりDVDがリリースされているので、内容についての説明は割愛。日本国内でも紹介済みの、ドイチェのファウンドフッテージ作品。様々なフィルムの断片を寄せ集めて、壮大な「映画についての映画」を物語る。

・ゲルハルト・エルトル『シェーンベルグ』
Gerhard Ertl, Schoenberg
16mm, 3min, 1990
荒々しく手ぶれするカメラによって捉えられた地面や撮影者の影、そしてズームによる山脈の岩肌といったイメージが繋ぎ合わされていく。
ファウンドフッテージなのかもしれないが、インフォメーションが不足していてよく分からない。恐らくは、地面のテクスチャや、ブレによって生じた抽象性を、作者なりに緻密に構成したというところか。モノクロ。サウンドは民族音楽的なフレーズのループ。

・トーマス・ドラーシャン『イエス?ウィ?ヤー?』
Thomas Draschan, Yes? Oui? Ya?
16mm, 4min, 2002
これもドイチェと同じく、ファウンドフッテージ作品であるが、引用されているフィルムが、レトロかつキッチュなアメリカのホームドラマやコマーシャルフィルムばかり。そこに、タイトルの「Yes? Oui? Ya?」という言葉がインサートされる。
比較的分かりやすい、軽い作品なので、気楽に楽しめる。カラー。サウンドは安っぽいイージーリスニング。

・ジークフリート・A・フルハウフ『ミラー・メカニクス』
Seigfried A Fruhauf, Mirror Mechanics
35mm, 7min, 2005
+25FPSでも国内紹介済みのフルハウフであるが、indexよりDVDがリリースされており、内容についての説明は割愛…としたいところだが、フィルムで観るとかなり印象が変わったので詳しく述べる。この作品のフォーマットは35mmシネスコであるが、タイトルに含意されているように、イメージはフレームの真ん中を境界にして合わせ鏡のように反転されている。なので、サイズ的には16mmスタンダードを二面マルチで見ているような感じだ。引用されているフィルムは何かの映画から抜き出されたであろう水を浴びる女性のイメージで、それが明度反転やズラしを駆使したチェルカススキー的なオプチカル処理によって、サスペンス的緊張感を高めながら進行する。最高潮に達した緊張感は、エンディングにおいて水から上がって、こちらに歩いて来た女性が、(合わせ鏡のような反転によって)互いを見つめ合うような構図になって収束する。
極めて洗練されたファウンドフッテージ作品であり、まるでストーリーの存在する映画のように見事に構築されている。モノクロ。サウンドは金属的で重いノイズ。

・ペーター・クーベルカ『アーヌルフ・ライナー』
Peter Kubelka, Arnulf Rainer
35mm, 6min, 1960
本作は白コマと黒コマのみで構成されたフリッカー映画であり、この作品の出現によって映画の知覚は拡大されたといっていい。今回のオーストリア特集で最も楽しみだったのが、この作品の上映だった。もちろん何度もスクリーンで観たことがある作品なのだが、どうしてそんなに期待していたかといえば、今回の上映は16mmフィルムではなく、35mmフィルムでの上映だったからである。
という訳で実際に観てみてどうだったかというと…それはもう期待以上。35mm映写によってスクリーンに向けられた光の量は増大しており、フリッカーによる明暗の差も極端なものとなっていた。同じフリッカー映画でもクーベルカの映画は、トニー・コンラッドなどの映画と比較して、原始的な凶暴さを秘めている訳だが、それは暗闇の中から白コマが立ち上がる際の不意打ちによるところが大きい。白コマと黒コマの明滅が予想を外すようなタイミングで配置されているため、眼球がまともに光に晒されるのである。激しく断続的なハーシュノイズが大音量で鳴るなかで、暗闇のなかから突然現れる白コマの形状が網膜に焼き付く(しかも、その残像はかなりしつこく残る)。ここまで明暗の差が極端だと、観客に生じる経験は「映画を観る」というレベルのそれではなく、「光を体感する」というレベルになってくる。フレーム内で明滅が行われているのではなく、スクリーンと上映空間そのものが、拡大された知覚のためのアトラクションと化すのである。安全に椅子に座って映画を眺めることなどはできない。この作品が持っている凶暴性を、35mmの光量で観ることによってようやく実感することができたように思う。

・モウクル・ブラックアウト『ヴィーナスの誕生』
Moucle Blackout, Birth of Venus
35mm, 5min, 1970-72
タイトルの通り、冒頭の「ヴィーナスの誕生」の引用から映画は始まる。続いて性器を含むヌード写真や草むらに横たわる豚の死体写真などがマテリアルとして使用される。それらの身体のイメージは合わせ鏡のようにして左右で反転させられ、半ば抽象化した状態のままコラージュされる。他にも踊る女のフッテージなどが組み込まれている。
本作のコンセプトは、セックスと死体のイメージによって、シンボルとしての女性が象徴するものを表した――というところか。モノクロ。サウンドもまた当時のフラワーロックを使用したコラージュであり、これは時代背景そのままで分かりやすい。

・トーマス・コーシル『サンセット大通り』
Thomas Korschil, Sunset Boulevard
16mm, 8min, 1996
これもまた+VIENNEにおけるヨハン・ルーフのセレクトによって国内紹介済みの作家。本作品は望遠レンズの固定ショットによって車道を走り抜ける車の運転手の様子を大量に撮影してひたすら繋いだ、構造映画と呼ぶことのできる作品である。しかも、どの車も大体同じ位置・同じスピードでカメラの前を通り抜けるために、微妙にディテールの異なる“車と運転手”が次々と出現することになる。しかも各カットが数秒で切り替わるため、視覚的にも段々と錯乱が生じて、膨大な数の無個性な“車と運転手”が無限に走り続ける視覚的空間と化す。本作品が目指したものはアニー・ゲールと同質の試みであるといえるだろう。カラー。サイレント。(ここでプレヴューを観ることができます。)

・ヨーゼフ・ダベアニヒ『ヴィスラ』
Josef Dabernig, Wisla
16mm, 8min, 1996
アナウンスと歓声の響く無人のフットボールスタジアムでカメラが周回運動を行う。やがて、二人の背広姿の男がスタジアムにやってきてベンチに座る。どうやらこの二人はコーチという設定らしく、無人のピッチに向かってしきりに指示を送るが、結局試合には負けてしまう。最後に何やら偉い立場の人からねぎらいの握手を受けて終わり。何というか…肩の力を抜いて観られるユーモラスな作品。モノクロ。

・ペーター・チェルカススキー『光と音の機械へのインストラクション』
Peter Tscherkassky, Instructions for a Light and Sound Machine
35mm, 17min, 2005
チェルカススキーは国内でもよく知られた作家であり、ファウンドフッテージをマテリアルとして、フリッカーを多用したオプチカル処理によって完成度の高い作品を多数制作している。本作のフォーマットは35mmシネスコであり、引用される映画は「夕陽のガンマン」である。まずは望遠鏡を覗くシークエンスから映画は始まり、激しいフリッカーを伴う銃撃戦のシークエンス、取っ組み合いの格闘から、縛り首のシークエンスへと続く。そしてイメージとサウンドは一旦静まり、墓場のなかを逃走する男のシークエンスにおいて映画は徐々に乱調の度合いを増してゆく。
彼の映画を観ていていつも感じるのは、まるで映画というメディアの潜在的な能力を全て引き出そうとするかのような姿勢である。クラシック映画をマテリアルとして引用しながら、それをズラし作り替え、映画によって可能な知覚的経験を具現化させようとする。これもまた「映画についての映画」である。ただし「映画についての映画」であるとはいえ、映画を文化論的なコンテクストにおいて多義的に読解する方向性とは違って、徹底して映画、すなわち「光と音の機械」が観客に与える知覚的経験に拘っているところが特徴的であろう。本作を35mmシネスコで観るという出来事は、モニター上での視聴とは全く異なった、映画というメディアに固有の強固な経験を生じさせるものである。モノクロ。サウンドは銃声を織り交ぜたコラージュ的なノイズ。

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