イメージフォーラムフェスティバル2012 Mプロ:ビヨンド・タッチ 不可触の領域

ケネディ大統領暗殺事件の「ザプルーダー・フィルム」からユニット名を取った、ザプルーダーの作品集。全て3Dメガネ(アナグリフ方式)を着用して視聴する。

・ザプルーダー『デーモン』
Zapruder, Daimon
SD, 49min, 2007
バタイユの伝記だと思っていた本作だが、実際にはバタイユの生涯に触れる内容ではなく、バタイユの言説から想起されたイメージをつないだ作品であった。それは禁止を侵犯し、存在の外部へ到達する間道としてのエロティシズムにまつわるイメージである。湖畔にピクニックに来た一家の様子(芝生のうえに敷いたマットに横たわる父親と、彼に性行為を行う母親)。チェアに身を沈めタバコを吹かす男の眼前にあるステージでストリップを行う奇妙な女たち(一人は卵を産む鳥頭の女、一人は浮かび上がり上空へ昇ってゆく女、一人は巨大化して男の目の高さで性器を晒す女)。屠殺される豚。炭酸水の注がれたグラスに取り付けられる避妊具。墓地。儀式を行うカルトの司祭。羊の皮剥ぎ。排泄等々。そして、それらと対称的な、平穏な木漏れ日の風景や草花――これらのイメージを連結することで、この映画はバタイユの言説から想起されたエロティシズムを表そうとしている。ただし、そこにはイレイザーヘッド的な分かりやすい悪夢の表現という傾向も透けて見えており、若干興ざめする部分もあった。

しかし、しばらくすると本作で最も重要なのはこれらのイメージではないように思えてきた。この映画に重要なポイントがあるとすれば、それは、3Dをバタイユ的な〈物質への下降〉に向かう糸口として使用しているところにあるのではないか。先述の耽美趣味的なイメージは殆ど目くらましであり、それらに目を奪われてしまうことなく、眼前に立体視された物質を、触るように注視してみる。映画においてスクリーンのなかに投影されるイメージは、どんなものであれ、映写されるとすぐに卑俗な現実からは切り離され、スクリーンの向こうに聖別された非現実的な象徴となる。しかし本作はバタイユから想起されたイメージを介しながら、聖別されたスクリーンの向こうに鎮座する神秘化したイメージを手繰り寄せ、卑俗な物質の側(観客席の側)に無理矢理引きずり出すために3Dを使用しているといえる。それによって観客は聖なる映画的イメージを、汚れた手で無作法に触るようにして見つめることになる。そう考えると、映画内の分かりやすいバタイユのイメージなんてどうでも良くなってくる。本作の意義は卑俗な〈物質への下降〉として3D上映を捉えること。それによって映画的イメージの神秘化を転倒させること。そこに尽きるのではないだろうか。パートカラー。サウンドは、屋外のシーンではフィールドの環境音、閉じたセットのシーンでは不穏なドローンとノイズ、加えて随所でテーマ曲。

・ザプルーダー『催眠犬』
Zapruder, The Hypnotist Dog
SD, 20min, 2011
マイケル・スノウ的な、いかにも取って付けたかのような安っぽい屋内セットのなかで、オスカーという名の犬と飼い主の男が登場する。男は自分のオスカーが不思議な力を持っており、人の頭の中を読めることを説明する。そしてちょっと、その能力を試そうということになり、男は撮影クルーのサウンドマンを被験者としてフレーム内に呼び寄せ、ソファーに座らせる。ここで、このわざとらしい状況自体がメタ化された撮影現場であったことが明かされる訳だが、その虚構性は更に続くわざとらしい出来事(スタッフの失神)と、飼い主の虚言めいた言葉によって強調されてゆく。この意図された薄っぺらい映画内の世界をどう捉えるべきかと考えると、映画の虚構性——映画の神秘性と読み替えても良いだろう——を戯画化し、脱臼させようとしているのだといえる。3Dはその戯画化のための、虚構性を解体するツールである。そう考えるならば、なかなか毒気の利いた作品であると思う。カラー。サウンドは登場人物のセリフのみ。

・ザプルーダー『スイート』
Zapruder, Suite
SD, 4min, 2011
体育館において、黙々と卓球のゲームが行われる。フィックスされたカメラは微動だにせずその様子を捉えるが、やがて二人の女がフレームインし、卓球台の奥にある倉庫の扉を開ける。そこには、わざとらしい屋内のセットが組まれており、二人の女は卓球が続く向こう側で掃除を始める。お互いに全く無関係に続けられる、卓球と掃除。やがて180度反対側にカメラの位置が切り替わり、今度は手前の掃除の側から、向こう側に卓球の様子が捉えられる。ここで3Dは、映画内において併置的に構成されたセットの虚構性を強調し、映画的な空間性を脱臼するために使用される。カラー。サウンドは同録音のみ。

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