昨日の読書

九時起床。布団にくるまったまま、ネットでニュースをチェックして、メーラーとRSSリーダーとタイムラインにも目を通す。そして、Expcinemaのサイトで知ったポンピドゥーからの実験映画のコンピレーションDVDを3枚さくっとオーダー。送料込みで80ユーロくらい。しばらくしてソファーから起きだして、駐車場の雪掻きを行ってから、散歩がてら少し離れたところにある海岸沿いのコンビニまで歩いて行き買い物。もうすっかり雪道だが、昨日降った分の雪が固まっていないので歩きやすい。そして、買い物を終えて家に戻ってから、軽く昼食。その後、数日前から読み始めたウルリッヒ・ベックの「危険社会」の続きを読み進める。

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はじめは「富の分配と危険の分配って別物なのか?」と疑問を抱えながら読んでいたが、最後まで読み終えて納得した。この二つは基本的に異なるものであり、「富の分配」は不平等で階級的なものだが、「危険の分配」は平等で社会全体に及ぶ(ただし階級的なものは消えていない)。また、産業社会から危険社会への移行は、労働市場条件下で人々の個人化とも結びついている(そこでは様々なリスクが個人化される)。そのような危険社会が形成されたのは、科学・経済の近代化や進歩の追求といったサブ政治システムの考え方が、民主主義的に正当化されない状態のまま、政治システムそのものになったため——要するに非政治的なものが政治化したため——といったところか。趣味の読書なので適当な読み方だけど、原発事故以降の国内状況にあてはめられる部分も多い。例えばサブ政治システムの言説が「年間何msvまで大丈夫、キロあたり何ベクレルまで大丈夫」などの文言で垂れ流されるのは、嫌という程見てきた。それは科学者の論理であり、経営者の論理である。その効率化の論理は、民主主義的承認のプロセスとは無縁のまま作動している。

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