シンポジウム「戦後日本美術の新たな語り口を探る─ニューヨークと東京、二つの近代美術館の展覧会を通して見えてくるもの」

先日、東京国立近代美術館で催された「戦後日本美術の新たな語り口を探る─ニューヨークと東京、二つの近代美術館の展覧会を通して見えてくるもの」というシンポジウムを聴きに行った。このシンポジウムは、戦後日本美術の歴史を検証してゆく上で、今後基礎となってゆくであろう、今年開催されたふたつの展覧会、「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展(ニューヨーク近代美術館) と「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年 第2部:実験場1950s」(東京国立近代美術館)のキュレーターや関係者を集めて、各人のプレゼンテーションと、全体討論を行うというものであった。「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」の側からはドリュン・チョン、「実験場1950s」の側からは鈴木勝雄の両名が基調講演を行う。その後、ガブリエル・リッターと林道郎がそれぞれのテーマでプレゼンを聴かせる。また、このふたつの展覧会に関連するテーマを持つ展覧会である「日本の70年代 1968-1982」(埼玉県立近代美術館)もシンポジウムのなかで検討対象として含まれており、プレゼンテーションには埼玉県立近代美術館学芸員である前山裕司も参加するかたちとなっていた。なかなか興味深い内容のシンポジウムではあったので、会場で取った個人用メモを記しておく。私の個人的興味に偏ったバイアスが多分にかかっているので、正確性については全く当てになりません。九割引きくらいで読み流しておいて下さい。

国際交流基金創立40周年事業
「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」展(ニューヨーク近代美術館)
東京国立近代美術館60周年記念特別展
「美術にぶるっ!ベストセレクション 日本近代美術の100年」第2部「実験場1950s」

記念国際シンポジウム
「戦後日本美術の新たな語り口を探る─ニューヨークと東京、二つの近代美術館の展覧会を通して見えてくるもの」

日時 2012年12月23日 (日) 12:30開場 13:00開始 17:30終了
場所 東京国立近代美術館 B1F講堂 (150席) 同時通訳つき
主催 国際交流基金、東京国立近代美術館
http://www.jpf.go.jp/j/culture/new/1212/12-03.html

パネラー
ドリュン・チョン (Doryun Chong、ニューヨーク近代美術館アソシエイト・キュレーター)
ガブリエル・リッター (Gabriel Ritter、ダラス美術館アシスタント・キュレーター)
鈴木勝雄 (東京国立近代美術館主任研究員)
林道郎 (上智大学国際教養学部教授)
前山裕司 (埼玉県立近代美術館主席学芸主幹)

ドリュン・チョン基調講演
日本美術とニューヨーク近代美術館の関わりの古さ、例えば「New Japanese Photography」(1974)などについての説明。ニューヨーク近代美術館が多数の日本美術のコレクションを所蔵している話などから始まり、その延長線上で今回の東京展が、日本の戦後美術への理解を深めるものであったことが語られる。加えて、何故今回の展覧会では1955年から1970年までという範囲を設定したかについて、戦後の復興期からその後に焦点を当てるためであったと説明する。そして、展覧会場の様子を写真で見せながら、トピックごとに説明を続けてゆく。

・メタボリズム(東京の変化、人口の増加)
・絵画や写真:岡本太郎、河原温、池田龍雄、山下菊二、靉嘔、中村宏、桂川寛…(人物表現における変身や変化)
・具体美術協会:白髪一雄、田中敦子、村上三郎、元永定正…
・実験工房:山口勝弘、北代省三…(+松本俊夫『銀輪』)
・草月アートセンター:刀根康尚、塩見允枝子、一柳慧…(フルクサスとのつながり)
・読売アンデパンダン:菊畑茂久馬、高松次郎、中西夏之…(立体、空間)
・ハイレッドセンター:模型千円札事件
・もの派
・60年代後半のポップカルチャーやグラフィック:横尾忠則、赤瀬川源平、中村宏
・写真や映像:東松照明、森山大道、細江英公(+松本俊夫『つぶれかかった右眼のために』)

このような提示の仕方からも伺えるが、展覧会としては、戦後の変身や変化といった人物表現が、60年代後半には材料・物質・空間に向かっていったことを、流れとして見せたかったらしい。そして、”Cubism and Abstract Art”のチャートを見せながら、美術史的な系譜・ジャンル的なチャートのなかに日本の戦後美術を接続することの必要性が述べられ、展評(ちゃんとは聞き逃したのだけど、多分これのこと)についても言及しながら、地域によって様相の異なる、複数のモダニズムという枠組みのなかで日本の戦後美術を捉える考え方を示した。

鈴木勝雄基調講演
東京国立近代美術館が開館した1950年代を振り返りながら、戦後日本社会を批判的に見直すことが、展覧会第二部「実験場1950s」の目的であったことが、最初に言明される。そして、戦後社会システムが形成され、国土の再編のおこなわれた1950年代。しかしまだ文化は流動性を保っており、現実への介入が行われていた。美術という制度はまだ弱いものであったが、異なる領域との共同作業のなかで文化総体としての底上げを行い、相互的な恊働を生んでいった。そして、このような50年代の豊かさ、それを実験場と呼ぶことにした——との総論が述べられる。また、1950年代の社会的現実を様々な領域がどう捉えたかを見ていく一方で、それぞれのジャンルの形式性にも配慮したとのこと。そして、各トピックごとに説明を加えてゆく。(要所要所で入る私見ともいえるコメントがなかなか良かった。)

・原爆の刻印について、山下菊二の『オト・オテム』(GHQの規制コードを逃れたLIFE誌の被爆者写真を使用した絵画)を提示しながら説明。→加えて、ニューヨーク近代美術館の展覧会は、社会性・政治性よりも、諸イメージの背後にあるものに焦点を当てていたように思うとのコメント。
・民衆版画運動、曹良奎の存在にみる「内なる他者」の視点や、基地問題と亀井文夫『流血の記録 砂川』などの事例に顕著に表れている、社会へのコミットメントという傾向について説明。
・首都の「内なるアメリカ(ワシントンハイツ)」の排除と、その後に建設される代々木国立競技場(東京オリンピック)。そして、基地などの「内なるアメリカ」の問題は、沖縄などに再配置され不過視化される。そうして現在に繋がる戦後社会システムが完成されていった流れについて説明。→しかし、先の衆院選選挙結果を見るに、(批判的検証としての展覧会を行うタイミングとしては)遅かったかもしれないとのコメント。
・ジャンル横断性は「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」や、埼玉県立近代美術館の「日本の70年代 1968-1982」にも見られるが、「実験場1950s」では、ミクロな視点で政治的・社会的なものを検討しようとしたことについて説明。→「TOKYO 1955-1970:新しい前衛」は固有の社会的文脈から距離を取り、イメージの想像力そのものを見る。このふたつのアプローチを二項対立として捉えないことが大事とのコメント。

ガブリエル・リッタープレゼン
以下のトピックについての説明など。アメリカにおける日本美術の受容史について。
・日本美術がアメリカ美術館でどのように紹介されてきたか。
・戦後日本美術をアメリカの美術館がどうコレクションして、どんな展覧会を行ってきたか。
・マーケットとの関係。

前山裕司プレゼン
「日本の70年代 1968-1982」について。「日本の70年代」では70年代的感覚を取り込むことで、いわゆる美術展ではないような展示を目指したとの目的が言明される。ちなみに、1968年という学生運動の高まった年から始めて、終わりを1982年は埼玉県立近代美術開館年に合わせていることについては、1968年から始めないと、万博に対する反博運動も紹介できないなど中途半端になる。なので1968年からスタートしつ、70年代展と題したとのこと。また、70年代当時の一般的な美大生の部屋の再現や、ブックデザイン展示も含めて、時代の気分や雰囲気といったものを会場に醸し出すことで、70年代は空白といわれるような時代ではなかったことを明らかにしたかったとのこと。そして、各トピックごとに説明を加えてゆく。

・70年代は前半と後半で時代の気分が異なり、1974年(オイルショック、経済成長の陰り)を分岐点としているとの説明。→前半(ラディカリズム)から後半(コマーシャリズム)への移行はよく指摘されるが、コマーシャリズムのなかにラディカリズムを見ることが必要ではないかとのコメント。
・万博におけるせんい館は、最も反万博的なパビリオンであったと紹介。(松本俊夫の名前については言及せず。)
・当時のマンガ雑誌のラディカリズムについて説明。(少年マガジン+横尾忠則、サンデー毎日+高松次郎。)
・80年代へ向けて、時代の気分の転換について説明。→西武セゾン文化はコマーシャリズムの中のラディカリズムといえるのではないかとのコメント。

林道郎プレゼン
林道郎はこのなかで唯一、美術館関係者ではない立場から「裁断と縫合―前衛の地図」と題されたプレゼンを行ったのだが、これがかなり面白かった。短い時間でプレゼンのコンセプトを正確に掴むことは出来なかったので、以下、気になったトピックについてのメモを羅列。大まかには、ジャンル的な越境性を人脈的にではなく、視覚イメージ間の関係から考察する。そして、それら視覚イメージから形成される概念的な地図を作成して、鳥瞰図的・国家的視点を、「犬の目」によって細部から重層化してゆく——ということで間違っていないだろうか。

・311以降の国内状況について、日本のなかで地方の地名の構造が変わった。(不可視化された「地方」が社会問題とともに再浮上した?)
・国土の再編。東山魁夷『道』や岩波写真文庫といった例と、昭和天皇の行幸にみる国土の再確認。
・土門拳の広島、川田喜久治『地図』、中村宏『砂川五番』。
・「鳥の目」的な高みからの鳥瞰図的地図と、「犬の目」的な地表(路上?)の地図の対比。ただし、犬の目にも野良犬ではなく、飼い犬の目もある。
・亀井文夫『流血の記録 砂川』にみる、警官が 稲を踏みつぶすショットについて。
・内灘、あけぼの村など、作品名に土地の名前が入る。
・北朝鮮に帰還して消息不明になった曹良奎について。
・国土の脳内地図の形成において、視覚的イメージが重要な役割を果たした。松本清張や司馬遼太郎の小説の例。
・国土の可視化が進んでゆく、その一方で東京は膨張し、ブラックホール的な不穏な場所になってゆく。東京の変化の早さ、その異常さ。
・丹下健三の東京計画にみるカルトグラフィ的欲望。その想像力が暴走して実現不能なメガストラクチャーの予想図へ。
・東京オリンピックで整備されて管理空間化されてゆく東京、そんな東京に違う視点でゲリラ的に介入する試みとしてのハイレッドセンター(鳥瞰図的視点と犬の視点が入り混ざっている)。またはゼロ次元、タイガー立石。
・東京の速度、盲点化に反応した東松照明、森山大道といった写真家。
・安部公房『燃え尽きた地図』にみる自律意識の成立困難さ。
・田中角栄の日本改造など、万博で再組織化されてゆく日本。対称としての「連続射殺魔」が表した郊外化、均質化する日本。
・均質化する日本の象徴としての「ディスカバー・ジャパン」。
・混迷した都市=東京は情報のマネージメントへ向かう。多数の情報を乗りこなすライフスタイル。情報整備(ぴあ、ノンノ、アンアン)。
・大衆論としての、50年代の「中間文化」(加藤英俊)と60年代の「中級階級」。このふたつの差異。
・現在の、311以降において表れた、「土地」と「国家」との軋轢。

その後、上記五名のパネリストによるシンポジウムへと移る。結局、基調講演とプレゼンを聴いていて痛感したのは、アメリカ側と日本側の歴史に対するスタンスの明確な違いであった訳だが、それはこのシンポジウムのなかで主題化されていったように思う。

まず鈴木から前山とドリュンに対して、林のプレゼンを受けてのコメントが求められる。それに対してドリュンは、「TOKYO 1955-1970」は、「東京」というテーマに対して若者から大きな関心が寄せられていたが、余り詳細に特定の場所に結びつけるようなことは行わなかったと答える。これに対して、鈴木はひとつの展覧会にすべてを詰め込むことは出来ない、それは展覧会を作るうえでのドリュンの選択である(アプローチの違いである)とフォローする。これについてリッターも、「TOKYO 1955-1970」は、展覧会を「東京」に場所性に結びつけないで、新しい前衛の再評価を行っているとコメントする。

さらにドリュンは「ニューヨーク近代美術館は美学に対するアプローチを取っているのに対して、「実験場1950s」はドキュメントのアプローチに傾いている、しかし、砂川のドキュメントのような社会的背景を観客に対して学ぶように求めたところで、展覧会として両立させることは難しかっただろう」という旨の意見表明を続ける。これを受けてリッターが、今後はドキュメントの検証にも取り組むのか、とドリュンに対して質問する。それに対してドリュンは、自分達はモダンアートのマトリックスに対して、別のコンテクストを示そうとしていると回答する。これはすなわち、ニューヨーク近代美術館的なモダンアートのチャートのなかに「戦後日本の前衛」を、オルタナティヴな、新しい、別の前衛として配置しようとした、ということであろう。言い換えれば、その過程で、戦略的にローカルな社会的コンテクストを削ぎ落としたということである。鈴木もこの考えに同意して、日本側はマイナーなコンテクストで展覧会を組んでいるが、アメリカ側はマイナーな視点ではなく世界的な美術史に結びつけようとしているのだと述べる。(これは、例えばシュルレアリスムのようなモダンアートのチャートに組み込まれた、ある時代・場所の芸術運動に置き換えるならば理解できないこともない。問題は果たしてそれが、どれ程の深さで社会的・政治的状況を織り込んで、世界的な美術史の枠組みでチャート化されてきたのか、ということである。)

このような、アメリカ側と日本側の視点の違いが明確になってきたところで、一国の枠を越えてマッピングを行うためにはどうすべきか、林が意見を述べる。林の基本的なスタンスは細部から歴史記述を行い、平板なマップではなくて立体的・交差的なマップを目指すというものである(例えば基地経由で入ってくる他国文化などが、日本というフレームの枠内では見えにくくなる、とのこと)。この話に付け加えるかたちで、鈴木は、「実験場1950s」が平板で単線的な歴史の捉え方を批判するスタンスにあったこと、および1950年代の構造変化のなかで現れた広範な視覚芸術を重層的に拾い上げてゆくことを目的としていたことを説明する。

しかし、このような「実験場1950s」、「日本の70年代 1968-1982」、「裁断と縫合―前衛の地図」に通底する、歴史記述の重層化というコンセプトに対して、ドリュンは「グローバルアートヒストリー」と「ナショナルアートヒストリー」という言い方で、ある国に条件付けられた固有の状況をフレーム化する。そのうえで日本の内と外、このふたつの対話を進めてゆくことの重要性を強調する。林もインターナショナルとグローバルの区別はそもそもないと前提したうえで、国際的な地政学の動きのなかで戦後日本美術を注意して書いてゆくべきと述べる。そして、「荒川修作について日本の文脈で話すのか、国際的な文脈で話すのか」という例えを出す。それに対してドリュンは「観客」の立場を考えることの必要性を指摘する。観客が皆、歴史的な知識を備えている訳ではないということである。この話の流れのなかで、鈴木は「実験場1950s」を観にきた観客について、震災以降の社会的な空気の変化もあって、政治的・歴史的背景込みの展覧会であっても受け入れられたと述べる。

さらにシンポジウムは、ナショナルアートヒストリーから逃れた存在としての草間彌生や、もの派、具体などを例に挙げながら、それらがどのような布置でグローバルアートヒストリーに接続されてきたのかを論じてゆくのだが、残念ながら時間切れとなる。曖昧な結論としては、「基地や安保などの、日本内部のローカルな社会背景の理解を海外の観客に求めたところで、それは困難である——しかし、海外ではちゃんとした日本研究も行われてきており、これらの展覧会で今後の基盤が出来た訳なので、これからはナショナルな歴史的背景を踏まえた戦後美術の研究が進められてゆくだろう」といったところだった。

結局、このシンポジウムのなかで問題化されていたものは、ナショナルな(世界的に見ればローカルな)社会内部の政治的・歴史的背景を、グローバルアートヒストリーに接続する際に生じる齟齬であったといえるだろう。それはある程度は仕方がないことであり、個人的にも納得しているつもりである。しかし、いかに震災以降の切実な焦燥を込めた、社会批判としての展覧会や歴史研究であろうとも、それすらも外から見ればローカル社会の内部問題に過ぎないという事実を確認して、正直なところ私は力の抜けるような感覚を覚えた。念を押しておくが、これは「TOKYO 1955-1970」を初めとした、グローバルなものたちに対しての批判ではない。むしろ、海外どころか国内の社会的現状にすら批判的有効性を持てないでいる展覧会や歴史研究に対しての諦観のようなものである。

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