文脈操作について

過去の自分の反省を込めて書くのだが、他人を指して、特定のジャンル外あるいは特定の体系外のものに排他的で不寛容な思考の持ち主であるとメタ的な位置から批判することは、自分を領域横断的で寛容な思考の持ち主であると印象付けるための、議論のゲームで優位に立つための常套手段であると思う。相手よりもメタな位置に自分を設定し、複数の文脈を操作する議論上のメタポジションを確保することは、一階層下の、唯一の文脈のみに依拠して意見を述べる相手よりも、一見して正当性を持っているような印象を第三者に与える(複数の文脈それぞれについての深い見識を持たないとしても)。また、一階層下のポジションからの、あらゆる批判を先回りして封じることもできる。

しかし、このような議論は不毛である。研究発表で発表者が知らないであろう全くジャンル違いのネタを持ち出して、意味があるのかないのか分からない微妙な比較を行い、発表者を困らせる聴衆並みに不毛だ。相手よりもメタポジションに立てるかどうかで正当性を競ったり、営業めいた発言を繰り返すことはもういいのではないだろうか。領域横断的な議論の是非とは、その議論が意義あるレベルのものであったかどうかによる。領域横断的な議論であれば全て正論、とはなるまい。話芸の一種としてならば別だが。

私は文脈を解体するような、引き裂かれるような交錯と、何かが再生成されるようなダイナミズムを期待しているのであり、それを媒介するような領域横断的な批判を期待しているのである。この頃私は、そのような領域横断的な批判とは、大雑把な手捌きによって行われる複数の文脈の操作によってではなく、体系そのもの、一次資料そのものに一度徹底して執着し、唯一の文脈のみに回収できない細部の異質さを見出し、それをひたすら拡大してゆくことによって可能となるような気がしている。複数の文脈の操作は、その異質さが無視できない、体系にとっての矛盾に転じた時に開始される。

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