MoMAK Films 2013 戦後前衛運動と映画:松本俊夫・勅使河原宏

MoMAK Films 2013 戦後前衛運動と映画:松本俊夫・勅使河原宏
2013年4月20日(土)・21日(日)
http://www.momak.go.jp/Japanese/films/2013/momakFilms1.html

京都国立近代美術館開館50周年記念として、戦後前衛映画運動の旗手であった松本俊夫(1932-)と勅使河原宏(1927-2001)の作品を特集し、当時の豊饒なアートシーンを検証する。東大美学卒の松本、現・東京藝大卒の勅使河原ともに、ジャンル横断とパラダイムシフトを提起する前衛的な作品群を発表し、草月アートセンターなど前衛芸術運動の拠点形成にも貢献。松本俊夫特集では、『つぶれかかった右眼のために』をオリジナルの16mm三面映写で上映し、氏の講演も開催。会場情報と料金については、こちら

4月20日(土)14:00-14:50
・『銀輪』1955年(新理研映画)[デジタル復元版・アナログ三色合成版](12分・35mm・カラー)
「実験工房」のメンバー山口勝弘、北代省三、武満徹と、円谷英二の協力を得た、日本の実験映画史上伝説的な作品。自転車へのあこがれを幻想的に表現したシネポエムで、日本自転車工業会の海外PR映画。

・『石の詩』 1963年(東京放送=東京テレビ映画)(24分・16mm・白黒)
TBSのドキュメンタリー番組からの委嘱作。石切り場を撮ったアーネスト・サトウの写真を再構成し、スチルの石から生命の躍動感の表出を試みた。クリス・マルケルやジョルジュ・サドゥールらに高く評価された。

・『つぶれかかった右眼のために』1968年(13分・16mm・3面映写上映)
激動の1968年を、複数の映像の相互関係で表現しようと、日本初の3面映写を採用したエクスパンデッド・シネマ(拡張映画)。草月アートセンターでの初映時には、フラッシュをたいてスクリーン外にも混沌状態を起こすパフォーマンスを伴った。

・監督映画上映記念 松本俊夫氏によるアフタートーク
松本俊夫氏(映画監督)[聞き手]川村健一郎(立命館大学映像学部准教授)
日時:2013年4月20日(土)午後3時~4時30分
会場:京都国立近代美術館1階講堂
定員:100名
※聴講は当日の上映作品を鑑賞される方に限ります。アフタートークの整理券は、当日13時30分からの上映会入場券販売と同時に希望者に配布します。

4月21日(日)14:00-15:35
・『北齋』1953年(青年ぷろだくしょん)(23分・35mm・白黒)
勅使河原の映画監督第一作。本作は当初、瀧口修造、宮島義勇らが発足した日本美術映画研究会の第1回作として撮影されたが、途中で資金難に陥り、素材を購入した青年ぷろだくしょんが新たな視点で完成させた。

・『アントニー・ガウディー』1984年(勅使河原プロダクション)(72分・35mm・カラー)
巨大建造物サグラダ・ファミリアの建築過程を追ったドキュメンタリー。1983年に撮影した35mm映像に、1959年に勅使河原が撮影した16mmのフッテージを挿入し、二つの映像の落差を通して時間の重みを表現した。

4月21日(日)16:00-17:37
・『おとし穴』1962年(勅使河原プロダクション)(97分・35mm・白黒)
勅使河原の初の長編劇映画監督作で、ATGの日本映画配給第一弾。炭鉱で起きた殺人事件をめぐる物語。安部公房が自身のTVドラマ「煉獄」を脚本化し、音楽も含め、前衛的表現はまさに60年代芸術の先端を告げた。

今週末、京都国立近代美術館にて松本俊夫(4月20日)と勅使河原宏(4月21日)の上映会と、松本俊夫氏のトーク(4月20日)が行われます。企画・聞き手は立命館大学の川村健一郎氏なので、しっかりとしたオーラルヒストリーを聴くことができるはずです。ちなみに川村氏が書かれた50年代の記録映画と松本俊夫についての論文「戦争責任論と1950年代の記録映画」で扱われていた問題は、60年代の実験映画なんかを語る前提として必読だと思うんですよ、本気で。

live in Moscow 06.04.2013…



モスクワで先日行われたイベント「LIMEN」のライブ映像がひと通り公開されている。このイベントにはGENOCIDE ORGAN、CON-DOM、GREY WOLVESという、この手の政治性・社会性を内包したパワーエレクトロニクスにおいて最も重要なグループ・ユニットが揃って出演しており、大変気になっていたので、こうやってライブの様子を確認できることに感謝したい。制限を侵犯する欲求の、残酷なパワーエレクトロニクスによる解決とは、これらの音楽に通底する性質を言い表すものだと思う。

LIMEN
• GENOCIDE ORGAN (Германия)
• CON-DOM (Великобритания)
• GREY WOLVES (Великобритания)
• REUTOFF (Россия)

• Limen — по-латински «порог», и стремление преступить любые пределы объединяет участников фестиваля, посвященного самому радикальному сегменту индастриала. Немецкий полузапрещенный проект Genocide Organ решает эту задачу средствами предельно жестокой силовой электроники: каждое выступление квинтета есть ритуал исчисления лимитов — выносливости аппаратуры и человеческого организма.
• Британские террористы Grey Wolves в четыре руки выращивают на сцене костистых нойзовых ящеров, отпаивают их наждачным гноем и затем скармливают им парализованную публику. Майк Дандо (он же Con-Dom) и вовсе действует без церемоний: обрушив стену абразивного шума, сразу ныряет в зал и провоцирует прямые столкновения.
• Подмосковное трио Reutoff не оглушает, но тонко входит под кожу, навсегда инфицируя слушателя жаждой того, чего нет и не может быть. Без преувеличения можно сказать, что именно эти люди довели до максимального предела мессидж таких родоначальников жанра как Throobing Gristle, SPK, Whitehouse, Boyd Rice, создав тем самым новое нонконформистское направление в индустриальном подполье 90-х.
• «Мы не врачи, мы — боль» — это определенно про них.

仮象としての「風景」

昨年11月8日、京都の吉荒さんの企画によって同志社大学で開催された上映会「風景/仮象―ジェームス・ベニング特集」のための文章を再録する。ここで上映された『ナイトフォール』(2012)は、98分間にわたってフィックスショットが続くという極端な作品であり、今年のイメージフォーラムフェスで上映される『ステンプル・パス』(2013)にもコンセプト的に直接つながる作品である。

仮象としての「風景」
阪本裕文[映像研究]

 ジェームス・ベニングは1942年、ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の実験映画作家であり、長時間の固定ショットによって風景を撮影した、いわゆる風景映画によって知られている。ただし、ここでベニングによって映し出される「風景」とは、日記映画によくあるような情緒的な眼差しが捉える詩的な風景などではなく、社会的な空間としての「風景」であることに注意したい。このような表象化された社会的な「風景」とは、その場所にまつわる政治的・歴史的・文化的な、さまざまな要素の重層的な関係の総体として成立しており、ベニングの視点とは、その場所に潜在している関係性を分析し、明らかにするものであるといえる。まず、ベニングのフィルモグラフィーから、彼がどのような変遷において「風景」を捉えてきたのかを考察したい。

 1972年よりインディペンデントな実験映画の制作を開始したベニングは、そのキャリアの初期から固定ショットによって風景を捉えた『8 1/2×11』(1974)などのフィルムを制作している。この数字だけのタイトルにも表れているように、ベニングにおける固定ショットを構成する数学的な厳格さは、当時の構造映画からの影響を感じさせるものである。実際にベニングは『グランド・オペラ』(1978)において、構造映画の代表的な作家であったマイケル・スノウ、ホリス・フランプトン、ジョージ・ランドウ(オーウェン・ランド)の三名、そしてイヴォンヌ・レイナーへのオマージュを含むフィルムも制作している。

 やがて、彼が社会的な仮象としての「風景」への関心を移行してゆくのは、『アメリカン・ドリーム』(1984)や、『ランドスケープ・スーサイド』(1986)の時期からだといえる。ここでは、まず『アメリカン・ドリーム』について言及する。このフィルムは正確には風景映画ではないが、それでもスクリーンの中にある種の「風景」を映し出している。このフィルムにおいて映し出されるのは、証拠写真のような無機的なカメラによって撮影された膨大な数量の野球選手ハンク・アーロンのカードと、字幕でスクロールし続ける、犯罪者アーサー・ブレマーの手記である。ブレマーは、1972年にアラバマ州知事ジョージ・ウォレスに対する暗殺未遂で逮捕された人物である*1。サウンドトラックは60年代のラジオコラージュや大統領の演説であり、政治的なスピーチとプレスリー、シナトラの歌声が響きわたる。これらの文化の断片が紡ぎ出すものは、仮象化されたアメリカの文化的風景に他ならない。

 この作品に続いてベニングは『ランドスケープ・スーサイド』のなかで、バーナード・プロッティとエドワード・ゲインという、あまりにセンセーショナルな二人の殺人犯に焦点を合わせる。このフィルムは、二人の殺人犯への獄中インタビュー(実際のところ、これは殺人犯を演じる役者へのインタビューであるが、作中において本物と偽物の境界は曖昧な状態におかれている)と、彼ら殺人犯を取り囲んでいた、カリフォルニア州オリンダ、そしてウィスコンシン州プレインフィールドの風景の映像などによって構成されている。もちろんここで「風景」は、ただの田舎町の景観などではなく、凶悪事件の揺籃となった社会的空間の仮象として、分析的に凝視される対象となっている。こうしてある種の奇妙なドキュメンタリーともいえる「風景映画」に到達したベニングは、同様の手法でローリー“バンビ”ベンベネックに焦点を合わせた『ユーズド・イノセンス』(1989)も同じ時期に発表している。この時期のベニングの試みは、日本国内の作品であれば、足立正生や松田政男による『略称・連続射殺魔』(1969)との比較において捉えることも可能であろう。

 やがて、ベニングはセンセーショナルな事件に焦点を当てて、仮象としての「風景」を捉えるだけでなく、ありふれた「風景」のなかに潜んでいるさまざまな要素の重層的な関係を、観客自身に、長時間の映画的な経験のなかで注視させる傾向を強めてゆく。例えば、『セントラルヴァレー』(1999)、『ロス』(2000)、『ソゴビ』(2002)からなる三部作『カリフォルニア・トリロジー』は、郊外(セントラルヴァレー)/都市(ロサンゼルス)/自然(ソゴビ)の様々な「風景」を、撮影ポイントごとにワンショットで捉え、それを厳格なルール(同一の長さ、同一のショット数)のもとで繋げて、構成した作品である。このフィルムのなかで映し出される単調な「風景」のイメージは、一見すると何でもないものだが、実時間とイコールとなった上映時間のなかで——すなわち一定の長さに積み重ねられた映画的経験のなかで注視されることによって、潜在するさまざまな要素と関係を露にし始める。それぞれの観客は、映画のなかで立ち上がるイメージを余すところなく拾い上げようとして、スクリーンを凝視し、微細な音を聴き取ろうとして耳を澄ます。ここで観客は積み重ねられた映画的経験のなかで、各人が異なるものに知覚の注視を向けることになるだろう。

 このようにして、2000年代のベニングは観客の知覚を引き出すような、極めて特異な風景映画を生みだしてゆく。そのなかでも、ロバート・スミッソンのアースワークである「スパイラル・ジェティ」を1970年から2007年という極めて長大なスパンで撮影した『キャスティング・ア・グランス』(2007)や、リュミエール兄弟へのオマージュも含むものであっただろう、貨物列車の運行を被写体とした最後のフィルム作品である『RR』(2007)などが代表的である。

 ここで、ようやくこの小論は本日の上映作品である『ルール』(2009)と『ナイトフォール』(2012)について言及する準備を整えた。まず、この二作品は、これまでの作品のような16mmフィルムではなく、HDビデオによって撮影された作品である。この変化は作家本人のコメントによると、創作上のコンセプトの転換などではなく、フィルムを取り巻く制作環境の後退によってフィルムによる映画制作が困難になってきたことが主たる要因であったことが述べられている。このような制作条件の変化は、好むと好まざるとにかかわらず、必然的に作品に影響を及ぼすことになる。

 まずは、『ルール』について述べる。この作品の撮影場所はアメリカではなく、ドイツの工業地帯であるルール地方となっている。まず前半部は、以下の6つのショットによって構成される。

・ショット1:トンネル内の道路/道路を往来する車、歩行者、自転車
・ショット2:工場/コンベアーのうえを流れていく鉄材
・ショット3:空港近くの森林のなかから見上げられた空/数分おきに上空を通過する旅客機、揺れる木々
・ショット4:モスク内での礼拝/信徒たちの礼拝の様子
・ショット5:野外彫刻/彫刻に描かれたグラフィティを消す作業員の様子
・ショット6:町の路地/犬を散歩させる住人、乗用車の車庫入れ、遠くを通過する車

 ここまでは従来の撮影のスタイルと大きな違いはない。固定ショットの持続時間は、ビデオの使用によって今までよりも長くなっているが、基本的なコンセプトは同義である。すなわち数秒程度の注視では見えてこないような、場所が持っているさまざまな要素の重層的な関係を、長時間の持続のなかで知覚させるということである。ある程度の長さ—時間的な深度を取ることによって見えてくる場所の性質。あらゆる場所は実にさまざまな要素の絡み合いによって成り立っているのであり、長時間の持続によって、それらの関係性は、初めて認めることが可能となる。前半部のショットのなかでも、特に印象的なのがショット3における、飛行機が通過した後に、遅れてやってくる風が揺らす木々のざわめき。そして、ショット4における低い位置に設置されたカメラのフレームが、立ち上がった信徒の背中によってすっぽり覆われてしまう箇所だろう。これらは、いずれもある程度の長さの映画的経験によってはじめて知ることが出来る、その場所に固有の現象であったといえるだろう。

 そして、この作品の後半部のショットにおいてベニングは、長時間の連続撮影を可能とするビデオの長所を最大限活用して、巨大な煙突を一時間にわたって固定ショットで撮影するという試みを行うに至る。

・ショット7:石炭工場の巨大な煙突/定期的に吹き出す煙、そして日没

 前半部は6つのショットが、数分間の持続によって切り替わっていたが、この後半部のショットは、定期的に煙突から大きな煙が吹き出すという出来事が、数十分にわたって繰り返されるだけである。最初は驚くかもしれないが、吹き上がる煙に慣れてしまえば、単調な時間が持続してゆくだけに見える。やがて、極端な長回しショットの中で、日が暮れて、あたり一面が暗くなってゆくという変化がおこる——ここでベニングは前半部よりもさらに長い時間的スケールによって、ルール地方全体をひとつの大きな社会的空間として、まとめて仮象化しようとしている。人によっては、この象徴的なショットの中で、石炭を産出する工業地帯でもあったルール地方における戦争と歴史を思い起こすかもしれない。

 次に、新作である『ナイトフォール』について述べる。これはアメリカ合衆国カリフォルニア州東部にあるシエラネバダ山脈において撮影された作品であり、夕暮れにおけるリアルタイムな光の変化が主題であるとされている。しかし、この映画における長時間の経験が観客にもたらすものは、何とも言いようのない不安感ではないだろうか。作家本人にインタビューした訳ではないので伝聞になるが、この映画には、もうひとつの主題として、ある影が寄り添っている*2。ベニングは数年前に、自分が所有する土地に小さなキャビンを建設したという。最初のそれは、野外で自給自足の生活を送った作家であるヘンリー・デイヴィッド・ソローを思わせるものであったらしいが、ベニングはそこからユナボマー事件の犯人であるセオドア・カジンスキーについて思いを巡らせ、もうひとつの小屋を建設したという。この映像はそれらのキャビン近くの山中で撮影された、昼間から夕闇に至るまでの98分間の光の変化の記録である。この孤独な視線によって捉えられた「風景」は、明らかに、文明社会に背を向けて山中に暮らした孤独な生活者を取り囲んでいた「風景」の仮象となっている。この仮象化された孤独な「風景」はスクリーンに映し出され、映画的経験のなかで注視されることによって、より一層その孤独と、言いようのない不安感を強めさせる。どれほど注視しても、観客は視覚的には時間が静止したかのような空虚な経験しか拾い上げることが出来ないのである。せいぜい明確な変化として観客が知覚することが出来るのは、昼間から夕闇への変化と、異様に不気味な夜の森がざわめく音くらいである。ベニングは今後も、カジンスキーを主題としたプロジェクトを進めてゆくらしい。ベニングは孤独の中で、再び『アメリカン・ドリーム』のような暗い陰を纏った、仮象化された「風景」を凝視することに回帰しつつあるのかもしれない。

*1:余談であるが、このブレマーをモデルにした映画が、ポール・シュレイダーの脚本による『タクシー・ドライバー』(1976)であった。
*2:http://artforum.com/words/id=30645 を参照のこと。

第五回恵比寿映像祭「ソングス・フォー・レント―実験映像の現在」

そのうちレビューしようと思いながら遅くなったが、第五回恵比寿映像祭で印象深かったプログラム「ソングス・フォー・レント―実験映像の現在」について述べる。このプログラムのプログラマーは、ホイットニー美術館のジェイ・サンダースである。以下、上映順です。

naumanshoe
・ブルース・ナウマン/ウィリアム・アラン – アブストラクティング・ザ・シュー
Bruce NAUMAN/William ALLAN – Abstracting the Shoe
(2min 41sec, 16mm*DVD上映, 1966)
工程を説明する教育映画のように革靴と足型と金属缶が映し出される。ここで展開される作業とは、靴を模して足型に黒いパテを盛ってゆくというもの。そして、最終的にはタイトルの通り、靴の形状を模したオブジェが完成する。初期のナウマンは、ウィリアム・アランとの共作を幾つか制作している。後のビデオ作品にみられるような身体性はここにはまだ存在せず、コンセプチュアルなパフォーマンスを記録した映画となっている。カラー、サイレント。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA
・トム・アンダーセン/マルコム・ブロドウィック – ――― ―――――――
Thom ANDERSEN / Malcolm BROADWICK – ――― ――――――― (aka Rock’n’Roll Movie)
(11min, 16mm, 1967)
映像作家として知られるトム・アンダーセンが、マルコム・ブロドウィックと制作したロックンロールについてのフィルム。レコードのプレス工場、楽器店、ジュークボックスなどの映像や、様々なミュージシャンのライブ映像など、同時代の60年代ロックに関わる様々なフッテージが細かくコラージュされる。サウンドトラックも映像と同じく、様々な楽曲のカットアップコラージュによって構成されている。カラー、サウンド。

songforrent
・ジャック・スミス – ソング・フォー・レント
Jack SMITH – Song For Rent
(4min, 16mm, 1969)
この作品のなかでジャック・スミスは、ローズ・ケネディに触発されたという分身Rose Courtyardを演じている。薄暗いスタジオに設けられたセットにはアメリカ国旗が掲げられている。赤い服に身を包み、車椅子に乗って登場したジャック・スミスは、雑多なオブジェ類や日用品を抱えている。彼はそのままの姿で酒をあおり、香水を辺りに吹きかけ、ボロボロのスクラップブックに見入る。そして、ケイト・スミスの歌う「God Breath America」に合わせてアメリカ国旗の下で涙を流す。ローズ・ケネディの不幸なエピソードへの連想や、借り物の歌という不思議なタイトルなど、まるで謎掛けのよう印象を観客に与える、忘れ難い映画であった。カラー、サウンド。

Marcel Broodthaers_La Pluie (Projet pour un text)
・マルセル・ブロータス – ラ・プリュイ(テキストのためのプロジェクト)
Marcel BROODTHAERS – La Pluie (Project pour un texte)
(2min, 16mm, 1969)
本プログラムのなかでも、マルセル・ブロータスのフィルムは特に現代美術寄りの位置にいる。屋外にて椅子に腰掛け、即席の机の上でノートに文字を綴る男。しかし頭上からは雨が降り注ぎ、ノート上のインクは滲んで流れてゆく。最後に男はペンを放り出す。完成されない文章、完成されない行為を記録したコンセプチュアルな作品だといえる。モノクロ、サイレント。

・マルセル・ブロータス – ベルリンもしくは夢とクリーム
Marcel BROODTHAERS – Berlin oder ein Traum mit Sahne
(10min, 16mm, 1974)
劇映画的な画面づくりをしているが、明瞭なストーリのない短編。窓の外の街を眺める少女と、パイプを手にして椅子に座る男。鳥の人形と卵。男は居眠りを始め、少女は植物に水をやり、カーテンを閉める。河上を行く船の汽笛と、アコーディオンの音楽が流れる。やがて人々の話し声が空間を満たす。男は目を覚ます。少女は食事を運んでくる。男は眼鏡にバターを付けて、そのまま新聞を読む。再び河上を行く船の汽笛と、アコーディオンの音楽が流れる。奇妙にゆったりとした空気感が印象的である。彼の他の作品と大きく異なり、劇映画的な作品なのが意外だった。カラー、サウンド。

・マルセル・ブロータス – La Lune
Marcel BROODTHAERS – La Lune
(3min, 35mm, 1970)
虫眼鏡越しに文字や月面地図を映し出す。そこに文字が綴ってゆくが、文字はフィルムの逆回転によって消される。『ラ・プリュイ』と類似したコンセプトを持つ小品。カラー、サイレント。

・マルセル・ブロータス – ムッシュー・テスト
Marcel BROODTHAERS – Monsieur Teste
(2min, 35mm, 1974)
ゆっくりと左右に首を振る、機械仕掛けの中年男の人形。この人形を椅子に座らせて新聞を読むポーズをとらせる。人形は相変わらず首を振る。やがてカメラも首の動きにあわせて、ゆっくりと左右にパンする。ユーモラスな小品である。カラー、サイレント。

・マルセル・ブロータス – 永遠の1秒(シャルル・ボードレールによる着想)
Marcel BROODTHAERS – Une seconde d’eternite (D’apres une idee de Charles Baudelaire)
(1sec, 35mm, 1970)
一秒間だけ文字が映写されるという、現代美術家らしいコンセプチュアルな映画。映写される文字は「MB」。モノクロ、サイレント。
以下のリンクでインスタレーション版を観ることができる。
http://www.macba.cat/media/broodthaers/broodthaers.html

・エリカ・ベックマン – ヒット・エンド・ラン
Ericka BECKMAN – Hit and Run
(9min, 8mm*BD上映, 1977)
暗闇のなかで素振りをする男のイメージと、走る(逃げる?)女のイメージが多重露光で合成される。また、後半では走る女のイメージと、ポーズを取る女のイメージが画面の左右で多重露光によって合成される。映画における複数のイメージの関係性を探るというコンセプトを持っているようだが、多種多様なコラージュが続くので、小難しい印象はなく、リズミカルなサウンドと相まって、意外と楽しめた。カラー、サウンド。
以下のリンクで全編を観ることができる。
http://www.erickabeckman.com/Hit_and_Run.html

・ジェームス・ネアーズ – 風を待つ
James NARES – Waiting for the Wind
(8min, 16mm, 1982)
手持ちカメラで、屋内のベッドで眠る男の姿を撮影する。そこに激しい風の音が割り込み、カメラが激しく揺れる。その激しい風によって室内がメチャクチャになる…という習作的な作品。カラー、サウンド。恐らくオリジナルは8mm。

・マイケル・スミス – アウトスタンディング・ヤングメン・オヴ・アメリカ
Michael SMITH – Outstanding Young Men of America
(9min, Video*BD上映, 1996)
“Outstanding Young Men of America”の候補に選ばれた、冴えない中年男が一人で自宅を飾り付け、ミラーボールまで設置してパーティーを催すというコメディ。皮肉に満ちた作品であり、まるで自分がバカにされているような気がして心が痛い。カラー、サウンド。BGMはビーチボーイズ。

・ライダ・ラートスンディ – 天国という名の部屋
Laida LERTXUNDI – The Room Called Heaven
(11min, 16mm, 2012)
断片的なシークエンスによって構成される、明瞭なストーリのない映画。水をかけられる男、踏切の横にて佇む女、荒野に立つ男、ピアノを弾く女、多重露光で合成された海と扉のイメージなど。環境音とサウンドトラックの組み合わせに何らかのコンセプトがあるようだが、よく理解できなかった。カラー、サウンド。

・ルーサー・プライス – ディッピング・ソース
Luther PRICE – Dipping Sause
(6min, 16mm, 2005)
個人的な意見だが、このプログラムで最も重要だと思えた作品は、ジャック・スミスのフィルムと、このルーサー・プライスの3つのフィルムだった。基本的にルーサー・プライスは、ファウンドフッテージによってフィルムを制作する作家である。彼のファウンドフッテージの取り組みには、政治的・社会的なコンセプトが含まれているように思えるが、それにも況して重要なコンセプトになっているのは、やはりフィルムのマテリアル性への執着だろう。なので、その上映には細心の注意が必要であるらしく、一旦インターバルを挟んで、準備を整えてからの上映再開となった。
まず本作は、児童向けの教育映画から引用されたと思われるフッテージを使用している。そのイメージとは、壁に掛けられた絡繰りが連動して、最終的に正装の男がプールに落ちたり、パイを投げつけられたりするというユーモラスなものである。そのフッテージの合間に、料理をする男女のフィルム(ネガポジ反転されている)が効果的に配置される。サウンドは接触不良的なノイズであるが、これは恐らく光学サウンドトラックに対するダメージによるものだろう。モノクロ、サウンド。

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・ルーサー・プライス – インクブロット#44-アクア・ウーマン
Luther PRICE – Inkblot #44: Aqua Woman
(5min, 16mm, 2009-2010)
本作では裸の女性のフッテージや、海を撮影したフッテージなどが使用されているようだ。しかし、これらのフッテージはあくまで一次的な材料に過ぎず、その上に直接的に執拗なペイントを施すことによって、この作品は制作されている。本作について「ブラッケージが既に似たような事やっていただろう?」と批判する事は簡単だが、それは手法の類似を批判するだけの不毛な言葉である。問題はフィルムに直接的に手を加える事によって、どのような映画的イメージが生産されたのかという事に尽きるだろう。本作は、抽象的なイメージの混濁のなかで、朧げに把握することができる幽霊的な女性のイメージを生産している。本作の他にも『Inkblot』シリーズとして同様のフィルムを多数制作しているようだ。サウンドはやはり接触不良的なノイズであるが、元々のフッテージの音声も僅かながら聴き取る事が出来る。カラー、サウンド。(上記スチルは別のシリーズナンバーのもの。)

・ルーサー・プライス – アフター・ザ・ガーデン-ダスティ・リケット
Luther PRICE – After the Garden: Dusty Ricket
(7min 30sec, 16mm, 2007)
本作では、文化人類学的な記録映画から引用されたと思われる、アフリカの部族の母子のフッテージが使用されているようだ。しかしそのイメージは、極一部しか拾い上げる事が出来ない。この『After the Garden』シリーズは、フィルムを地中に埋めて、元々のイメージが記録されているゼラチン層に、バクテリアによる崩壊を発生させる試みである。この微細な崩壊は、元々のイメージの大部分を消失させる。それによってスクリーン全面に、びっしりと無数のひび割れが生じたような、殆どモノクロの抽象的イメージが生産される。この微細な崩壊の痕跡が生み出す運動は、豊穣な映画的経験を観客に与える。サウンドはやはり接触不良的なノイズであり、バクテリアは光学サウンドトラックにも大きなダメージを与えているようだった。カラー、サウンド。

・マイケル・ロビンソン – ライン・ディスクライビング・ユア・マム
Michael ROBINSON – Line Describing Your Mom
(5min 50sec, DV*BD上映, 2011)
ダンスの振り付け、水面上を走る炎、廃墟のなかの電話機などの不明瞭なイメージが重ね合わされ、激しいフリッカーを織り交ぜながら構成される。言語化されない自己の無意識を探った映画であるといえるだろう。

・アレックス・ハバード – ヒット・ウェイヴ
Alex HUBBARD – Hit Wave
(4min 35sec, BD, 2012)
ホリゾントスタジオ内で行われる様々なパフォーマンス(喫煙用パイプから吹き出す青い煙、原色のスプレーによるペインティング、オブジェの配置作業など)が乗算レイヤーとして合成される。このデジタル合成によって、フィルムの多重露光とは全く異なった、異様にクリアで多重階層的な画面が生み出されている(撮影はHDで行われている)。また、撮影の際には方向感覚を狂わせるような工夫も組み込まれている。近年のデジタルで制作された映像作品としては新鮮な印象を残す作品。カラー、サウンド。

・ジョージア・サイクリ – コロス
Georgia SAGRI – Choros
(8min 25sec, DVD, 2013)
デスクトップ上に同時に自分の顔の表情をビデオ表示しながら、Wordか何かを使用して手紙を作成するプロセスを記録する。ただそれだけの作品。アイデアはちょっと面白いが物足りない。カラー、サウンド。

本プログラム全体を通して評価するならば、プログラマーは音楽や歌を想起させるフィルム、もしくは流れるような運動性を持ったフィルムを意図的に選出したという印象である。しかし、それにも況して個人的に印象的だったのは、このプログラマーが持っている、現代美術のコンテクストと実験映画のコンテクストを織り交ぜる絶妙なバランス感覚だった。これがもう少し現代美術の側に振れていたなら、マルセル・ブロータスのようにコンセプト先行で映画的イメージの乏しい作品ばかりになっていただろうし、反対にこれがもう少し実験映画の側に振れていたなら、日記映画的な作品が入っていたかもしれない。個人的にはこのくらいの、現代美術と実験映画が重なり合ったバランスは大変好ましい。とても良いプログラムを観させてもらった。

Ben Rivers – Two years at sea


ベン・リバース – 湖畔の二年間
Ben Rivers – Two years at sea
(88min, 16mm anamorphic , b/w, blown-up to 35mm, 2011)

ベン・リバースの長編『湖畔の二年間』は、二年間の水夫生活で稼いだ金をつぎ込んで、人里離れた僻地に家を購入して一人きりで暮らす風変わりな人物、ジェイクを被写体とした映画である。ナレーションもテロップもなく、ダイレクトシネマのように淡々とジェイクの日常を記録してゆくドキュメンタリー………少なくともベン・リバースの映画に通底する独特の方法論を知らされない観客は、そのように理解するだろう。しかし、本作は素朴な意味でのドキュメンタリーではない。作家によると、スクリーン上において展開されるジェイクの生活は、ありのままの事実ではなく、いくつかのシーンではフィクションとして、普段の生活では行わないような行為をジェイクに行ってもらったという(冷たい湖に自家製ボートを浮かべ、そのうえで横たわるシーンなど)。このようなシーンは、撮影クルーとジェイクのやり取りのなかで、即興的に決定されていったそうだ。もちろん、撮影に入る前に簡単なプロットは準備されていたが、それはほとんどメモに近いラフなものであった。しかし、だからといって本作は、一昔前によく制作されていたフェイクを組み込んだセルフ・ドキュメンタリーとも性質が異なる。

二名の撮影クルーは、一回あたり約二週間の期間で、住み込みでジェイクを手伝いながら集団生活を行い、その見返りに撮影を行わせてもらったという。そのようにして、この奇妙な映画は生み出された。この集団生活による撮影プロセスのなかで、ジェイクの日常生活は変容してゆく。その撮影の場には出来事の事実性に固定されない、不明瞭な状況が出現している。この状況のなかで、カメラは三人の人間(ジェイク&カメラマン&録音)を結びつけ、そこにひとつの親密な空間を形成する。その親密な空間では、事実と虚構の区分が不明瞭な状態で揺れ動いている。本作はドキュメンタリー映画ではなく、集団生活による現実変容のプロセス、その集団生活が行われた空間の記録だといっていいだろう。

余談であるが、眼前の世界を変容させるベン・リバースの方法論は、本作の前に制作された『Slow Action』においても、異なるかたちで試みられている。『Slow Action』は、世界各国のユニークな土地を被写体としながら、それをSF的虚構性を帯びた別世界に変容させた映画である。そのアイデアの源泉になったのは、「同属の種が異なる環境において違う進化を遂げる」という進化論の考え方であったという。『Slow Action』は、ゆっくりとした作用(Slow Action)によって遠い将来において異なる進化を遂げた四つの集団を、ドキュメンタリーとフィクションの狭間において文化人類学的に描き出している。(ちなみにこの現実変容の操作は、事後的に加えたサウンドとナレーションによって行われている。)

話を『湖畔の二年間』に戻そう。本作はその独特の映像表現によって、現実変容の度合いに拍車をかけている。本作は生産中止になったコダックのモノクロフィルムによって制作されているのだが、その現像作業は全て繊細な手捌きの自家現像によって行われている。それによって映画は、不安定に揺らめくグレーのテクスチャーをスクリーン上に出現させている。しかも上映にあたっては16mmを35mmにブローアップしているので、テクスチャーのなかで無数に蠢くフィルムの粒子が強調される。この自家現像によって生じた揺らめくテクスチャーは、撮影現場の濃霧や自然光と混濁させることを意図していたとしか思えないほどに、眼前の世界を抽象化するうえで、絶大な効果を発揮している。

このような映像表現を目の当たりにして思うのは、自家現像によるフィルム制作というのは、予期せぬ結果を呼び出すという意味において、一種の錬金術的な性格を帯びているということである。スチル・ムービーを問わず、自家現像をやったことのある人なら経験があるかと思うが、現像液の温度の違いやフィルムを溶液に浸す時間のズレが、かえって面白い効果を生み出すことが時としてある。そこにおいては、予期せぬ変容を経たイメージが生み出される。

この予期せぬ変容によって得られたテクスチャーは、ジェイクの自宅に差し込む陽光や、夜の暗闇、屋外の白い霧と混ざり合いながら、現実変容の振幅を格段に増大させる。それはラストシーンでの、暖炉のかすかな明かりによって照らし出されたジェイクの横顔に集約されるだろう。漆黒の粒子の中で幽霊のように揺らめくその横顔のイメージは、イメージが形成される寸前の境界線上で不安定によろめく。

この映画は、ドキュメンタリーのようでもあり、フィクションのようでもあり、文化人類学の記録映像のようでもあり、実験映画のようでもある。しかしスクリーン上に映し出される映画を、撮影の現場において不明瞭な状態で揺れ動く関係性の総体として捉えるのならば、上記のようなジャンル的区別などはそもそも不要となる。本作は、そのようなことを思い出させてくれる映画であった。

最後に一つだけ付け加えると、本作はサウンド面でもユニークなところがある。基本的にこの映画は同時録音によって撮影されており、殆どのシーンでは環境音だけが聴こえるのだが、時折、大音量で奇妙に場違いな民族音楽が割り込んでくるシーンがある。これはジェイクが水夫をやっていた時代にインドで買い求めたカセットテープの音楽なのだという。このように、事実でありながらフィクションのように見える部分が結構多いことも、本作の事実と虚構の区分を不明瞭化させることに役立っている。

加治屋健司氏のブログより

ジグムント・フロイト「ミケランジェロのモーセ像」渡辺哲夫訳(1914年).『フロイト全集』第13巻(岩波書店、2010年)、1-40ページ.他に『フロイト著作集』第3巻(人文書院、1969年)にも所収。

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」野村修訳(1936年)[第3版].『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)、7-59ページ.第2版は『ボードレール 他五篇』野村修編訳(岩波文庫、1994年)、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫、1995年)に所収。

クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939年).『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄監訳(勁草書房、2005年)、2-25ページ.

ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」(1952年).『新しいものの伝統』東野芳明・中屋健一訳(紀伊国屋書店、1965年)、21-37ページ.

クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」(1961年).『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄監訳(勁草書房、2005年)、62-76ページ.他に浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』(太田出版、1995 年)にも所収.

スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」(1964年).『反解釈』高橋康也ほか訳(ちくま学芸文庫、1996年)、431-462ページ.

ミシェル・フーコー「侍女たち」(1966年).『言葉と物 人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳(新潮社、1974年)、27-41ページ。もとになった1965年の論文の翻訳は、蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『ミシェル・フーコー思考集成 II』(筑摩書房、1999年)に所収.

マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子・藤枝晃雄訳(1967年).浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』(太田出版、1995 年)、66-99ページ.

ロラン・バルト「作者の死」(1968年)、「作品からテクストへ」(1971年).『物語の構造分析』花輪光訳(みすず書房、1997年)、79-89、91-105ページ.

ロザリンド・クラウス「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」石岡良治訳(1976年).『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』(東京国立近代美術館、2009年)、184-205ページ.

ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」(1979年).『オリジナリティと反復 ロザリンド・クラウス美術評論集』小西信之訳(リブロポート、1994年)、214-257ページ.ハル・フォスター編『反美学 ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(勁草書房、1987年)にも所収.

フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」(1983年).ハル・フォスター編『反美学 ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(勁草書房、1987年)、199-230ページ.後の版は『カルチュラル・ターン』合庭惇・河野真太郎訳(作品社、2006年)に所収.

ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」(1985年).『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』本橋哲也・正木恒夫・外岡尚美・阪本留美訳(法政大学出版局、2005年)、175-210ページ.

アーサー・ダントー「芸術の終焉の後の芸術」高階秀爾訳(1995年).『中央公論』(1995年4月)、224-237ページ.

ボリス・グロイス「生政治時代の芸術」三本松倫代訳(2003年).『表象』5号(2011年4月)、114-124ページ.

クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」星野太訳(2004年).『表象』5号(2011年4月)、75-113ページ.

加治屋健司氏のブログより転載。氏が大学院講義で取り上げる予定のテキストのリスト。大変勉強になります。震え声で「美術理論は専門外なので…」と逃げ出したくなってくるが、恥ずかしいことにフロイトと、下四つの近年のテキストは読んでませんでした…。しかも『表象』5号は持っているはずなのに。勉強します。

ところで、この並びを見ていると、クラウス「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」が持っている重要性って、たぶん造形や身体的パフォーマンスを主眼とする現代美術の文脈と、その外側にある映像の文脈(要するに社会的なビデオアートや実験映画の文脈)とでは、大きく異なるものなんだろうなと思う。