加治屋健司氏のブログより

ジグムント・フロイト「ミケランジェロのモーセ像」渡辺哲夫訳(1914年).『フロイト全集』第13巻(岩波書店、2010年)、1-40ページ.他に『フロイト著作集』第3巻(人文書院、1969年)にも所収。

ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」野村修訳(1936年)[第3版].『複製技術時代の芸術』(晶文社、1999年)、7-59ページ.第2版は『ボードレール 他五篇』野村修編訳(岩波文庫、1994年)、『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』浅井健二郎編訳(ちくま学芸文庫、1995年)に所収。

クレメント・グリーンバーグ「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939年).『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄監訳(勁草書房、2005年)、2-25ページ.

ハロルド・ローゼンバーグ「アメリカのアクション・ペインターたち」(1952年).『新しいものの伝統』東野芳明・中屋健一訳(紀伊国屋書店、1965年)、21-37ページ.

クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」(1961年).『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄監訳(勁草書房、2005年)、62-76ページ.他に浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』(太田出版、1995 年)にも所収.

スーザン・ソンタグ「《キャンプ》についてのノート」(1964年).『反解釈』高橋康也ほか訳(ちくま学芸文庫、1996年)、431-462ページ.

ミシェル・フーコー「侍女たち」(1966年).『言葉と物 人文科学の考古学』渡辺一民・佐々木明訳(新潮社、1974年)、27-41ページ。もとになった1965年の論文の翻訳は、蓮實重彦・渡辺守章 監修/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝編『ミシェル・フーコー思考集成 II』(筑摩書房、1999年)に所収.

マイケル・フリード「芸術と客体性」川田都樹子・藤枝晃雄訳(1967年).浅田彰・岡崎乾二郎・松浦寿夫編『モダニズムのハードコア 現代美術批評の地平』(太田出版、1995 年)、66-99ページ.

ロラン・バルト「作者の死」(1968年)、「作品からテクストへ」(1971年).『物語の構造分析』花輪光訳(みすず書房、1997年)、79-89、91-105ページ.

ロザリンド・クラウス「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」石岡良治訳(1976年).『ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』(東京国立近代美術館、2009年)、184-205ページ.

ロザリンド・クラウス「展開された場における彫刻」(1979年).『オリジナリティと反復 ロザリンド・クラウス美術評論集』小西信之訳(リブロポート、1994年)、214-257ページ.ハル・フォスター編『反美学 ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(勁草書房、1987年)にも所収.

フレドリック・ジェイムソン「ポストモダニズムと消費社会」(1983年).ハル・フォスター編『反美学 ポストモダンの諸相』室井尚・吉岡洋訳(勁草書房、1987年)、199-230ページ.後の版は『カルチュラル・ターン』合庭惇・河野真太郎訳(作品社、2006年)に所収.

ホミ・K・バーバ「まじないになった記号 アンビヴァレンスと権威について――1817年5月、デリー郊外の木陰にて」(1985年).『文化の場所 ポストコロニアリズムの位相』本橋哲也・正木恒夫・外岡尚美・阪本留美訳(法政大学出版局、2005年)、175-210ページ.

アーサー・ダントー「芸術の終焉の後の芸術」高階秀爾訳(1995年).『中央公論』(1995年4月)、224-237ページ.

ボリス・グロイス「生政治時代の芸術」三本松倫代訳(2003年).『表象』5号(2011年4月)、114-124ページ.

クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」星野太訳(2004年).『表象』5号(2011年4月)、75-113ページ.

加治屋健司氏のブログより転載。氏が大学院講義で取り上げる予定のテキストのリスト。大変勉強になります。震え声で「美術理論は専門外なので…」と逃げ出したくなってくるが、恥ずかしいことにフロイトと、下四つの近年のテキストは読んでませんでした…。しかも『表象』5号は持っているはずなのに。勉強します。

ところで、この並びを見ていると、クラウス「ヴィデオ:ナルシシズムの美学」が持っている重要性って、たぶん造形や身体的パフォーマンスを主眼とする現代美術の文脈と、その外側にある映像の文脈(要するに社会的なビデオアートや実験映画の文脈)とでは、大きく異なるものなんだろうなと思う。

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