Ben Rivers – Two years at sea


ベン・リバース – 湖畔の二年間
Ben Rivers – Two years at sea
(88min, 16mm anamorphic , b/w, blown-up to 35mm, 2011)

ベン・リバースの長編『湖畔の二年間』は、二年間の水夫生活で稼いだ金をつぎ込んで、人里離れた僻地に家を購入して一人きりで暮らす風変わりな人物、ジェイクを被写体とした映画である。ナレーションもテロップもなく、ダイレクトシネマのように淡々とジェイクの日常を記録してゆくドキュメンタリー………少なくともベン・リバースの映画に通底する独特の方法論を知らされない観客は、そのように理解するだろう。しかし、本作は素朴な意味でのドキュメンタリーではない。作家によると、スクリーン上において展開されるジェイクの生活は、ありのままの事実ではなく、いくつかのシーンではフィクションとして、普段の生活では行わないような行為をジェイクに行ってもらったという(冷たい湖に自家製ボートを浮かべ、そのうえで横たわるシーンなど)。このようなシーンは、撮影クルーとジェイクのやり取りのなかで、即興的に決定されていったそうだ。もちろん、撮影に入る前に簡単なプロットは準備されていたが、それはほとんどメモに近いラフなものであった。しかし、だからといって本作は、一昔前によく制作されていたフェイクを組み込んだセルフ・ドキュメンタリーとも性質が異なる。

二名の撮影クルーは、一回あたり約二週間の期間で、住み込みでジェイクを手伝いながら集団生活を行い、その見返りに撮影を行わせてもらったという。そのようにして、この奇妙な映画は生み出された。この集団生活による撮影プロセスのなかで、ジェイクの日常生活は変容してゆく。その撮影の場には出来事の事実性に固定されない、不明瞭な状況が出現している。この状況のなかで、カメラは三人の人間(ジェイク&カメラマン&録音)を結びつけ、そこにひとつの親密な空間を形成する。その親密な空間では、事実と虚構の区分が不明瞭な状態で揺れ動いている。本作はドキュメンタリー映画ではなく、集団生活による現実変容のプロセス、その集団生活が行われた空間の記録だといっていいだろう。

余談であるが、眼前の世界を変容させるベン・リバースの方法論は、本作の前に制作された『Slow Action』においても、異なるかたちで試みられている。『Slow Action』は、世界各国のユニークな土地を被写体としながら、それをSF的虚構性を帯びた別世界に変容させた映画である。そのアイデアの源泉になったのは、「同属の種が異なる環境において違う進化を遂げる」という進化論の考え方であったという。『Slow Action』は、ゆっくりとした作用(Slow Action)によって遠い将来において異なる進化を遂げた四つの集団を、ドキュメンタリーとフィクションの狭間において文化人類学的に描き出している。(ちなみにこの現実変容の操作は、事後的に加えたサウンドとナレーションによって行われている。)

話を『湖畔の二年間』に戻そう。本作はその独特の映像表現によって、現実変容の度合いに拍車をかけている。本作は生産中止になったコダックのモノクロフィルムによって制作されているのだが、その現像作業は全て繊細な手捌きの自家現像によって行われている。それによって映画は、不安定に揺らめくグレーのテクスチャーをスクリーン上に出現させている。しかも上映にあたっては16mmを35mmにブローアップしているので、テクスチャーのなかで無数に蠢くフィルムの粒子が強調される。この自家現像によって生じた揺らめくテクスチャーは、撮影現場の濃霧や自然光と混濁させることを意図していたとしか思えないほどに、眼前の世界を抽象化するうえで、絶大な効果を発揮している。

このような映像表現を目の当たりにして思うのは、自家現像によるフィルム制作というのは、予期せぬ結果を呼び出すという意味において、一種の錬金術的な性格を帯びているということである。スチル・ムービーを問わず、自家現像をやったことのある人なら経験があるかと思うが、現像液の温度の違いやフィルムを溶液に浸す時間のズレが、かえって面白い効果を生み出すことが時としてある。そこにおいては、予期せぬ変容を経たイメージが生み出される。

この予期せぬ変容によって得られたテクスチャーは、ジェイクの自宅に差し込む陽光や、夜の暗闇、屋外の白い霧と混ざり合いながら、現実変容の振幅を格段に増大させる。それはラストシーンでの、暖炉のかすかな明かりによって照らし出されたジェイクの横顔に集約されるだろう。漆黒の粒子の中で幽霊のように揺らめくその横顔のイメージは、イメージが形成される寸前の境界線上で不安定によろめく。

この映画は、ドキュメンタリーのようでもあり、フィクションのようでもあり、文化人類学の記録映像のようでもあり、実験映画のようでもある。しかしスクリーン上に映し出される映画を、撮影の現場において不明瞭な状態で揺れ動く関係性の総体として捉えるのならば、上記のようなジャンル的区別などはそもそも不要となる。本作は、そのようなことを思い出させてくれる映画であった。

最後に一つだけ付け加えると、本作はサウンド面でもユニークなところがある。基本的にこの映画は同時録音によって撮影されており、殆どのシーンでは環境音だけが聴こえるのだが、時折、大音量で奇妙に場違いな民族音楽が割り込んでくるシーンがある。これはジェイクが水夫をやっていた時代にインドで買い求めたカセットテープの音楽なのだという。このように、事実でありながらフィクションのように見える部分が結構多いことも、本作の事実と虚構の区分を不明瞭化させることに役立っている。

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