仮象としての「風景」

昨年11月8日、京都の吉荒さんの企画によって同志社大学で開催された上映会「風景/仮象―ジェームス・ベニング特集」のための文章を再録する。ここで上映された『ナイトフォール』(2012)は、98分間にわたってフィックスショットが続くという極端な作品であり、今年のイメージフォーラムフェスで上映される『ステンプル・パス』(2013)にもコンセプト的に直接つながる作品である。

仮象としての「風景」
阪本裕文[映像研究]

 ジェームス・ベニングは1942年、ウィスコンシン州ミルウォーキー出身の実験映画作家であり、長時間の固定ショットによって風景を撮影した、いわゆる風景映画によって知られている。ただし、ここでベニングによって映し出される「風景」とは、日記映画によくあるような情緒的な眼差しが捉える詩的な風景などではなく、社会的な空間としての「風景」であることに注意したい。このような表象化された社会的な「風景」とは、その場所にまつわる政治的・歴史的・文化的な、さまざまな要素の重層的な関係の総体として成立しており、ベニングの視点とは、その場所に潜在している関係性を分析し、明らかにするものであるといえる。まず、ベニングのフィルモグラフィーから、彼がどのような変遷において「風景」を捉えてきたのかを考察したい。

 1972年よりインディペンデントな実験映画の制作を開始したベニングは、そのキャリアの初期から固定ショットによって風景を捉えた『8 1/2×11』(1974)などのフィルムを制作している。この数字だけのタイトルにも表れているように、ベニングにおける固定ショットを構成する数学的な厳格さは、当時の構造映画からの影響を感じさせるものである。実際にベニングは『グランド・オペラ』(1978)において、構造映画の代表的な作家であったマイケル・スノウ、ホリス・フランプトン、ジョージ・ランドウ(オーウェン・ランド)の三名、そしてイヴォンヌ・レイナーへのオマージュを含むフィルムも制作している。

 やがて、彼が社会的な仮象としての「風景」への関心を移行してゆくのは、『アメリカン・ドリーム』(1984)や、『ランドスケープ・スーサイド』(1986)の時期からだといえる。ここでは、まず『アメリカン・ドリーム』について言及する。このフィルムは正確には風景映画ではないが、それでもスクリーンの中にある種の「風景」を映し出している。このフィルムにおいて映し出されるのは、証拠写真のような無機的なカメラによって撮影された膨大な数量の野球選手ハンク・アーロンのカードと、字幕でスクロールし続ける、犯罪者アーサー・ブレマーの手記である。ブレマーは、1972年にアラバマ州知事ジョージ・ウォレスに対する暗殺未遂で逮捕された人物である*1。サウンドトラックは60年代のラジオコラージュや大統領の演説であり、政治的なスピーチとプレスリー、シナトラの歌声が響きわたる。これらの文化の断片が紡ぎ出すものは、仮象化されたアメリカの文化的風景に他ならない。

 この作品に続いてベニングは『ランドスケープ・スーサイド』のなかで、バーナード・プロッティとエドワード・ゲインという、あまりにセンセーショナルな二人の殺人犯に焦点を合わせる。このフィルムは、二人の殺人犯への獄中インタビュー(実際のところ、これは殺人犯を演じる役者へのインタビューであるが、作中において本物と偽物の境界は曖昧な状態におかれている)と、彼ら殺人犯を取り囲んでいた、カリフォルニア州オリンダ、そしてウィスコンシン州プレインフィールドの風景の映像などによって構成されている。もちろんここで「風景」は、ただの田舎町の景観などではなく、凶悪事件の揺籃となった社会的空間の仮象として、分析的に凝視される対象となっている。こうしてある種の奇妙なドキュメンタリーともいえる「風景映画」に到達したベニングは、同様の手法でローリー“バンビ”ベンベネックに焦点を合わせた『ユーズド・イノセンス』(1989)も同じ時期に発表している。この時期のベニングの試みは、日本国内の作品であれば、足立正生や松田政男による『略称・連続射殺魔』(1969)との比較において捉えることも可能であろう。

 やがて、ベニングはセンセーショナルな事件に焦点を当てて、仮象としての「風景」を捉えるだけでなく、ありふれた「風景」のなかに潜んでいるさまざまな要素の重層的な関係を、観客自身に、長時間の映画的な経験のなかで注視させる傾向を強めてゆく。例えば、『セントラルヴァレー』(1999)、『ロス』(2000)、『ソゴビ』(2002)からなる三部作『カリフォルニア・トリロジー』は、郊外(セントラルヴァレー)/都市(ロサンゼルス)/自然(ソゴビ)の様々な「風景」を、撮影ポイントごとにワンショットで捉え、それを厳格なルール(同一の長さ、同一のショット数)のもとで繋げて、構成した作品である。このフィルムのなかで映し出される単調な「風景」のイメージは、一見すると何でもないものだが、実時間とイコールとなった上映時間のなかで——すなわち一定の長さに積み重ねられた映画的経験のなかで注視されることによって、潜在するさまざまな要素と関係を露にし始める。それぞれの観客は、映画のなかで立ち上がるイメージを余すところなく拾い上げようとして、スクリーンを凝視し、微細な音を聴き取ろうとして耳を澄ます。ここで観客は積み重ねられた映画的経験のなかで、各人が異なるものに知覚の注視を向けることになるだろう。

 このようにして、2000年代のベニングは観客の知覚を引き出すような、極めて特異な風景映画を生みだしてゆく。そのなかでも、ロバート・スミッソンのアースワークである「スパイラル・ジェティ」を1970年から2007年という極めて長大なスパンで撮影した『キャスティング・ア・グランス』(2007)や、リュミエール兄弟へのオマージュも含むものであっただろう、貨物列車の運行を被写体とした最後のフィルム作品である『RR』(2007)などが代表的である。

 ここで、ようやくこの小論は本日の上映作品である『ルール』(2009)と『ナイトフォール』(2012)について言及する準備を整えた。まず、この二作品は、これまでの作品のような16mmフィルムではなく、HDビデオによって撮影された作品である。この変化は作家本人のコメントによると、創作上のコンセプトの転換などではなく、フィルムを取り巻く制作環境の後退によってフィルムによる映画制作が困難になってきたことが主たる要因であったことが述べられている。このような制作条件の変化は、好むと好まざるとにかかわらず、必然的に作品に影響を及ぼすことになる。

 まずは、『ルール』について述べる。この作品の撮影場所はアメリカではなく、ドイツの工業地帯であるルール地方となっている。まず前半部は、以下の6つのショットによって構成される。

・ショット1:トンネル内の道路/道路を往来する車、歩行者、自転車
・ショット2:工場/コンベアーのうえを流れていく鉄材
・ショット3:空港近くの森林のなかから見上げられた空/数分おきに上空を通過する旅客機、揺れる木々
・ショット4:モスク内での礼拝/信徒たちの礼拝の様子
・ショット5:野外彫刻/彫刻に描かれたグラフィティを消す作業員の様子
・ショット6:町の路地/犬を散歩させる住人、乗用車の車庫入れ、遠くを通過する車

 ここまでは従来の撮影のスタイルと大きな違いはない。固定ショットの持続時間は、ビデオの使用によって今までよりも長くなっているが、基本的なコンセプトは同義である。すなわち数秒程度の注視では見えてこないような、場所が持っているさまざまな要素の重層的な関係を、長時間の持続のなかで知覚させるということである。ある程度の長さ—時間的な深度を取ることによって見えてくる場所の性質。あらゆる場所は実にさまざまな要素の絡み合いによって成り立っているのであり、長時間の持続によって、それらの関係性は、初めて認めることが可能となる。前半部のショットのなかでも、特に印象的なのがショット3における、飛行機が通過した後に、遅れてやってくる風が揺らす木々のざわめき。そして、ショット4における低い位置に設置されたカメラのフレームが、立ち上がった信徒の背中によってすっぽり覆われてしまう箇所だろう。これらは、いずれもある程度の長さの映画的経験によってはじめて知ることが出来る、その場所に固有の現象であったといえるだろう。

 そして、この作品の後半部のショットにおいてベニングは、長時間の連続撮影を可能とするビデオの長所を最大限活用して、巨大な煙突を一時間にわたって固定ショットで撮影するという試みを行うに至る。

・ショット7:石炭工場の巨大な煙突/定期的に吹き出す煙、そして日没

 前半部は6つのショットが、数分間の持続によって切り替わっていたが、この後半部のショットは、定期的に煙突から大きな煙が吹き出すという出来事が、数十分にわたって繰り返されるだけである。最初は驚くかもしれないが、吹き上がる煙に慣れてしまえば、単調な時間が持続してゆくだけに見える。やがて、極端な長回しショットの中で、日が暮れて、あたり一面が暗くなってゆくという変化がおこる——ここでベニングは前半部よりもさらに長い時間的スケールによって、ルール地方全体をひとつの大きな社会的空間として、まとめて仮象化しようとしている。人によっては、この象徴的なショットの中で、石炭を産出する工業地帯でもあったルール地方における戦争と歴史を思い起こすかもしれない。

 次に、新作である『ナイトフォール』について述べる。これはアメリカ合衆国カリフォルニア州東部にあるシエラネバダ山脈において撮影された作品であり、夕暮れにおけるリアルタイムな光の変化が主題であるとされている。しかし、この映画における長時間の経験が観客にもたらすものは、何とも言いようのない不安感ではないだろうか。作家本人にインタビューした訳ではないので伝聞になるが、この映画には、もうひとつの主題として、ある影が寄り添っている*2。ベニングは数年前に、自分が所有する土地に小さなキャビンを建設したという。最初のそれは、野外で自給自足の生活を送った作家であるヘンリー・デイヴィッド・ソローを思わせるものであったらしいが、ベニングはそこからユナボマー事件の犯人であるセオドア・カジンスキーについて思いを巡らせ、もうひとつの小屋を建設したという。この映像はそれらのキャビン近くの山中で撮影された、昼間から夕闇に至るまでの98分間の光の変化の記録である。この孤独な視線によって捉えられた「風景」は、明らかに、文明社会に背を向けて山中に暮らした孤独な生活者を取り囲んでいた「風景」の仮象となっている。この仮象化された孤独な「風景」はスクリーンに映し出され、映画的経験のなかで注視されることによって、より一層その孤独と、言いようのない不安感を強めさせる。どれほど注視しても、観客は視覚的には時間が静止したかのような空虚な経験しか拾い上げることが出来ないのである。せいぜい明確な変化として観客が知覚することが出来るのは、昼間から夕闇への変化と、異様に不気味な夜の森がざわめく音くらいである。ベニングは今後も、カジンスキーを主題としたプロジェクトを進めてゆくらしい。ベニングは孤独の中で、再び『アメリカン・ドリーム』のような暗い陰を纏った、仮象化された「風景」を凝視することに回帰しつつあるのかもしれない。

*1:余談であるが、このブレマーをモデルにした映画が、ポール・シュレイダーの脚本による『タクシー・ドライバー』(1976)であった。
*2:http://artforum.com/words/id=30645 を参照のこと。

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