Tony Conrad And Charlemagne Palestine ‎– More Aural Symbiotic Mysteries From Belgie

Tony Conrad and Charlemagne Palestine - More Aural Symbiotic Mysteries From BELGIE
(Taping Policies , DVD)

本作は、Taping Policiesからリリースされたシャルルマーニュ・パレシュタインとトニー・コンラッドのコンサートを記録したDVDである(2011年10月、ベルギーにおいて収録)。タイトルは「More Aural Symbiotic Mysteries From Belgie」と題されているが、これは2006年にリリースされた、この二人の共演盤である「An Aural Symbiotic Mystery」から取られたものであろう。

ピアノに向かい合うパレシュタインと、ヴァイオリンを手にして佇むトニコン。パレシュタインの傍らに置かれたシンセが持続音を発生させるなか、トニコンはヴァイオリンをセッティングし、ゆっくりと演奏を開始する。軋むようなヴァイオリンの音色が、シンセの音色と混じり合う。その様子を眺めながら、パレシュタインはグラスに入った酒を口に運び、グラスの口を指でなぞって音を発生させる。やがてパレシュタインがピアノの鍵盤をミニマルに連打し始めることで演奏は本格化し、幾つものドローンのレイヤーが溶け合いながら浮き沈みを繰り返すようになる。

やがて、中盤において演奏は変化を見せる。トニコンはテーブルに置かれた自作楽器(棒に弦を張ったもの)を演奏し始め、パレシュタインは鍵盤の連打を控えながら言語以前のヴォイスを発し始める。トニコンが点描的な演奏(弦を軽く叩くことによる)に転じたことで、シンセのドローンだけが演奏の基底となり、ここで全体の構成としては緩急がつくような形となる。しばらくしてトニコンは再びヴァイオリンを手にして立ち上がり、弦の引っかかりによる断続的なノイズ音を発し始める。それに呼応するようにして、パレシュタインもやや強めに鍵盤を連打してモアレ状のドローンを演奏する。やがてトニコンは軋むようなヴァイオリンの演奏に回帰し、シンセによるドローンのなかで浮き沈みを繰り返す。これに対して、パレシュタインはピアノとヴォイスを交互に使い分けながら終盤の演奏に表情を付け、この演奏を締めくくる。

全体を通して振り返るならば、40分ほどの演奏を、巧妙に見せ場を作りながら構成してみせる二人の手腕は見事であると思えるが、少し予定調和な気がしないでもない。しかし、このようなドローンによる音楽の中心となっているものは、音色に陶酔(あるいは麻痺)するなかで、不意打ちのように現れるミクロな瞬間における持続的なレイヤーの浮沈を、拡大された聴覚上の経験として再発見することにあると言える訳で、全体の構成を取り上げてどうこう言うのも野暮な話であろう。

Performances by CCMC (Michael Snow, John Oswald and Al Mattes) and Wolf Eyes

デトロイトでマイケル・スノウが参加している即興演奏グループCCMCのライブがあるというので検索してみた。どうやら、カナダのウィンザーで開催されている、実験映画に特化したフェスティバルである、メディアシティ映画祭のオープニングイベントとして、河を挟んで向かいにあるデトロイト美術館において開催されるらしい。共演はWolf Eyesとのことで……多分ぐちゃぐちゃの集団即興になるんだろうなと予想。しかも、今回の催しに合わせて、CCMC『Volume Three』のレコードもリイシューされるとのことです。メディアシティ映画祭の上映プログラムはこちら(表紙はベン・リバース作品)。

気になってきたので、ついでに最近のCCMCのライブ映像などを探してみるが、あまりグッと来るものはなかった…。しかし、最近のスノウの演奏ということであれば、シンセとピアノを併用する下記のライブ映像などは面白かった。スノウも結構な高齢のはずだが、若いな…。

Makino Takashi Film Festival 2013

Makino Takashi Film Festival 2013

4月13日(土曜日)
プログラム1 17時00分開場 17時30分上映開始
[光の絵巻] 牧野貴+石田尚志 2011年 16分 音楽:石田尚志、牧野貴
[2012](3D上映) 2013年 30分 音楽:牧野貴
[Humming Fields]  2013 4分 音楽:Colleen
トークショー ゲスト:石田尚志

プログラム2 19時30分開場 20時上映開始
[Humming Fields]  2013 4分 音楽:Colleen
[Generator] 2011年 19分 音楽:ジム・オルーク
[2012](3D上映) + ライブ演奏:牧野貴

4月14日(日曜日)
プログラム1 17時00分開場 17時30分上映開始
[still in cosmos] 2009年 17分 音楽:ジム・オルーク
[2012](3D上映) 2013年 30分 音楽:牧野貴 
[Humming Fields]  2013 4分 音楽:Colleen
トークショー ゲスト:ジュリアン・ロス(映像研究)&土居伸彰(アニメーション研究・評論)

プログラム2 19時30分開場 20時上映開始
[Humming Fields]  2013 4分 音楽:Colleen
[Generator] 2011年 19分 音楽:ジム・オルーク
新作パフォーマンス [Space Noise] 映像・音楽 牧野貴 40分

※各プログラム料金1500円+1ドリンクオーダー
UPLINK FACTORY(1F)
http://www.uplink.co.jp/event/2013/8457

本質的に映画を音楽として捉えることは、クラブでVJが映し出すような即応的なミキシングや、電子的映像の変化をパフォーマティブに上演することとは、異なる次元にあるんじゃないかと思う。VJや電子的映像を使用したリアルタイムのパフォーマンスを指して、「映画と音楽の越境」などと表現してしまう言葉に対しては、どうも表面的だという印象を持ってしまう。それは映画・映像を音楽として捉えることとは全く無縁のものだ。

眼で音楽を聴くこと、耳で映画を観ることは、どのようにして実現できるのか。そのような映画と音楽の関係は、その場にて生成される音楽によって、本来固定されたものである映画を、観客の意識のなかで可塑的なものとして変容させてしてしまうことによって可能なのではないかと思う。14日のパフォーマンスは、そのような映画と音楽の関係を問い直す試みになるのではないかと期待している。

追記:
上記のように言ってしまうと「じゃあ、リアルタイムにフィルムを溶かすような、拡張映画的なフィルムパフォーマンスも、音楽として捉えることは出来ないものなのか?」という問いが思い浮かぶ人もいるだろうけど、拡張映画的なフィルムパフォーマンスについては、また別の考え方を持っています。それについては、いずれ別のエントリーで。

追記2:

Makino Takashi Film Festival 2013 [RETURNS]
http://www.uplink.co.jp/event/2013/10777

5月17日(金)
プログラム1(17:45開場/18:00上映開始)
プログラム2(19:15開場/19:30上映開始)
プログラム3(20:45開場/21:00開演)

3回通し券¥2,000(+1ドリンク別)*ご予約時に備考欄へ「3回通し券」と明記して下さい。
1回券¥1,000(+1ドリンク)*1回券は鑑賞を希望されるプログラムを予約時にご指定下さい。

早くもアップリンクにて、拡大版でアンコール上映されるとのことです。

イメージフォーラムフェスティバル2013 Pプロ:ステンプル・パス

james-benning_stemple-pass
・ステンプル・パス – ジェームス・ベニング
Stemple Pass – James Benning
(アメリカ, HD, 123min, 2012)

本作は長時間の固定ショットによって風景を撮影した実験映画によって知られている、ジェームス・ベニングの新作である。今回、ベニングはユナボマー事件の犯人であるセオドア・カジンスキーを主題としている。(加えて本作は、自然のなかで自給自足の生活を送った二人の人物、19世紀の作家ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、そして前述のカジンスキーをモチーフとして、彼らが暮らしたキャビンのレプリカをシエラネバダ山脈の森のなかに建設する、「Two Cabins」にも関連した作品となっている。)

ベニングの映画における風景とは日記映画な詩的風景などではなく、社会的な要素(地理的なもの、歴史的なもの、政治的なもの、事件など)が重層的に絡み合った社会の仮象であり、観客はスクリーンに映し出された対象の風景を観ることを通じて、その風景のなかにある「社会」を分析することになる。映画は四つのパートに分けられており、各パート30分の長さで、シエラネバダ山脈の森林風景とカジンスキーの小屋のレプリカをフレームに収めて、カメラ位置固定のワンショットで撮影している。ベニングは『ルール』(2009)以降、16mmフィルムからHDビデオ撮影による制作環境に移行している。各パートの内部では、おおよそ前半15分にわたって、カジンスキーの手記や犯行声明などのテクストがベニングのナレーションによって読み上げられる。そして後半15分が風景を経験するための時間に充てられており、殆ど変化のない風景の映像がひたすら映し出される。ナレーションと社会の仮象をスクリーンのなかで併置する手法は、ベニングの傑作『アメリカン・ドリーム』(1984)を思い起こさせる。

以下、各パートの特徴と、テクストのなかで気になったポイントについて述べる。全てのパートが全く同じ場所から固定ショットで撮影されている(季節の変化によって風景はその表情を大きく変える)。カラー。サウンドは同時録音による自然環境音+ナレーション。

シーン1:春
・小雨がパラつく森林風景。雨粒と遠くの山脈にかかる霧以外、動くものは何一つない。
・カジンスキーの初期の日記が読み上げられる。
・このテクストのなかでは、自然が与えてくれる豊穣な経験に感動しながら、カジンスキーが自給自足の生活を始めた日々のことが綴られている。コヨーテの美しさ、狩りをして動物を解体し料理したこと、小川をたどって歩きながら新たな発見に胸を躍らせたこと、流星に感動したことなど。

シーン2:秋
・葉っぱの色が少し変わった森林風景。キャビンの煙突から時折のぼる白い煙以外、動くものは何一つない。
・カジンスキーが隠していた、77〜79年に書かれた紙の束が読み上げられる。
・このテクストはカジンスキーが行ってきた、自然に介入してくる産業や人間に対する犯罪の記録である。カジンスキーはこのなかで、近隣のトレーラーハウスや採鉱場を荒すことから始まって、次第に犯罪をエスカレートさせて行き、最終的に爆弾テロを行うに至ったことを告白している(彼の最初の犯行は1978年である)。カジンスキーは、この犯罪のエスカレートを自己の心理的抑制を解消するためのプロセスとして捉えている。

シーン3:冬
・雪に包まれた森林風景。やはり動くものは何一つない。
・カジンスキーが暗号化したノートを、解読したものが読み上げられる。
・このテクストのなかで、カジンスキーは試行錯誤を重ねながら爆弾テロを継続したことを告白している。カジンスキーは自らの行動を技術社会と、それを推進する人間(科学者・ビジネスマン・政治家といった人々)への復讐であると捉えている。やがてカジンスキーは、1985年に自分の犯行によって初めての死者が出たことを知る。

シーン4:夏
・夕陽に照らされる森林風景。動くものは何一つないが、風景は徐々に夕闇に沈んでゆく。
・1995年の声明(新聞に掲載された「産業社会とその未来」)と、2001年のインタビューが読み上げられる。
・このテクストの前半は、カジンスキーの思考をまとめたものとなっている。そのなかでカジンスキーは、個人にとっての自由とは、自分の生死を自分で掌握できることだと述べる。それに対して科学は人間をコントロールし、個人を社会に適応させるものであると批判する。
・テクストの後半では、ウサギ狩りに行った時の経験を追想しながら、自然のなかに暮らすことの喜びについて語る。都市環境の無機質さは人を内向的にするが、自然は人の意識を外に向かわせることについて。森に暮らして自然の一部となることについて。そして、自然のなかで五感の広がりを経験することの素晴らしさについて。

ベニングは、カジンスキーが自らを包み込む風景(=自然環境)をどのように捉えていたのかについて、そのテクストを自分の声を通して読み上げる。それによって観客は、スクリーンに映されている森林風景がカジンスキーが見ていた光景の仮象となっていることを了解し、そのうえで、風景のなかに潜んでいる社会的背景を分析することになる。もちろんベニングは、カジンスキーの思考の反社会的な部分に賛同している訳ではない。しかし、ナレーションに誘われるようにして風景に注視し、環境音に聴き入って、自然の豊穣な経験に知覚を浸していると、奇妙な感覚が意識のなかに生じてくる。五感の広がりのなかで知覚される風景の豊穣さを、反社会的な事件にまつわる、ある種の危うさと一緒に観客に経験させること。それこそが、本作におけるベニングの意図だったのかもしれない。(その意味では、同じ森林を撮影した前作『ナイトフォール』(2012)の98分間に及ぶ主観的視点は、コンセプトが異なるとはいえカジンスキーの視線と同化するものであったともいえる訳で、本作よりも危険性が高いように思える。)

本作は、社会的事件の犯人を取り巻いていたものに接近した、『アメリカン・ドリーム』に並ぶ傑作であるといえる。その危うさにおいて。

イメージフォーラムフェスティバル2013 Oプロ:リヴァイアサン

Leviathan (trailer) from Cinema Guild on Vimeo.

・リヴァイアサン – ルシアン・キャステイン=テイラー+ヴェレーナ・パラヴェル
Leviathan – Lucien Castaing-Taylor and Verena Paravel
(アメリカ/フランス/イギリス, HD, 87min, 2012)

二人の監督、ルシアン・キャステイン=テイラーとヴェレーナ・パラヴェルは文化人類学系の大学研究機関に所属している人物であるということで、彼らを文化人類学者・映画作家であったジャン・ルーシュの系譜のうえに配置することは容易であろう。現在も文化人類学の領域では研究対象となる集団を映像によって記録することが一つの方法論として定着しているようで、映像人類学なる領域もある。そのような映像は研究上の記録としてではなく、独立した作品として発表されることも多いようだ。

しかしながら本作は、いわゆる既存の映像人類学的なドキュメンタリーの範疇に留まるものでない。これは、ある種の実験映画的側面と文化人類学的側面を併せ持った、ひとつの興味深い「映画」となっている。それは撮影の現場におけるカメラと被写体の関係と、そのフッテージを作品として構成する際の明確な意図によるものである。映画の舞台となるのはマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード沖の商業漁業船であるが、舞台設定は重要ではない。本作で主題化されている被写体は、過酷な海上の自然と、そこにおける人間の労働そのものである。画面はローキーに寄っているので、作品全編を通して暗闇が強調されている。その暗闇のなかから浮かび上がってくる荒々しい波と巨大な船影は、そこで作業する人間の視点によって捉えられたものではない。水揚げされた瀕死の魚の視点、海上を飛ぶ海鳥の視点、海に浮かぶ巨大な鉄の塊を見上げる海上からの視点、無機的な運動をする船上のクレーンからの視点など、殆どの場面において、それは極めてミクロな視点から撮影されている。このラジカルなアプローチは、言葉通りの意味において実験映画的なものであるといえよう。このアプローチによって商業漁業船の営みが、巨大な海の怪物“リヴァイアサン”の生態観察のように捉え直される。人間社会の営みを自然の側から観察したとすれば、それはこのような暴力的なものに他ならないだろう。

このユニークな映像は、人から教えてもらった話によると、どうやら大量の「GoPro」で撮影されたものらしい。「GoPro」とは、防水・防塵の小型カメラであり、プレイヤー視点でのスポーツ撮影や、通常の撮影クルーでは撮影できないような過酷な自然環境下で使用されている。その高性能化は凄まじいことになっており、小箱程度のサイズでありながら、[1920×1080 60P/48P/30P/24P]というハイビジョンの基本スペックは勿論のこと、2.7Kから4Kまでの画面サイズをフォローしている。この小型カメラをヘルメットやクレーン、あるいはチェーンやロープに取り付けることで、極めてミクロな視点より、異常なまでの高解像度で空間全体を捉えた撮影が可能となる。また、このカメラは水中に浸けることも可能なので、水槽のなかに半分水没させることや、海中に投げ込んで船を撮影することも可能。それによって平衡感覚が狂うような、異様な空間的拡がりを持った映像が表現されている。カラー。サウンドは基本的に同時録音であり、BGMやナレーションは一切なし。

以下、具体的な内容について気になったところを箇条書きでメモしたもの。作中の順番ではありません。

・真っ暗闇の海上での漁業。網上げ機による作業の様子が撮影される。基本的にワンショット長回し。
・一服する乗組員。水揚げされた生物の視点から見た作業の様子。
・港での荷下ろし。荷に取り付けられたカメラ。
・餌を求めて生け簀に這い上がろうとするカモメや、床に転がった魚の頭部が、床に無造作に置かれたカメラによって撮影される。
・船内から海上への排水を、船外壁面に取り付けられたカメラから撮影。
・生々しい解体加工の様子と、乗組員の刺青。
・シャワーを浴びる乗組員。休憩室で眠りこける乗組員。
・ラストの長回しによって撮影された飛行する水鳥の群。クレーンかポールに取り付けたカメラによって撮影されている。天地が逆であり、それによって奇妙な浮遊感のある映像になっている。波間から浮かび上がって水鳥の群に接近したのち、再び海中へ水没。

イメージフォーラムフェスティバル2013 Sプロ:セントラル・リージョン

CENTRALREGION
・セントラル・リージョン – マイケル・スノウ
Central Region – Michael Snow
(カナダ, 16mm, 180min, 1971)

現代美術家、実験映画作家、CCMCの一員でもあるフリー・インプロヴィゼーションのピアニスト、サウンドアーティストとして知られるマイケル・スノウ。彼の長編『セントラル・リージョン』は、構造映画の代表作としてよく知られているが、その長さのためか、あるいはプリントを持っている所が限られるためか、国内で公開される機会は多くなかった。しかし、昨年秋に国立国際美術館で行われたマイケル・スノウ特集上映に続いて、今回、東京でも『セントラル・リージョン』が上映されることになった。構造映画とは60年代後半から出現した作品を指す用語であり、用語としてはP・アダムス・シトニーの『フィルム・カルチャー』1969年夏号に掲載された文章のなかで論じられている。そこでは特徴として「カメラ位置の固定」「フリッカー」「ループ」「再撮影」などが挙げられているが、これら特徴の有無にこだわるよりも、構造映画とは、映画を成立させている構造に関わるコンセプトを持った作品のことであると理解したほうがいいだろう(例えば本作は上記のどの特徴も備えていない)。

本作『セントラル・リージョン』は、機械制御の撮影台をケベックの荒野に設置し、この撮影台に16mmカメラを取り付け、周囲の空間を被写体として全方位的に撮影した作品である。機械制御の撮影台は複数の回転軸によって構成された機構を持っている。この装置によって、カメラはあらかじめ設定されたパラメータに沿って複雑な回転運動のなかにおかれる。こうして撮影された映像は、まるで静止状態にある観客に対して、世界の側が回転によって崩壊するような経験をもたらすものとなる。(なお、スノウは同じ装置を使用したビデオ・インスタレーションも発表している。)

考えてみれば多くの映画におけるカメラと被写体の関係は、極めて制限された条件の下で成立している。それに対して本作は、従来からあるカメラと被写体の関係性を解体し、拡張された空間性のなかで構造化することを試みる。これはスノウの他の作品にも通底するコンセプトだといえる。例えばスノウは、『波長』(1967)においては、長時間のズームインによる空間の収縮(および跳躍)を試みている。また『←→ (Back and Forth) 』(1969)においては、カメラの横方向の往復運動によって、観客の意識内でパノラマ的にスクリーンを認識させる試みを行っている。そのようなコンセプトの延長線上に本作は位置づけられるだろう。また、スノウの作品は一つのコンセプトがかなり長い時間のなかで展開される場合がある(特に本作は、かなりの長編である)。これは、観客が映画の構造を経験のなかで理解し、それに順応するために要する時間であるといえるだろう。カラー。サウンドトラックとして、X軸中心の回転とZ軸中心の回転に合わせて、二種類の電子音が鳴らされる。

以下、具体的な内容について箇条書きで説明する。

・映画は、カメラの様々な運動のバリエーションを、幾つかのパートで分割しながら展開してゆく(それぞれのリールの頭には、交差した斜線のリーダーが入る)。それに加えて、昼〜夜〜昼といったかたちで一日の時間的な変化も作中に現れる。

・最初のパートで、カメラは足下の地面を捉えた位置からスタートする。やがてカメラはゆっくりと水平方向の回転を始める(Y軸中心の回転)。やがてカメラに、徐々に垂直方向の回転が加えられる(X軸中心の回転)。そしてカメラが真横に向いてフレーム内に地平線が映し出される辺りで、ようやく観客はカメラが設置された空間の状況を把握する。そのままカメラは上を向き、青空を捉える。

・次のパートでは、当初、カメラは水平方向の回転を持続させながら、天地が逆になった状態で青空を捉えている。そしてすぐにカメラには、垂直方向の運動が加えられる。それによって、フレームの上部から地面がフレームインしてくる。そのままカメラは垂直方向の回転を続けてゆき、正しい天地の位置に地平線が来るところで停止する(水平方向の回転は継続している)。そして、カメラを支えている軸そのものが別の回転を始める(Z軸中心の回転)。それによって地平線がフレーム中央を中心点として回転する。これ以降、各パートのなかで、これらの回転軸の組み合わせによる、様々な運動のバリエーションが展開される。

・後半のパートになると、日が暮れて周囲の空間は暗くなってゆく。しかし、カメラは暗闇に対しても延々と回転運動を継続する。やがて白い光点のような月が真っ黒なフレームのなかに現れ、周期的な運動を開始する。

・再び朝になり、相変わらず運動のバリエーションが展開されてゆくのだが、今度はそこにズームとフォーカスの変化が追加される。この変化によって、周囲の空間はピントのずれた抽象的な色彩の運動に還元されてゆく(特に最後の激しい運動のパートにおいて)。

ちなみに本作は、このブログ名の引用元のひとつである。

イメージフォーラムフェスティバル2013 Lプロ:ストム・ソゴー 甘美から発作へ

深夜、スカイプでアメリカ在住の映像作家である西川智也氏と別件で打ち合わせをした際に、「先日、ストム・ソゴーの作品をイメフォで観ましたよ」と話を振ってみた。すると私が疑問に思っていたことを氷解させることを西川氏は話してくれた。その話は、ストム・ソゴー個人をめぐる話というよりも、より普遍的な問題として、母国を離れて海外で長く暮らし、その土地で作家として評価を受けた人物が直面する困難についての話として、深く考えさせられるものだった。前もって言っておくと、私はストム・ソゴーのことは知らなかった(自分も少し協力した「キネマ・ニッポン」のプログラムに名前があったことは知っている)。そんな私だが、ここに書いても失礼にならない範囲で話を進める。

10代の頃に渡米し、やがてアンソロジー・フィルム・アーカイブスで映写技師として働きながら映像作家としての活動を始めたストム・ソゴーは、若くして東海岸では知られた存在となる。その後、西海岸に移ってSan Francisco Art Instituteにて修士号を取得するが、2004年に日本に帰国する。それから何があったのかは知る由もないが、私の思う所では、海外で作家としての評価を受けた人物が、自分のことを知らない母国に戻った際に直面するような困難があったのではないかと思う。アメリカにいた頃のストム・ソゴーは、ニューヨーク近代美術館での上映会『Big As Life: An American History of 8mm Films』や、2002年のホイットニービエンナーレNew York Underground Film Festivalに作品を出品するなどしていた。

何名かの知人の話を符合させてみて理解したことだが、10年くらい前の日本の実験映画は、海外からすると全体像が見えにくい状況にあったらしい。もちろん海外作品を国内に紹介することは行われていたし、作家個人レベルでは海外の映画祭への出品や、海外の映像作家との交流もあった。しかし、少なくとも海外在住者の視点からみれば、日本の実験映画の全体像は見えにくいものであったらしい。国内に目を移せば、90年代頃から国内の商業劇映画や現代美術シーンにおいては、実験映画やビデオアートは軽視され、既に日本における実験映画の居場所などは失われた状態にあったといえる。そんな状況のなかで、実験映画やビデオアートに関わってきたイメージフォーラムなどの組織や個人の作家は、内向きに、自分たちの孤塁を守っていくので手一杯だったというのが実情だったといえよう。しかし、このようなシーンの狭さや母数の少なさといったものが、海外からみれば閉鎖性の表れとして見えてしまうことも否定できないだろう。

そのような状況下において、今までずっと母国を離れて異国の地で活動してきた映像作家が帰国したとすれば、どうなるだろうか。ちょっとしたタイミングの違いや出会いの有無によっては、本人が望まなかったような孤独な状況を招いてしまうことになりかねない。アメリカにあったような実験映画のコンテクストが、この国には存在しないのだから。これはストム・ソゴー個人をめぐる話にとどまらない。大阪に戻ってからのストム・ソゴーの状況については詳しく聞く気になれなかった。それ以降、彼は国内の組織や映画祭からは距離を置いて、孤立した状態で海外の映画祭に出品を続けたようだ。そして2012年に若くして急死した。

今回の上映は、遺された膨大な作品を大阪まで引き取りにいったアンソロジー・フィルム・アーカイブスのアンドリュー・ランバートの献身と、イメージフォーラムの理解によって実現したということらしい。素直に良かったと思う。しかし、本来ならばそれは、生前に与えられるべきものであった。

・声に導かれて – ストム・ソゴー
Guided by Voices – Stom Sogo
(日本/アメリカ, 8mm, video, 10min, 2000)
豊穣な色の花火のような光彩が、イメージの断片を内包しつつ激しく発光する。この映像は何重にも繰り返される再撮影(恐らくビデオによるフィードバック)によって、判別不能なほどに解体された現実のイメージと、激しいフリッカーを混ぜ合わせることによって得られている。おぼろげに判別できるイメージは、ボートを漕ぐ人々や、白鳥、動物、女性など。イメージの輪郭を解体し、まとめて光彩の渦のなかに投げ込むような作品である。カラー/サウンドはコラージュノイズ。(ストム・ソゴー作品のサウンドについてまとめて述べておくと、この日上映されたプログラムのうち『シンクアップ・エレメント』以外の作品は、既存の音源をカットアップしながらミキサー内部でフィードバックをかけてノイズ化したような、90年代を思わせるコラージュノイズばかりであった。聴いて分かる範囲の引用元でいうと、ロバート・ワイアットやボアダムズなどもミックスされていたように思う。)

言葉ではなかなか説明しづらいので、ネットにアップロードされている、同様の手法を使用した作品を見てもらった方が早いだろう。Vimeoでは、この日のプログラムには含まれていない『Ya Private Sky』(2001)を観ることができる。

YA PRIVATE SKY (Stom Sogo, 2001) from AnthologyFilmArchives on Vimeo.

・ゆるやかな死 – ストム・ソゴー
Slow Death – Stom Sogo
(日本/アメリカ, 8mm, video, 15min, 2000)
雑踏のなかを歩いてゆく人々の姿を撮影し、スローモーションで8mmフィルムの荒いテクスチャーと一緒にスクリーンに映し出す。激しさよりも、息苦しいまでの重々しさを感じさせる作品。モノクロ/サウンドはリズミックなコラージュノイズ。

・シルバー・プレイ – ストム・ソゴー
Silver Play – Stom Sogo
(日本/アメリカ, Video, 16min, 2002)
この日のプログラムのなかでは異色の作品。日本のテレビ番組やCMを引用してループ等を駆使しながらユーモラスにコラージュし、そこに日本やメキシコで撮影された日常風景のフッテージなどを挿入してゆく。本作のコンセプトは複数の文化圏を相対化する試みであるといえるだろう。それはやはり作家のバックグラウンドの反映であったのかもしれない。カラー/サウンドはコラージュノイズ。

・ペリオディカル・エフェクト – ストム・ソゴー
Periodical Effect – Stom Sogo
(日本/アメリカ, 8mm, Video, 9min, 2001)
『声に導かれて』や『Ya Private Sky』に近い感触の、解体された現実のイメージと花火のような光彩を混ぜ合わせた作品。殆ど判別することが出来ないが、素材となっているイメージは、車窓から捉えられた風景やポルノのワンシーンであるようだ。この作家の個性といえる、世界に存在している美醜さまざまな側面を光彩のなかに投げ込む姿勢が、本作では強く打ち出されている。カラー/サウンドはコラージュノイズ。

・シンクアップ・エレメント – ストム・ソゴー
Sync-up Element
(日本/アメリカ, Video, 23min, 2007)
上記の四作品とは異なり、日本に帰国してから制作した作品であると思われる。素材となっているのは、ライブにおけるバンド演奏の記録映像であると思うが、殆ど原型を留めていないので、何のバンドなのかは全く判別不明。このバンド演奏の素材が、異なるフレームを持ったレイヤーとして重ね合わされ、二重のフリッカーとして激しく明滅する。そして、イメージの輪郭は解体され、豊穣な色の変化をみせる光彩のなかで映画はスクリーン上の光に還元される。カラー/サウンドはWilliam Basinskiのアンビエントな楽曲である『The Garden of Brokenness』。

作品のメディア表記については、日本と海外で表記に混乱が見られるので、ひとまず下記を参照した。
http://www.courtisane.be/nl/event/sweet-first-seizure-second-i