イメージフォーラムフェスティバル2013 Pプロ:ステンプル・パス

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・ステンプル・パス – ジェームス・ベニング
Stemple Pass – James Benning
(アメリカ, HD, 123min, 2012)

本作は長時間の固定ショットによって風景を撮影した実験映画によって知られている、ジェームス・ベニングの新作である。今回、ベニングはユナボマー事件の犯人であるセオドア・カジンスキーを主題としている。(加えて本作は、自然のなかで自給自足の生活を送った二人の人物、19世紀の作家ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、そして前述のカジンスキーをモチーフとして、彼らが暮らしたキャビンのレプリカをシエラネバダ山脈の森のなかに建設する、「Two Cabins」にも関連した作品となっている。)

ベニングの映画における風景とは日記映画な詩的風景などではなく、社会的な要素(地理的なもの、歴史的なもの、政治的なもの、事件など)が重層的に絡み合った社会の仮象であり、観客はスクリーンに映し出された対象の風景を観ることを通じて、その風景のなかにある「社会」を分析することになる。映画は四つのパートに分けられており、各パート30分の長さで、シエラネバダ山脈の森林風景とカジンスキーの小屋のレプリカをフレームに収めて、カメラ位置固定のワンショットで撮影している。ベニングは『ルール』(2009)以降、16mmフィルムからHDビデオ撮影による制作環境に移行している。各パートの内部では、おおよそ前半15分にわたって、カジンスキーの手記や犯行声明などのテクストがベニングのナレーションによって読み上げられる。そして後半15分が風景を経験するための時間に充てられており、殆ど変化のない風景の映像がひたすら映し出される。ナレーションと社会の仮象をスクリーンのなかで併置する手法は、ベニングの傑作『アメリカン・ドリーム』(1984)を思い起こさせる。

以下、各パートの特徴と、テクストのなかで気になったポイントについて述べる。全てのパートが全く同じ場所から固定ショットで撮影されている(季節の変化によって風景はその表情を大きく変える)。カラー。サウンドは同時録音による自然環境音+ナレーション。

シーン1:春
・小雨がパラつく森林風景。雨粒と遠くの山脈にかかる霧以外、動くものは何一つない。
・カジンスキーの初期の日記が読み上げられる。
・このテクストのなかでは、自然が与えてくれる豊穣な経験に感動しながら、カジンスキーが自給自足の生活を始めた日々のことが綴られている。コヨーテの美しさ、狩りをして動物を解体し料理したこと、小川をたどって歩きながら新たな発見に胸を躍らせたこと、流星に感動したことなど。

シーン2:秋
・葉っぱの色が少し変わった森林風景。キャビンの煙突から時折のぼる白い煙以外、動くものは何一つない。
・カジンスキーが隠していた、77〜79年に書かれた紙の束が読み上げられる。
・このテクストはカジンスキーが行ってきた、自然に介入してくる産業や人間に対する犯罪の記録である。カジンスキーはこのなかで、近隣のトレーラーハウスや採鉱場を荒すことから始まって、次第に犯罪をエスカレートさせて行き、最終的に爆弾テロを行うに至ったことを告白している(彼の最初の犯行は1978年である)。カジンスキーは、この犯罪のエスカレートを自己の心理的抑制を解消するためのプロセスとして捉えている。

シーン3:冬
・雪に包まれた森林風景。やはり動くものは何一つない。
・カジンスキーが暗号化したノートを、解読したものが読み上げられる。
・このテクストのなかで、カジンスキーは試行錯誤を重ねながら爆弾テロを継続したことを告白している。カジンスキーは自らの行動を技術社会と、それを推進する人間(科学者・ビジネスマン・政治家といった人々)への復讐であると捉えている。やがてカジンスキーは、1985年に自分の犯行によって初めての死者が出たことを知る。

シーン4:夏
・夕陽に照らされる森林風景。動くものは何一つないが、風景は徐々に夕闇に沈んでゆく。
・1995年の声明(新聞に掲載された「産業社会とその未来」)と、2001年のインタビューが読み上げられる。
・このテクストの前半は、カジンスキーの思考をまとめたものとなっている。そのなかでカジンスキーは、個人にとっての自由とは、自分の生死を自分で掌握できることだと述べる。それに対して科学は人間をコントロールし、個人を社会に適応させるものであると批判する。
・テクストの後半では、ウサギ狩りに行った時の経験を追想しながら、自然のなかに暮らすことの喜びについて語る。都市環境の無機質さは人を内向的にするが、自然は人の意識を外に向かわせることについて。森に暮らして自然の一部となることについて。そして、自然のなかで五感の広がりを経験することの素晴らしさについて。

ベニングは、カジンスキーが自らを包み込む風景(=自然環境)をどのように捉えていたのかについて、そのテクストを自分の声を通して読み上げる。それによって観客は、スクリーンに映されている森林風景がカジンスキーが見ていた光景の仮象となっていることを了解し、そのうえで、風景のなかに潜んでいる社会的背景を分析することになる。もちろんベニングは、カジンスキーの思考の反社会的な部分に賛同している訳ではない。しかし、ナレーションに誘われるようにして風景に注視し、環境音に聴き入って、自然の豊穣な経験に知覚を浸していると、奇妙な感覚が意識のなかに生じてくる。五感の広がりのなかで知覚される風景の豊穣さを、反社会的な事件にまつわる、ある種の危うさと一緒に観客に経験させること。それこそが、本作におけるベニングの意図だったのかもしれない。(その意味では、同じ森林を撮影した前作『ナイトフォール』(2012)の98分間に及ぶ主観的視点は、コンセプトが異なるとはいえカジンスキーの視線と同化するものであったともいえる訳で、本作よりも危険性が高いように思える。)

本作は、社会的事件の犯人を取り巻いていたものに接近した、『アメリカン・ドリーム』に並ぶ傑作であるといえる。その危うさにおいて。

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